■ 第85話「魔族の願い」
ノアの家に招かれた。三回目。
今回は夕食じゃなかった。「お話がある」とノアの母親に言われた。ノアは知らないようだった。
「カイン、お母さんが呼んでるけど何だろう?」
「わからない。行ってみよう」
―――――
ノアの家に着いた。
母親が出迎えた。いつもの笑顔。でも少し緊張していた。
「魔王様。今日はお忙しいところ——」
「カインでいいですよ」
「……カイン様。少し、大事なお話があります。奥の部屋で」
奥の部屋。ノアの両親の寝室の隣にある小さな部屋。テーブルと椅子が三つ。
「ノアはここで待ってて」
「え? あたしは入っちゃだめなの?」
「大人の話なの」
「あたしも大人だけど——」
「待ってなさい」
ノアが不満そうに廊下に残された。
―――――
三人で座った。カイン、ノアの父親、ノアの母親。
父親が口を開いた。顔が真剣だった。
「カイン様。単刀直入にお願いします」
「はい」
「——ノアと、子を成していただけないでしょうか」
空気が止まった。
「……」
「お願いします」
父親が頭を下げた。深く。母親も頭を下げた。
「……顔を上げてください」
「お願いします。どうか」
二人とも必死だった。軽い気持ちで言っているのではなかった。
「……理由を聞かせてください」
母親が顔を上げた。
「カイン様。魔族の男は戦士として前線に立ちます。百年間の戦いで、たくさんの男が命を落としました。今、魔族の男女比は大きく偏っています。女性の方がずっと多い」
「……ああ」
「種族が生き残るために、強い魔力を持つ男が多くの子を成す。それが——魔族が百年間生き延びてきた方法です」
父親が続けた。
「文化というより、生き残るための術です。男が少ない。だから一人の男が複数の女性との間に子を残す。そうしなければ、魔族は百年前に滅んでいたかもしれない」
「……」
「魔王様は——カイン様は、魔族の中で最も強い魔力を持っています。ヴェルデの力。前の魔王でも倒せなかったベルグリムを霧散させた力」
母親が言った。
「カイン様のお子が生まれたら、その子は強い魔力を受け継ぐかもしれない。次の魔王になるかもしれない。——魔族の未来そのものです」
「だからどうか」父親が再び頭を下げた。「ノアと——」
「顔を上げてください」
俺は二人を見た。
必死だった。娘を軽んじているわけじゃない。魔族の存続のため。百年間の戦いの中で生まれた、生き残るための文化。
理解できた。
郷に入っては郷に従え、という言葉もある。俺はもう魔族だ。角がある。ヴェルデがある。魔王だ。
でも——
「お気持ちは、わかります」
「では——」
「わかります。魔族の文化も。男女比のことも。魔王の血を残すことの意味も。全部理解しています」
「……」
「でも——俺は、俺の考えで動きたいんです」
二人が顔を上げた。
「こういうことは慎重にやりたい。ノアの気持ちもある。他の仲間の気持ちもある。——種族の存続のために急いで子を作る、というのは。俺にはまだ、そう簡単には決められない」
父親が少し黙った。
「……カイン様は、ノアのことをどう思っていますか」
「大切に思っています。それは本当です」
「それだけ、ですか」
「……今は、それ以上のことを軽々しく言えない。言ったら、それは嘘になるかもしれない」
母親が微笑んだ。少し悲しそうに。でも理解のある微笑みだった。
「……カイン様らしいですね。慎重で、誠実で」
「すみません」
「謝らないでください。——待ちます。ノアも待てる子です」
父親が頷いた。
「……急かして申し訳なかった。だが——これだけは知っておいてほしい」
「何ですか」
「グラザード殿も、ムルトゥス様も、王都の民も。——みんな同じことを思っている。口に出さないだけだ。魔王の血を、次の世代に繋いでほしいと」
「……」
「俺たちが最初に言っただけだ。みんなが思っていることを」
重かった。
魔族全体の願い。魔王の血を残すこと。次代の魔王候補。種族の未来。
俺一人の問題じゃなかった。
―――――
部屋を出た。
廊下にノアが座っていた。壁にもたれて。
「……何の話だったの?」
「……大人の話」
「教えてくれないの?」
「……いつか話す」
ノアが俺を見た。深い青の瞳。何かを察している目だった。
「……お母さんたち、真剣な顔してた」
「ああ」
「……あたしのこと?」
「……いつか話す」
「……ずるい」
ノアが立ち上がった。俺の腕を掴んだ。
「何の話でも、あたしはカインの味方だからね。それだけ言っとく」
「……ありがとう」
「えへへ」
ノアが笑った。太陽みたいに。でもどこか不安そうだった。
―――――
夜、一人で考えた。
魔族の文化。生き残るための術。男が少ないから、強い男が多くの子を残す。
理屈はわかる。百年間の戦いで男が戦死し続けた。女性の比率が高くなった。種族を存続させるために、そうするしかなかった。
でも——俺は人間として育った。孤児院で。一人で。
家族の温かさを知らなかった。ノアの家で初めて知った。
だからこそ——家族というものを、大事にしたい。急いで作るんじゃなく。慎重に。自分の気持ちと向き合って。
シアのこと。リーナのこと。ノアのこと。ルティアのこと。
全員の顔が浮かんだ。
——難しい。
でも逃げない。いつか、ちゃんと向き合う。




