■ 第89話「枯れた果実の里」
南東の集落、フルーテに向かった。
カイン、シア、レナ、ソルス。四人。馬で一日。壁の内側だから安全だった。
道中、ソルスが地図を見ながら説明した。
「フルーテは昔、魔族領で最も豊かな果物の産地でした。数十種類の果実が育っていた。甘い実、酸っぱい実、季節ごとに違う色の実。——魔族領全体にここの果物が届いていたそうです」
「今は?」
「壁のおかげで少しは回復しています。でも——ほとんどの品種が実っていないと聞いています」
―――――
集落が見えた。
丘陵地帯の緩やかな斜面に、果樹園が広がっていた。木はある。たくさんある。でも——実がない。
葉は茂っている。枝は伸びている。壁が届いたおかげで、木そのものは枯れていない。
でも実がならない。花が咲かない。
広大な果樹園が、緑の葉だけを揺らしていた。実のない木。百本以上。
「……壁だけじゃ足りなかったか」シアが呟いた。
「息吹が薄いんだろう。壁の中でも、灯火がなければ息吹は少しずつしか戻らない」
―――――
集落の入り口に、男が立っていた。
大きな男だった。背が高く、肩が広い。腕が太い。農夫の身体だった。でも——目が死んでいた。
「族長のゴルドです。魔王様——ですか」
「カインです。灯火を届けに来ました」
「……灯火」
ゴルドの目が少し揺れた。でもすぐに戻った。死んだ目に。
「中へどうぞ。案内します」
―――――
集落を歩いた。
住民は二十人ほど。老人が多い。若い者は数人。子どもはいなかった。
家は手入れされていた。通りも掃除されていた。でも——活気がなかった。笑い声がなかった。
果樹園の端を通った。ゴルドが足を止めた。
「この木は——甘い赤い実をつけていました。子どもたちが一番好きだった」
木を見上げた。葉が揺れていた。実はなかった。
「こっちは玉梅。酸っぱいんですが、干すと甘くなる。冬の保存食でした」
実はなかった。
「あっちの列は星実柿。夜になると皮が光るんです。息吹を含んだ果実で。子どもたちが灯り代わりに持ち歩いていた」
実はなかった。
「全部——名前がある。全部——味がある。俺は全部覚えている。この果樹園で育ったから。親父もここで育った。じいさんも」
ゴルドが木の幹に手を当てた。
「壁が届いたとき、嬉しかった。これで木が枯れない。いつか実がなると思った。でも——三ヶ月経っても、半年経っても。花が咲かない。実がならない。木は生きてるのに」
ゴルドの手が幹の上で震えていた。
「……息吹が足りないんだと思います。壁だけでは」
「足りない、ですか」
「灯火を設置すれば変わります。この土地に息吹を満たせば——」
「……期待していいんですか」
ゴルドの声が掠れていた。
「期待するのが——怖いんです。何度も期待して、何度も裏切られてきたから」
俺はゴルドを見た。大きな男。農夫の手。太い腕。でも目が——折れていた。
「期待してください。灯火は必ず届けます」
「……」
「木の名前を全部覚えているんですよね。味も。——それなら大丈夫です。この果樹園は、あなたが覚えている限り死なない」
ゴルドが少し黙った。
「……魔王様」
「カインでいいです」
「……カイン様。一つ、お願いがあります。灯火の前に——娘を、見ていただけませんか」
「娘?」
「メアといいます。——俺の、一人娘です」
―――――
ゴルドの家に入った。
小さな家。きれいに掃除されていた。窓際に花が活けてある。枯れかけの花。
奥の部屋に案内された。
寝台があった。
少女が横たわっていた。
薄いピンクの髪。セミロング。枕の上に広がっていた。色が薄い。髪も、肌も、唇も。全部が色を失いかけていた。
目を閉じていた。呼吸が浅かった。胸がほんの微かに上下しているだけ。
薄いピンクの角が額から伸びていた。小さな角。
「メアです。十七歳。——息吹虚症と言われています」
「息吹虚症」
「身体の魔力回路が生まれつき細いんだそうです。息吹を取り込んでも、身体に巡らせられない。——妻も少しそういう体質でした。遺伝かもしれません」
寝台の横に女性が座っていた。ゴルドの妻。メアの母親。
