■ 第87話「椅子と、それから」
シアが椅子を買ってきた。
二脚。
執務室に入ったら、机の横に新しい椅子が二つ並んでいた。木製。背もたれに細い彫刻が入っている。同じ形。同じ大きさ。でも色が違った。
一脚は白。もう一脚は碧。
「……シア」
「買った」
「色違い」
「お揃いだ」
シアは何でもないように言った。術式書を開いていた。でも耳が赤かった。
「白がシアで、碧が俺か」
「……髪の色と、瞳の色だ。わかるだろう」
「わかる」
「なら座れ」
碧い椅子に座った。座り心地がよかった。
「いつ買ったんだ」
「今朝。市場に出ていた家具職人から。二脚で値切った」
「値切ったのか」
「当然だ。二脚買うなら安くなるべきだ」
シアは合理的だった。お揃いの椅子を買うときでさえ。
「……ありがとう」
「礼はいい。隣から椅子を持ってくるのが面倒だっただけだ」
「お揃いにしたのは?」
「……バラバラだと見栄えが悪い」
「色を合わせたのは?」
「……座れと言った」
もう座ってるんだけど。
―――――
二人で仕事をした。いつも通り。
壁の維持管理。道の舗装の進捗確認。九対一の配合石の在庫。灯火の届いていない集落の地図。
シアが術式書に書き込みながら、ぽつりと言った。
「カイン」
「ん」
「……私のことをどう思っている」
「どう思っているって?」
「見た目の話だ」
「見た目?」
シアが術式書から目を上げなかった。
「私は——背が低い。小さい。貧相な体をしている。胸もない。リーナやルティアと並んだら——」
「シア」
「黙って聞け。——私はこの見た目が嫌いだ」
シアの声が小さくなった。
「ムルトゥス様の弟子になってから、ずっと術式書の前にいた。人と関わらなかった。予言の守り手は孤独な役割だと言われた。話し方もわからない。笑い方もわからない」
「……」
「ノアは太陽みたいに笑う。リーナは花が咲くように笑う。ルティアは凛としていて美しい。——私は? 無表情で、口が悪くて、明るくない。こんな自分が嫌になる」
シアが膝の上で拳を握っていた。
「……一番の美人だと言われたことがある。この集落に来たばかりの頃。男の兵士が言っていた。『予言の守り手は美人だ』と」
「……」
「でも誰も近づいてこなかった。美人だと言うだけで。話しかけてこなかった。怖かったんだろう。近づきにくかったんだろう。——それが余計に自信をなくした」
シアが俺を見た。銀色の瞳が揺れていた。
「カインは——私のこの見た目を、どう思っているんだ」
俺は少し考えた。
「シアは綺麗だよ」
「お世辞はいらない」
「お世辞じゃない」
「……」
「背が低いのは知ってる。小さいのも知ってる。でも——シアが術式書を読んでるときの横顔が好きだ。真剣な目が好きだ。耳が赤くなるのが好きだ」
シアが固まった。
「話し方がかわいくないって言ったけど、俺はシアの話し方が好きだ。短くて、まっすぐで、嘘がない」
「……」
「明るくないって言ったけど、シアはシアのままでいい。太陽みたいに笑わなくていい。花みたいに咲かなくていい。シアの笑い方は——口元がほんの少しだけ緩むやつだ。あれが好きだ」
シアが何も言わなかった。
長い沈黙。
「……好き、を何回言った」
「数えてない」
「四回だ」
「数えてたのか」
「……数えた」
シアの顔が真っ赤だった。耳も首も。手まで赤い。
「……カインは、ずるい」
「ノアにも言われた」
「ノアの名前を出すな。今は」
「ごめん」
―――――
しばらく無言で仕事をした。
シアの手が震えていた。術式書に書き込む文字がいつもより歪んでいた。
「……カイン」
「ん」
「目を閉じろ」
「……え」
「閉じろ」
ノアにも同じことを言われた。砂浜で。
目を閉じた。
足音が聞こえた。小さな足音。椅子から立ち上がる音。こちらに近づく音。
シアの気配が目の前にあった。近かった。息の音が聞こえた。
——唇に、触れた。
柔らかかった。温かかった。
ノアのときは一瞬だった。触れて、離れた。
シアは——離れなかった。
数秒。もっとかもしれない。唇が触れたまま。シアの息が俺の頬にかかっていた。小さな手が俺の服の前を掴んでいた。
離れた。
目を開けた。
シアがいた。顔が近かった。銀色の瞳が潤んでいた。真っ赤だった。全身が。
「……いま」
「黙れ。何も言うな」
「でも——」
「何も言うな。一言でも言ったら死ぬ」
「シアが?」
「私が」
シアが踵を返した。自分の椅子に戻った。白い椅子。座った。術式書を開いた。
手が震えていた。ページが開けなかった。
「……仕事に戻る」
「……はい」
「今のことは——」
「忘れろ、か?」
「……忘れるな」
小さい声だった。
「絶対に忘れるな」
「……忘れない」
「……そう」
シアが術式書に目を落とした。文字が読めているわけがなかった。
俺の唇に、まだシアの温もりが残っていた。
―――――
【シア】
夜。自分の部屋。寝台の上。
シアは眠れなかった。
目を閉じると、さっきのことが蘇る。
カインの唇。柔らかかった。温かかった。
一回目のキスは訓練場だった。あのときは——何も覚えていない。緊張しすぎて、一瞬で、何が起きたかわからないまま終わった。
リーナは戦場でキスした。ノアは砂浜で告白してからキスした。二人とも、ちゃんと覚えているだろう。
私だけ覚えていない。それが悔しかった。
だからもう一回した。今度はちゃんと。覚えていられるように。
——それと、回数で負けたくなかった。リーナが一回。ノアが一回。私が一回。同点だった。だから二回目をした。これで私が一番多い。
でも——そんな計算は、唇が触れた瞬間に全部消えた。
離れるつもりだった。一瞬で。
離れられなかった。
唇が触れた瞬間、頭が真っ白になった。何も考えられなくなった。離れなきゃと思ったのに、身体が動かなかった。
——気持ちよかった。
ふわふわした。世界が溶けたみたいだった。シアの人生で、あんな感覚は初めてだった。
術式書を読んでいるときの集中とも違う。お茶を飲んでいるときの安らぎとも違う。
もっと——もっと触れていたかった。
離れた瞬間に、すぐにもう一度したくなった。
カインの唇に。もう一度。
でも——我慢した。
変な女だと思われたくなかった。がっついている女だと思われたくなかった。
シアは予言の守り手だ。魔王の補佐官だ。冷静で、合理的で、感情に振り回されない。
——嘘だ。
今、完全に振り回されている。
寝返りを打った。枕に顔を埋めた。
唇にまだ感覚が残っている。温もりが消えない。
——もう一回。
——もう一回だけ。
——だめだ。寝ろ。明日がある。仕事がある。
目を閉じた。カインの顔が浮かんだ。碧い瞳。白銀の髪。困った顔。「シアが?」と聞いたときのあの顔。
——好き。
布団を頭まで被った。
顔が熱かった。心臓がうるさかった。
もう一回。あの感覚を。もう一回だけ。
——寝ろ。
——寝れない。
シアは結局、夜明け近くまで眠れなかった。
翌朝、カインが執務室に来たとき、シアは椅子で寝ていた。白い椅子。碧い椅子の隣で。
術式書を枕にして。
カインが上着をかけてくれた。
シアはそれに気づいていた。寝たふりをしていた。
上着が温かかった。カインの匂いがした。
——もう一回。
寝たふりのまま、唇に指を当てた。
まだ、残っていた。




