■ 第80話「目覚め」
予言書に、三行目が浮かんだ。
「『獣は立つ。大地が割れ、山が歩む。息吹の光を求めて』」
シアの声が低かった。
「動き始めた」
―――――
避難が始まった。
壁が赤く染まった。カインが仕込んだ術式。ベルグリムが動き出した合図。
住民たちが顔を上げた。白と紫だったはずの壁が、赤い。
「避難訓練の合図だ! 建物の中に入れ!」
グラザードの声が王都に響いた。将たちが各所で誘導を始めた。
住民の中には気づいた者もいただろう。グラザードの顔が訓練の顔じゃなかったから。
―――――
王都の地下。掘り進めた大きな地下室。ソルスが設計した。
天井は石で補強されている。食料。水。救急の薬草。息吹石がたくさん埋め込まれていて、空気が温かい。一人一人のスペースは何とかある。
王都の住民だけじゃない。近隣の集落からも人が集まっていた。壁が赤くなったのは全域で見えた。
子どもたちが泣いていた。テオが小さい子たちを集めて「大丈夫だ、すぐ終わる」と言っていた。テオの手も震えていた。
ガラが薬草茶を配っていた。いつもと同じ顔で。でも手が少しだけ震えていた。
ノアが両親と一緒にいた。父親がノアの肩を掴んでいた。母親がノアの手を握っていた。ノアが俺を見た。深い青の瞳。
「……カイン」
「大丈夫だ。すぐ終わらせる」
「……足、震えてるよ」
見えていた。
ノアが俺の手を掴んだ。ぎゅっと。
「……帰ってきて」
「帰る」
リーナが地下室の入り口に立っていた。治療の準備をしていた。金色の髪を結んで、袖を捲って。
「ここは私が守ります。だから——外は、お願いします」
「ああ」
「……おかえりなさいって言いたいので、帰ってきてくださいね」
「帰る」
レナが剣を握っていた。
「あたしも行く」
「だめだ。レナはここの護衛だ」
「カイン——」
「頼む。ここの人たちを守ってくれ」
レナが唇を噛んだ。
「……死んだら許さない」
「死なない」
グラザードが来た。
「魔王様。——武運を」
「ありがとうございます」
ムルトゥスが杖をつきながら来た。
「カイン殿。前の魔王にできなかったことを、お前はやると言った」
「言いました」
「……頼んだぞ」
―――――
シアが最後に来た。
地上への階段の前で。二人きりだった。
「装備を確認する」
「ああ」
「封印術式の石板」
「ある」
「九対一の増幅杖」
「ある。魔力を二倍に増幅する」
「……これを持っていけ」
シアが何かを差し出した。
碧い石。細い銀の鎖に通されたペンダント。留め具が少し歪んでいる。シアが自分で作ったのだ。
「あの一対一の石か。使い物にならないって——」
「お守りだ。実用性は要らない」
「シア——」
「カインの瞳と同じ色だから持っていけ」
シアの耳が赤かった。でも目は真剣だった。銀色の瞳が揺れていた。
「帰ってきたら返せ。それまで預ける」
俺はペンダントを受け取った。首にかけた。碧い石が胸元に落ちた。
温かかった。魔力は通さない。ただの綺麗な石。でも温かかった。
「……ありがとう」
「礼はいい。帰ってこい。絶対に」
シアの声が震えていた。
「帰る。約束する」
「……行け」
階段を上がった。振り返った。
シアが立っていた。小さかった。真白のショートボブが地下の灯りに照らされていた。銀色の瞳が、俺を見ていた。
泣きそうな顔だった。でも泣いていなかった。
俺は前を向いた。階段を上がった。
―――――
地上に出た。
一人だった。
広場に誰もいなかった。街灯が光っている。酒場の扉が開いたまま。パン屋のカウンターにパンが置いたまま。子どもたちの遊び場にブランコが風で揺れている。
さっきまで笑い声が溢れていた町が、静まり返っていた。
——怖い。
足が震えていた。止まらなかった。
―――――
地面が揺れた。
最初は小さく。次に大きく。
街灯が揺れた。建物が軋んだ。地面にひびが入った。
南西の方角。壁の向こう。
何かが——立ち上がった。
壁の向こうに影が現れた。壁は二十メートル。その壁の上に——肩が見えた。頭はもっと上。ずっと上。
雲に届いていた。
ベルグリム。
山だった。動く山。四本の足。岩のような皮膚。赤黒い体表。目が二つ、赤く光っていた。
一歩踏み出すたびに地面が割れた。轟音。
壁を踏み越えた。左前足が壁を踏んだ。二十メートルの壁が、踏み石みたいに潰れた。
破片が降ってきた。風圧が叩きつけた。白銀の髪がなぎ倒された。
——でかすぎる。
やるしかない。
石板を地面に叩きつけた。シアの封印術式。白と紫の紋様が展開した。広場全体を覆う巨大な封印陣。
増幅杖を握った。九対一の鉱石が先端で光った。魔力が二倍に増幅される感覚。身体中の魔力が杖に集まっていく。
「——来い、ヴェルデ」
碧い力を呼んだ。身体の奥底から。
ヴェルデが応えた。碧い光が角から溢れた。瞳が碧に染まった。杖を通して碧い光が石板に流れ込んでいく。封印陣が碧に染まっていく。
「——いけ!! ヴェルデ!!」
碧い光が石板から空に向かって撃ち上がった。ベルグリムを包み込むように。封印の紋様が空中に展開して——
——吸われた。
碧い光が、ベルグリムに吸い込まれていった。
封印陣に流れるはずの魔力が、全部ベルグリムの体内に流れていく。
「……は?」
ベルグリムの体表が光った。赤黒い岩肌が、碧い光を帯びた。
喰っている。ヴェルデの魔力を喰っている。
ベルグリムは息吹を喰らう魔獣。ヴェルデは碧の力だが——息吹を含んでいる。魔族の力の根源は息吹だ。ヴェルデも息吹の延長線上にある。
ベルグリムにとって、ヴェルデは大好物だった。
封印陣に魔力が届かない。全部吸い取られている。紋様が薄くなっていく。消えていく。
杖を握り直した。もっと魔力を流した。ヴェルデを全開にした。
全部吸われた。
流せば流すほどベルグリムが力を得る。体表の碧い光が強くなる。動きが速くなる。
——逆効果だ。俺が力を使えば使うほど、敵が強くなる。
杖を下ろした。ヴェルデを止めた。
封印陣が完全に消えた。石板の紋様が暗くなった。
ベルグリムが一歩踏み出した。王都に向かって。さっきより力強く。俺が流したヴェルデを糧にして。
「……無理だ」
声が漏れた。
ヴェルデが効かない。
九対一の増幅杖も意味がない。増幅した魔力をベルグリムが全部喰うだけだ。増幅すればするほど敵を強くする。
封印術はヴェルデでしか発動できない。通常の魔力じゃ規模が足りない。でもヴェルデを使えばベルグリムの餌になる。
——最悪の相性だ。
膝が震えていた。手が震えていた。
ベルグリムが歩いてくる。あと三歩で王都の中心だ。あと三歩で地下室の上だ。
あと三歩で——全員が潰される。