痩せていた。顔色が悪かった。でもメアほどではない。母親は軽度で、メアは重度。
「いつからこの状態ですか」
「三年前から急に悪くなりました。壁が届く前です。息吹が枯れていた頃に。少しずつ、少しずつ弱っていって——」
ゴルドの声が震えた。
「今は——一日のほとんどを寝て過ごしています。起き上がれない。食事もほとんど取れない。——先月から、目を開けることも減りました」
「……」
「医者はいません。この集落には。薬もない。息吹が足りないから薬草も育たない。——何もできないまま、毎日娘が弱っていくのを見ていた」
ゴルドが膝をついた。大きな男が。農夫の太い腕が。震えていた。
「果樹園が枯れるのは耐えられた。木はいつか戻ると信じられた。でも——娘は。メアは——」
声が途切れた。
「あの子が死んだら——俺は、何のためにこの土地にいるかわからなくなる」
母親が泣いていた。声を殺して。
「魔王様。お願いします。何でもします。この集落の全部を差し出しても構わない。——どうか、娘を」
「顔を上げてください」
俺はメアの寝台の横に立った。
手を伸ばして、メアの額に触れた。
——冷たかった。
魔力回路を探った。封印術の応用。身体の中の魔力の流れを感じ取る技術。
回路が——細かった。針の穴くらい。普通の魔族の十分の一もない。息吹がほとんど通っていない。身体が枯れかけている。
でも——回路は生きていた。細いだけで、死んではいない。
「……ゴルドさん」
「はい」
「メアさんは助かります」
ゴルドが顔を上げた。
「回路が細いだけです。死んでいない。息吹を濃い環境に置けば、回路に少しずつ息吹が染み込んでいく。——灯火と、息吹石で」
「本当ですか……」
「本当です。——まず灯火を設置します。それからメアさんの部屋に息吹の核を置いて、首から息吹石のペンダントを下げます。身体の近くに常に息吹がある状態を作る」
「それで——」
「三日で変わります。必ず」
ゴルドが——泣いた。
大きな男が。農夫の太い腕が。膝をついて。顔を覆って。
声を上げて泣いた。
母親も泣いていた。ゴルドにしがみついて。
「ありがとうございます……ありがとうございます……」
「まだ礼には早いです。——まず灯火を作ります」
―――――
広場に出た。集落の中央。
術式を展開した。命の灯火。地面に紋様を刻んでいく。大地の奥から息吹を汲み上げる構造。
白と紫の光が広がった。命の灯火が灯った。
息吹が満ちていく。集落全体に。家の中に。果樹園に。
住民が外に出てきた。息吹を感じて。温かい空気。
「……何だ、この温かさは」
「息吹だ。命の灯火の息吹だ」
老人が膝をついた。泣いていた。
果樹園の木が——揺れた。風じゃない。息吹を吸い込んで、木が身震いした。
まだ実はならない。でも木が喜んでいるのがわかった。
―――――
メアの部屋に戻った。
息吹の核を部屋の隅に置いた。白と紫の光が部屋を満たした。
息吹石のペンダントを作った。ドルクの技術じゃない。シンプルなもの。小さな息吹石を紐で結んだだけ。でも十分だ。
メアの首にそっとかけた。
息吹石がメアの胸元で光った。白と紫の柔らかい光。
メアの顔に——ほんの微かに、色が戻った気がした。
気のせいかもしれない。でもそう見えた。
「あとは待ちます。明日、また来ます」
「……はい」
ゴルドが俺の手を握った。大きな手。農夫の手。震えていた。
「……ありがとうございます。魔王様」
「カインでいいです」
「……カイン様。この恩は——一生忘れません」
部屋を出た。
廊下で、シアが待っていた。
「……どうだった」
「回路が細いだけだ。灯火と息吹石で回復する」
「……そうか」
「三日で変わる」
「……三日か」
シアが少し黙った。
「……お前は、いつもそうだな」
「何が」
「目の前の人を、助ける」
「当然だろ」
「……当然、か」
シアが小さく呟いた。
「……その当然が、お前の一番強いところだ」
外に出た。夕暮れだった。果樹園の木が、夕日に照らされていた。
まだ実はない。でも——明日は違う。明後日も。三日後には。
この果樹園が、色づく日が来る。




