■ 第88話「花の意味」
トーラに来ていた。
カイン、シア、レナ、ルティア。四人。ソルスは王都で道の設計を続けている。
鉱山の視察だった。九対一の配合石の量産が軌道に乗ったが、もっと純度の高い鉱石があれば、さらに性能が上がるかもしれない。
―――――
坑道の奥に入った。
前回見た新しい鉱脈。火紅石が岩肌に筋のように走っている。息吹の灯りが等間隔に並んでいるが、奥に行くほど暗い。
「ここから先は灯りが届いていません」ルティアが言った。「鉱脈はさらに奥に続いているが、暗くて作業ができない」
「灯火を置こう」
「命の灯火を? 坑道の中に?」
「坑道の奥に命の灯火を置いたら、息吹が鉱石に直接浸透する。もっと純度の高い、変性した鉱石ができるかもしれない」
シアが目を光らせた。
「それは——理にかなっている。命の灯火を鉱脈の近くに設置すれば、鉱石の結晶構造が変わる可能性がある」
「やってみよう」
命の灯火を一つ、坑道の奥に設置した。白と紫の光が暗い坑道の奥を照らした。
息吹が鉱脈に染み込んでいく。火紅石の赤い筋が、少しだけ明るくなった気がした。
「効果が出るまで時間がかかる」シアが言った。「一ヶ月後に採掘して比較する」
「よし。楽しみだな」
―――――
坑道を出た。
トーラの町を歩いた。午後の陽射しが山の斜面を照らしていた。
レナが鍛冶場を見に行った。バルドから来た鍛冶師たちが働いている。シアは町の中央に置いてある灯火の調整に向かった。出力のバランスを確認するらしい。
俺とルティアが二人になった。
町の外れを歩いていた。山の斜面に沿った小道。岩場と草地の境目。
足元に——花が落ちていた。
ピンクの花。チューリップに似ているが、花びらの枚数が多い。十枚以上。重なり合って、丸みを帯びた形をしている。茎が折れて地面に落ちていた。
拾い上げた。
綺麗だった。濃いピンク。花びらの先端が少し白くなっている。見たことのない花だった。
ルティアに聞こうと思った。トーラの花だろう。名前を知りたかった。
「ルティア、この花——」
花を差し出した。
ルティアが——固まった。
深紅の瞳が見開かれていた。花を見ていた。俺の手にある花を。俺の手から差し出されている花を。
「……え」
ルティアの顔が赤くなった。一瞬で。耳まで。首まで。
花を——受け取った。両手で。大事そうに。
そして——走った。
振り返らずに。全力で。建物の角を曲がって、石造りの家の壁に背中をつけて、花を胸に抱きしめたまま、こちらを覗いていた。
深紅の瞳が潤んでいた。
そして——建物の中に入っていった。
俺は立っていた。
何が起きたのかわからなかった。
花の名前を聞きたかっただけなのに。
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【ルティア】
心臓が壊れるかと思った。
あの花は——ティレーナ。
トーラにしか咲かない花。山の斜面の、日当たりのいい岩場にだけ咲く。
男が女に渡す。それは——婚姻を申し出るとき。もしくは、子を成すことを申し出るとき。トーラの古い文化。子どもの頃から教わること。男がティレーナを摘んで、女に渡す。それが全ての始まり。
カインが——あの花を私に渡した。
魔王だ。魔王が婚姻を申し出ることはおそらくない。なら——子を成したいということか。
私に。
私に、思いを寄せてくれていたのか。
嬉しかった。嬉しくて涙が出た。花を胸に抱きしめた。花びらが潰れそうなくらい強く。
魔王からの申し出は、女にとって最高の名誉だ。魔族の文化として。魔王の血を受け継ぐ子を産むことは、種族への最大の貢献。
でもそんなことより——カインだ。
あのカインだ。
ずっと前から思いを寄せていた。トーラに灯火を届けてくれたときから。鉱山を一緒に見たときから。屋上で酒を飲んだときから。肩に寄りかかったときから。
「報告書がなくても来い」と言ってくれたときから。
