■ 第82話「百年ぶりの憎悪」
碧い粒子が降り止んだ。
空が明るくなった。ベルグリムが遮っていた太陽が戻った。
王都に光が差した。
―――――
壁の色が赤から白と紫に戻った。
地下壕の中で、民がそれに気づいた。
「壁が……戻った」
「終わったのか……?」
最初に地上に出てきたのはテオだった。
「カインが勝った!! カインが勝った!!」
叫びながら階段を駆け上がった。
続いて人が溢れ出した。一人、二人、十人、百人。地下から地上へ。光の中へ。
広場に碧い粒子がまだ微かに漂っていた。光る雪のように。
「……綺麗」
ノアが空を見上げていた。両親の手を握ったまま。
グラザードが地上に出た。広場を見渡した。ベルグリムがいた場所に、巨大な碧い宝玉が転がっていた。
「……勝ったのか」
「勝ちました」
カインが立っていた。広場の中央に。杖は捨てていた。手の中に碧い石を握りしめていた。
シアがカインの隣にいた。目が赤かった。泣いた跡があった。
グラザードが頭を下げた。深く。何も言わなかった。言葉より深い礼だった。
―――――
民が広場に集まってきた。
ベルグリムの宝玉を見て、息を飲む者。泣く者。笑う者。
ガラが走ってきた。すり鉢を持ったまま。
「カイン! 身体を見せろ! 魔力回路は大丈夫か!」
「たぶん大丈夫——」
「たぶんじゃない! 座れ!」
ガラに怒られながら診てもらった。三回目だった。
ノアが来た。泣いていた。
「帰ってきた……」
「約束しただろ」
「うん……約束してくれた……」
ノアが俺に抱きついた。人前で。両親の前で。何も気にしていなかった。
ノアの母親が微笑んでいた。父親が目を逸らしていた。泣きそうな顔を隠していた。
リーナが来た。子どもを抱いていた。あの子だ。
「カインさん……!」
「ただいま」
「おかえりなさい……!」
リーナの草色の瞳から涙がこぼれた。三日月の目で泣いていた。
レナが来た。泣いていなかった。笑っていた。
「ぶっ飛ばしてきたな」
「ああ」
「かっこよかったぞ。——でも次は一人で行くな。あたしも連れていけ」
「考えとく」
「考えるな。連れていけ」
バルドが来た。
「魔王様」
「ん」
「ありがとうございます」
いつもの一礼。でも今日は違った。声が震えていた。
「この町を守ってくれた。俺たちの居場所を」
「当然のことをしただけだ」
「……その言葉、もう慣れました。でも毎回言います。ありがとうございます」
ドルクが宝玉を見に来た。
「なんだこれは……! こんな鉱石見たことない……!」
「ベルグリムの核だ。ヴェルデの魔力で染まってる」
「触っていいですか!?」
「あとでな」
ムルトゥスが杖をつきながら来た。宝玉を見た。長い間、黙って見ていた。
「……前の魔王にできなかったことを、やったな」
「封印じゃなく、霧散させた。もう復活しない」
「……ああ。もう復活しない。——百年間の脅威が、消えた」
ムルトゥスが微笑んだ。目が潤んでいた。
―――――
夕暮れが近づいていた。
広場に人が溢れていた。自然と祝宴の雰囲気になっていた。バルドが酒場から樽を運んできた。パン屋が残りのパンを全部出した。
生きている。全員。王都が残っている。灯火が点いている。街灯が光っている。
日常が——守られた。
俺は広場の端のベンチに座っていた。疲れていた。身体中が痛い。でも気分は悪くなかった。
シアが隣に座っていた。何も言わなかった。ただ隣にいた。
「シア」
「何」
「ペンダント、効いたよ」
「……あれは使い物にならない石だ」
「使い物になった。お前のおかげで」
「……理屈がわからない」
「理屈じゃない。お前の——」
「それ以上言うな。恥ずかしい」
「……はい」
シアの耳が赤かった。でも口元が緩んでいた。
―――――
そのとき。
空気が変わった。
一瞬だった。広場の喧騒が——薄くなった。音が遠くなった。
殺気じゃない。もっと静かなもの。もっと冷たいもの。
俺は立ち上がった。シアも立ち上がった。
広場の向こう側。人混みの切れ目。
男が立っていた。
白い修道服。フードを深く被っている。背は高くない。痩せている。杖もなければ武器もない。
ただ——立っていた。
誰も気づいていなかった。民は騒いでいる。酒を飲んでいる。笑っている。この男に気づいているのは、俺とシアとレナとグラザードだけだった。
男がフードを上げた。
老人だった。いや——老人なのか若いのかわからない顔だった。皺がある。でも目が若い。濁りのない目。百年を見てきた目。
「見事だったよ」
声が響いた。静かな声。でも広場の端まで届いた。
「カイン・アーヴェル」
フルネームで呼ばれた。人間だった頃の名前。
「まさか魔族になって魔王にまでなるとは。大誤算だった」
男が一歩近づいた。
「斬首刑にしておけばよかったよ」
笑っていた。穏やかに。でもその穏やかさが——異質だった。
「すべての計画をことごとく無駄にしてくれるね、君は」
グラザードが剣に手をかけた。レナが鞘を鳴らした。将たちが動いた。
男は気にしなかった。
「なんと憎い」
声に感情が乗った。初めて。
「前回の魔王よりもずっと憎いよ」
深紅——いや、何の色もない目が、俺を見ていた。
「でもありがとう」
「……何だと」
「この気持ちを思い出させてくれて」
男が——笑った。本当に嬉しそうに。心の底から。
「百年ぶりだよ。こんなに誰かを憎いと思ったのは」
——枢機卿グレゴリウス。
百年間、不老の薬で生き続けた男。人間の国を裏から支配し、魔族を醜悪だと広め、奴隷にし、勇者パーティーを飾りにし、すべてを仕組んできた男。
初めて——目の前にいた。
レナが動いた。
誰よりも速く。剣を抜いて、一直線に。枢機卿の首を狙って。
剣が——通り抜けた。
枢機卿の身体を、剣が突き抜けた。血は出なかった。手応えがなかった。
枢機卿の身体が——砂のように崩れ始めた。
足元から。砂粒になって。風に散っていく。
崩れながら、枢機卿はまだ笑っていた。
——次の瞬間。
広場の反対側。人混みの向こう。
同じ白い修道服の男が立っていた。同じ顔。同じ声。
笑っていた。心底おかしそうに。
「本人が現れるわけないだろう」
肩を揺らしていた。
「分身だよ。あたりまえだろう」
まだ笑っている。余裕だった。圧倒的な余裕。
「ではまた会おう、カイン・アーヴェル」
砂のように崩れた。風に散って。消えた。
今度は——どこにも現れなかった。
静寂が落ちた。
広場の民が気づいていた。異変に。笑い声が止まっていた。
グラザードが剣を収めた。
「……来たか」
「来ました」
「分身か。本体は安全な場所にいる」
「ええ。でも——来てくれたおかげで、一つわかりました」
「何がわかった」
「ベルグリムは枢機卿が放ったものだ。本人がわざわざ姿を見せに来た。結果を確認しに来たんだ。——そして俺が勝ったことを確認して、笑った」
「笑った、ということは——」
「次がある」
風が吹いた。砂の残り香すらなかった。何も残っていなかった。
夕日が沈んでいた。街灯が灯り始めていた。白と紫の光。
日常が戻っている。でも——影が差した。
百年間の黒幕が、初めて姿を見せた。
戦いは、まだ始まったばかりだった。




