■ 第86話「嫉妬」
シアが知った。
ノアの両親が俺に何を頼んだか。誰から聞いたのかわからない。レナか。ノアの母親か。
翌朝、執務室に入ったら、シアが座っていた。
術式書を開いていた。読んでいなかった。
「おはよう、シア」
「……おはよう」
声が低かった。いつもの平坦な声じゃない。もっと低い。もっと冷たい。
「……どうした」
「何でもない」
「嘘だろ」
「何でもないと言った」
シアが術式書のページをめくった。めくった先のページも読んでいなかった。
「……シア」
「ノアの両親に。子を成してくれと頼まれたそうだな」
直球だった。
「……誰から聞いた」
「レナ。——レナはノアの母親から聞いた。ノアの母親がレナに『魔王様に断られた』と相談したらしい」
「断ったわけじゃない。慎重にやりたいと——」
「わかっている」
シアが術式書を閉じた。ぱたん。いつもより強く。
「魔族の文化だ。知っている。男が少ない。強い魔力の男が子を多く残す。魔王なら尚更。——理屈はわかっている」
「……ああ」
「グラザードもムルトゥスもみんな思っている。口に出さないだけで。ノアの両親が最初に言っただけ。——全部わかっている」
「……」
「私だって魔族だ。この文化の中で育った。父が戦死した。母が一人で私を育てた。男が少ないことを知っている。種族の存続のために何が必要かも知っている」
シアの声が震えていた。怒りじゃなかった。もっと複雑な何か。
「わかっている。全部わかっている。——わかっているのに」
シアが俺を見た。銀色の瞳が揺れていた。
「——なんでノアなんだ」
声が小さかった。
「なんでノアの両親が先に言うんだ。なんで——私じゃないんだ」
——あ。
「シア——」
「言うな。今のは忘れろ」
「忘れられない」
「忘れろと言った」
「シアが——」
「黙れ!」
シアが立ち上がった。椅子が倒れた。
銀色の瞳に涙が浮かんでいた。泣いてはいなかった。浮かんでいるだけ。
「……魔族の文化として正しいことはわかっている。カインが複数の女性と子を成すことが種族のためになるのもわかっている。それが魔王の役割だということも——」
「シア」
「でも——でも私は」
シアの唇が震えていた。
「私は——カインを一人占めしたい。そう思ってしまう。魔族として間違っている。種族のことを考えたらそんなこと言えない。わかっている。——わかっているのに、止められない」
シアが両手で顔を覆った。
「……最低だ。私は」
「最低じゃない」
「最低だ。種族の存続より自分の気持ちを優先している。予言の守り手が——魔王の補佐官が——こんな」
「シア」
俺はシアの前に立った。
「最低じゃない。自分の気持ちを持っていることは、最低じゃない」
「……」
「俺は——ノアの両親に言った。俺の考えで動きたい。慎重にやりたいと」
「聞いた」
「シアにも同じことを言う。慎重にやりたい。——急いで答えを出したくない」
「……それは。結局、答えが出ないということじゃないのか」
「出す。必ず出す。でも今じゃない」
「……いつだ」
「わからない。でも——逃げない。約束する」
シアが顔を上げた。涙は流れていなかった。目が赤いだけ。
「……約束か」
「ああ」
「カインの約束は——今まで全部守ってきた」
「守る。これも」
シアが少し黙った。長い沈黙。
「……一つだけ聞いていいか」
「何でも」
「私は——候補に入っているのか」
「……候補って言い方はしたくない」
「じゃあ何だ」
「全員大事だ。シアも。ノアも。リーナも。——誰かを選ぶとか選ばないとか、そういう話にしたくない」
「……それは答えになっていない」
「今の俺にはこれが精一杯だ」
シアが椅子を起こした。座り直した。術式書を開いた。
手が震えていた。でもページをめくり始めた。
「……仕事に戻る」
「ああ」
「お茶を淹れろ。——お前が淹れろ。今日は」
「俺が?」
「私は今、立ちたくない。足が震えてるから」
——シアが。あのシアが。足が震えている、と。
俺は薬草茶を淹れた。二杯分。シアの杯を机に置いた。
シアが杯を両手で包んだ。温めるように。
「……カイン」
「ん」
「……ノアの母親に伝えてくれ。次は——私の母も同じことを言いに来るかもしれないと」
「シアの母親?」
「ムルトゥス様の弟子になる前に亡くなった。——いない。冗談だ」
「冗談きついな」
「……ごめん。少しおかしくなっている」
シアが薬草茶を一口飲んだ。
「……美味くない」
「ごめん」
「……でも、カインが淹れた」
「うん」
「……それでいい」
シアの耳が赤かった。目も赤かった。でも口元がほんの少しだけ緩んでいた。
嫉妬と葛藤と、魔族の文化と、自分の気持ちと。全部が混ざった顔だった。
——この人を、雑に扱うわけにはいかない。
絶対に。