ずっと——ずっと好きだった。
それを、私からじゃなく、あの人から。
夢のようだった。
涙が止まらなかった。建物の中で。一人で。花を胸に抱いて。
——落ち着け。落ち着いて、カインのところに戻ろう。ちゃんと返事をしよう。
涙を拭いた。深呼吸した。花を大事に持った。
建物の扉を開けた。
外を見た。
カインが立っていた。さっきと同じ場所に。
——その手に、もう一輪のティレーナがあった。
地面に落ちていたのをもう一つ見つけたのだろう。
シアが灯火の調整から戻ってきていた。カインの前に立っていた。
「カイン、その花は何だ」
「わからない。見たことない花だったから、ルティアに聞こうとしたんだけど逃げられた」
「……綺麗な花だな」
「シアもそう思うか。やる」
カインがシアにティレーナを渡した。
ルティアの足が止まった。
——ああ。
そうだった。
トーラの文化なんて、知っているわけがない。カインは人間として育った。魔族の文化もまだ全部は知らない。ましてトーラだけの古い風習など。
ただの花だったんだ。綺麗だから拾った。名前を聞きたかった。それだけ。
勝手に——勝手に喜んでしまった。
舞い上がって、泣いて、夢のようだと思って。
全部、勝手に。
胸の花を見下ろした。ティレーナ。ピンクの花びらが少し潰れていた。強く抱きしめすぎた。
馬鹿だ。私は馬鹿だ。
でも——捨てられなかった。
潰れた花を、そっと懐にしまった。
―――――
【シア】
花を受け取った。
ピンクの花。見たことがない。トーラの花だろう。カインが拾ったらしい。
それよりも——さっきの光景が頭から離れなかった。
カインがルティアに花を渡した。ルティアが真っ赤になって走って逃げた。
何だあの反応は。
花を一つ渡されただけであの反応。おかしい。何かある。
まず確認する必要がある。カインがトーラの文化を知って渡したのか、知らないで渡したのか。
「カイン」
「ん」
「この花。ルティアにも渡したのか」
「ああ。名前を聞こうと思って」
「名前を聞こうと思って渡した」
「うん」
「それだけか」
「それだけだけど」
知らない。完全に知らない。この顔は知らない顔だ。
安心した。
——安心した?
安心しているのに、怒りが収まらない。
知らないで渡したとしても。ルティアに先に渡した。私じゃなくルティアに。ルティアと二人きりのときに。
筋違いだとわかっている。カインは何も悪くない。花の名前を聞きたかっただけだ。
わかっている。
わかっているのに——
「カイン」
「ん」
「その花をちぎって、私にもよこせ」
「え? もう一輪あるけど——」
「いいからよこせ」
カインが花を渡してくれた。普通に。何の疑問もなく。
——ああ、知らないんだ。
花を受け取った。ピンクの花びら。綺麗だった。
安心した。
でも怒りは収まらなかった。
私に最初に渡していない。
カインのバカ。
「……帰る」
「え、まだ——」
「帰る」
シアは花を握りしめて歩き出した。
―――――
【ルティア】
建物の影から見ていた。
シアがカインに「花をよこせ」と言っていた。カインが渡していた。
シアが怒っていた。理由はわかる。自分が先じゃなかったから。
——同じだ。
私もシアも。カインの前ではみんな同じになる。
懐の花に触れた。潰れたティレーナ。
意味なんてなかった。カインは知らなかった。ただの花だった。
でも——もらった事実は消えない。
カインの手から、私の手に渡された。それだけは本当だ。
潰れていても。意味がなくても。
——捨てない。絶対に捨てない。
ルティアは花を懐に押し込んで、深呼吸して、何事もなかったような顔を作って、カインの前に戻った。
「……さっきは悪かった。急用を思い出して」
「大丈夫か?」
「大丈夫だ」
「……顔赤いけど」
「山の風のせいだ」
「そうか」
鈍い男だ。
でも——その鈍さに、何度も救われている。




