■ 第83話「日常へ」
ベルグリムが消えて三日が経った。
王都は日常に戻っていた。
パン屋が朝からパンを焼いている。酒場が夕方に開く。子どもたちが広場で走り回っている。鍛冶場からバルドの槌の音が響いている。
何事もなかったかのように。
でも違った。空気が変わっていた。枢機卿が姿を現した。分身だったが、それでも——百年間の黒幕が目の前に来た。その事実が、静かに王都の底に沈んでいた。
―――――
軍議を開いた。
グラザード。ムルトゥス。ベルク。シア。レナ。将たち。
「まず、ベルグリム討伐について」グラザードが口を開いた。
全員が俺を見た。
「魔王様。前の魔王でも倒せなかった災害級の魔獣を討伐した。これは三百年の歴史の中で初めてのことだ」
グラザードが立ち上がった。将たちも立ち上がった。
全員が頭を下げた。
「魔王様。ありがとうございます。あなたのおかげで、百年間の恐怖が消えました」
「……やめてください。立ってください」
「やめません」
グラザードの声が震えていた。
「百年間、あの魔獣の封印がいつか解けるかもしれないという恐怖が、魔族の心の底にあった。それが——消えた。永久に」
ムルトゥスが杖を突きながら立った。
「カイン殿。前の魔王は儂の友であった。あの男は強かった。それでもベルグリムには勝てなかった。封印するのが精一杯だった。——お前さんは、それを超えた」
「俺一人の力じゃないです。シアの術式があって、ソルスとドルクの鉱石魔術具があって——」
「わかっておる。お前さんがいつもそう言うのは知っておる。だが——お前さんが立たなければ、何も始まらなかった。それだけは事実だ」
「……ありがとうございます」
―――――
「次に、ベルグリムの宝玉について」ベルクが報告書を開いた。
「広場に残っているあの巨大な碧い宝玉ですが、ソルス殿が調査しました」
「結果は」
「膨大な魔力が封じ込められています。ヴェルデの魔力で染まっているため、通常の魔力とは性質が異なります。現時点では用途不明。ただし——」
「ただし?」
「ソルス殿の見解では、鉱石魔術具の素材として使える可能性があるとのことです。研究に時間がかかりますが」
「急がなくていい。丁寧に調べてくれ」
「了解です」
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「最後に、道の舗装計画について」
ソルスが呼ばれた。図面を抱えて入ってきた。
「王都からトーラまでの舗装路、王都からナーヴェルまでの舗装路。二本の主要道路を最優先で整備します」
ソルスが図面を広げた。
「トーラへの道は山間部を通るため、岩場の切り開きが必要です。大工と鍛冶師の協力が要ります。ナーヴェルへの道は平地が多いので、先に完成するでしょう」
「工期は」
「トーラまで二ヶ月。ナーヴェルまで一ヶ月。息吹の恩恵で作業効率が高いので、通常の半分の工期でいけるかと」
「よし。始めてくれ」
「了解です。——あと、道沿いに九対一の鉱石魔術具を使った街灯を設置すれば、夜間の通行も安全になります」
「半永久的な街灯か」
「はい。昼は息吹を吸収して、夜に発光する。息吹石の交換が不要です」
「それは助かる。量産体制はどうだ」
「ドルクの窯がフル稼働中です。一日に三十個ペースで九対一の配合石が作れます。カインさんに魔力を込めてもらう必要がありますが」
「朝の分だな。いつも通りやる」
「ありがとうございます」
ソルスが一礼して去っていった。歩きながら図面に書き込んでいた。壁にぶつかりそうになっていた。
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軍議が終わった。
昼過ぎ。王都の通りを歩いた。
九対一の鉱石魔術具で作った新しい街灯が、ガラスの通りに一本だけ試験設置されていた。まだ昼だから光っていない。でも夕方になれば、白と紫の柔らかい光が灯るはずだ。息吹石を交換しなくていい。半永久。
ドルクが工房の窓から顔を出した。
「魔王様! 新しい街灯の石、綺麗に嵌りましたよ!」
「ありがとう、ドルク。夕方が楽しみだ」
「こっちも楽しみです! 次は色付きも試してみたいんですが——」
ドルクが延々と話し始めた。職人の目が輝いていた。
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夕方、シアの部屋に行った。
約束はしていなかった。でも行った。
「……来たのか」
「来た」
「約束していない」
「してないけど来た」
「……勝手だな」
でもシアは扉を開けた。隣の部屋から椅子を持ってきた。
「……カイン専用の椅子、まだ買ってない」
「毎回言ってるな」
「買う暇がない。ベルグリムのせいだ」
「もう終わったぞ」
「……明日買う」
薬草茶を淹れてくれた。二人で飲んだ。
「シア」
「何」
「軍議で感謝されたとき、お前の名前も出したかった」
「出す必要がない」
「シアがいなかったら俺は——」
「また同じことを言う」
「本当のことだから何度でも言う」
シアが杯に口をつけた。少し間があった。
「……あの石」
「石?」
「一対一の。碧い石。お守りにした、あれ」
「ああ」
「あれがヴェルデに応えた理由。まだわからない」
「俺もわからない」
「……ソルスに調べてもらっている。でも数値上は魔力が通らないはずの配合だ。理屈が合わない」
「理屈じゃなかったんだと思う」
「……何だと思う」
「シアが作ってくれたから」
シアが固まった。
「……それは科学的な説明ではない」
「科学じゃない。でも本当だ」
「……」
シアが杯を置いた。耳が赤かった。
「……もう一杯淹れる」
「ありがとう」
「礼はいい」
シアが立ち上がった。お茶を淹れに行く途中で、俺の椅子の横を通った。
手が——俺の肩にそっと触れた。一瞬だけ。
すぐに離れた。何事もなかったように薬草茶を淹れ始めた。
——今の、絶対わざとだろ。
でもシアは何も言わなかった。背中が赤かった。
薬草茶の湯気が、二人の間に揺れていた。




