■ 第81話「碧の魔王」
音が消えた。
ベルグリムの足音も。風の音も。自分の心臓の音すら聞こえなくなった。
全部が遠くなった。
膝をついていた。いつからだ。わからない。杖を握っている。九対一の増幅杖。役に立たない。ヴェルデを流せば流すほどベルグリムが強くなる。
白と紫の封印術式が地面に広がっている。魔力が届かない。シアが三日かけて設計した術式。完璧な術式。でも動かない。
ベルグリムが近づいてくる。一歩ごとに大地が沈む。一歩ごとに息吹が喰われていく。街灯の光が消えていく。一つ、また一つ。
暗くなっていく。
王都が、暗くなっていく。
——ここまでの絶望は初めてだ。
南の五十人のときは、身体が限界だった。でもヴェルデが応えてくれた。
海のときは、規模が足りなかった。でも全力を出せば届いた。
二百六十人以上のときは、一人じゃ足りなかった。でもみんなの力が繋がった。
今回は——何をしても、敵のエサになる。
俺の力が、敵を強くしている。
「……何が救世主だ」
声が漏れた。
「何が魔王だ。結局——足手まといのままじゃないか」
パーティーにいたときと同じだ。足を引っ張っている。今度は敵を強くしている。三年間「役立たず」と呼ばれたのと何が違う。
何も違わない。
——違わないのか。
本当に?
そのとき——胸元で何かが外れた。
ペンダントが落ちた。
碧い石が、地面に転がった。留め具が外れていた。シアの手作りだ。留め具が弱かったんだ。
碧い石が地面に転がって、止まった。
俺の目の前に。
碧。
碧。カインの瞳と同じ色。シアがくれたお守り。
「——俺を信じた奴がいる。その奴のために作ってくれたものが、ここにある」
ペンダントを拾った。碧い石を握りしめた。
顔を上げた。
ベルグリムの向こうに——王都が見えた。
街灯の光は消えかけていた。でも建物はある。通りはある。広場はある。地下に民がいる。
「——あの灯りの下に、俺を待ってる奴らがいる。壊させてたまるか」
立ち上がった。
膝が震えていた。足がガクガクしていた。
「——怖くて当然だ。でも怖いまま走れる奴が、一番遠くまで行ける」
一歩。
踏み出した。ベルグリムに向かって。
「——負けるかもしれない。死ぬかもしれない。でも——立ってるうちは終わってない」
もう一歩。碧い石を握りしめたまま。
「——俺が折れたら、あいつらの明日が消える。なら折れるわけにはいかないだろ」
歩いていた。ベルグリムに向かって。山のような巨獣に向かって。一人で。
杖を捨てた。九対一じゃだめだ。ヴェルデを増幅しても喰われるだけだ。
手の中には碧い石だけがあった。使い物にならない石。シアがくれたお守り。
——でも。
この石は、シアの気持ちでできている。
碧い石を握る手に、力を込めた。
「——役立たずの石と役立たずの男。相性最高じゃないか」
碧い石が——震えた。
手の中で。微かに。温かくなった。
——何だ。
ヴェルデが反応していた。身体の奥底で。碧い力が、碧い石に引き寄せられるように動いていた。
九対一では起きなかった。魔力を通さないはずの石。増幅率ゼロ。ソルスがそう言った。
でも——ヴェルデだけが応えている。ヴェルデだけがこの石に流れ込もうとしている。
理屈はわからない。でも——シアが作った石に、シアが名付けた力が応えている。それだけでいい。
「——なにやってんだよ、俺の全部が足りないなら、俺の全部を超えていく。それが魔王ってもんだろっ……!」
「——おい、ベルグリム」
声が出た。腹の底から。
「食いたきゃ俺の魔力食えるだけ食えよ……!」
碧い石が光り始めた。手の中で。碧い光が指の隙間から漏れていた。
「諦めねぇって決めたんだ。何があっても」
ヴェルデが噴き出した。碧い石を通って。増幅されて。九対一の杖とは比べ物にならない出力。桁が違う。次元が違う。
「諦めたら——あいつらの希望は俺なんだからっ!」
碧い光が爆発的に膨れ上がった。カインの身体を包んで、空に向かって柱のように立ち昇った。
「腹いっぱい食えよベルグリムっ!」
ベルグリムが碧い光を喰らおうとした。いつものように。息吹を吸い込むように。
——喰えなかった。
碧い光が多すぎた。ベルグリムの吸収速度を超えていた。喰いきれない碧が、ベルグリムの身体に染み込んでいく。内側から。外側から。全方向から。
ベルグリムが初めて声を上げた。
山が叫んでいた。
「爆ぜちまえよヴェルデェェェェェェェエエエっ!!」
碧が、爆ぜた。
ベルグリムの身体全体が碧い光に包まれた。内側から光が溢れ出した。灰色の岩のような皮膚が、碧に染まっていく。
ベルグリムが崩れ始めた。
足から。腹から。背中から。碧い光の粒子になって、霧散していく。山が崩れるように。ゆっくりと。でも確実に。
碧い粒子が空に舞い上がった。雪のように。光る雪のように。王都中に降り注いだ。
ベルグリムがいた場所に——何かが落ちた。
重い音。地面に何かが着地した音。
碧い光が収まった。
そこにあったのは——巨大な宝玉だった。
人の背丈ほどの大きさ。深い碧色。ヴェルデの魔力で染まったベルグリムの核。
本来は何色だったのかわからない。カインの碧に染め上げられて、ヴェルデと同じ色に変わっていた。
―――――
俺は——立っていた。
手の中に碧い石を握りしめていた。シアのペンダント。まだ温かかった。
足が震えていた。視界がぼやけていた。魔力回路が焼けているかもしれない。
でも立っていた。
立っていた。
「……カイン」
シアの声が聞こえた。
振り返った。シアが走ってきていた。真白のショートボブが揺れていた。銀色の瞳が——泣いていた。
「勝っ——」
「シア」
俺はシアに碧い石を見せた。
「お前のお守りが——ヴェルデに応えた」
シアが碧い石を見た。目を見開いた。
「……これが? 魔力が通らないはずの——」
「通った。ヴェルデだけが。お前が作ったこの石だけに」
シアの目から涙が流れた。
「……なぜ」
「わからない。でも一つだけわかる。——お前の想いが、俺を守った」
シアが唇を噛んだ。涙が止まらなかった。
「……バカ」
「ああ」
「バカ。バカ。——怖かった。見てるだけで。何もできなくて」
「できてた。お前がこの石を作ってくれたから、俺はここにいる」
シアが俺の胸に飛び込んだ。
小さな身体で。全力で。
何も言わなかった。ただ泣いていた。
俺はシアの頭を撫でた。真白の髪に触れた。
空から碧い粒子がまだ降っていた。光る雪のように。王都を照らしていた。
街灯の光が戻り始めていた。一つ、また一つ。
王都が——息を吹き返していた。




