■ 第77話「山が襲い来る」
トーラから王都に帰った。
ソルスは道の設計を始めていた。馬の上でもう図面を描いている。王都からトーラまでの最短ルート。王都からナーヴェルまでの最短ルート。
「ソルス、帰ってから描けよ」
「今描かないと忘れます」
―――――
王都に着いた。夕方。
ノアが門の前で待っていた。
「カイン! おかえり!」
「ただいま」
―――――
夜、シアが執務室に籠もった。
旅の間にたまった案件を片付けるためだが、もう一つやることがあった。
予言書。
ムルトゥスから預かっている古い書。シアが予言の守り手として管理している。
旅に出る前から気になっていた一節があった。トーラの鉱山を見て、確信に変わった。
「カイン」
「ん」
「来い。見せたいものがある」
執務室の机の上に、黄ばんだ書が広げられていた。古代の文字。シアが横に訳を書いている。
「この一節だ」
シアの指が一行をなぞった。
「——『山が襲い来る。大地を砕き、光を喰らう者。息吹に引かれし獣、百年の眠りより目覚めん』」
「……山が襲い来る?」
「比喩じゃない。文字通りの意味だと思う」
「山が……動く?」
「魔獣だ。古代の記録に名前がある。——ベルグリム」
シアが別の書を開いた。こちらも古い。ムルトゥスの書庫から引っ張り出してきたものだ。
「ベルグリム。災害級の魔獣。山のように巨大な獣。かつて魔族領を蹂躙し、前の魔王が倒せず、人間の国の平原に追いやって封印した」
「封印……」
「倒せなかったんだ。前の魔王でも。だから封印するしかなかった」
「それが百年の眠りから目覚める、と」
「息吹に引かれし獣、と書いてある。ベルグリムは息吹の濃い方向に進む性質がある。本能で。息吹を喰らうのかもしれない」
俺の背筋が冷えた。
「……息吹が一番濃い場所はどこだ」
「王都だ。命の灯火がある。息吹石の生産拠点がある。魔族領で最も息吹が濃い」
「つまり——ベルグリムが目覚めたら、王都に一直線に来る」
「そうだ」
沈黙が落ちた。
「……封印されていたんだろう。なぜ今目覚める」
「封印を解く者がいたら」
「枢機卿か」
「わからない。でも——偵察兵が壁の完成を見ていた。枢機卿に情報は届いている。百年間の方針が崩されている。奴隷を奪還された。壁で全域を覆われた。追い詰められた枢機卿が、手段を選ばなくなったとしたら」
「封印された魔獣を解き放つ、か」
「人間の兵では壁を越えられない。なら壁を越えるものを送り込む。壁より巨大なものを」
俺は地図を見た。王都の位置。壁の位置。
「……壁はどのくらいの高さまで耐えられる」
「奇跡の壁の高さは約二十メートル。ベルグリムの記録には——」
シアが古い書の一節を読んだ。
「『山を背負いし獣、その背は雲に届く』」
「壁より高いのか」
「記録が正しければ、桁が違う。壁を踏み越えてくる可能性がある」
俺は椅子に座ったまま、天井を見た。
壁で全域を覆った。灯火も少しずつ届ける。道も作る。全部うまくいっていた。
——うまくいきすぎていた。
「……いつ来る」
「わからない。予言は時期を示していない。明日かもしれない。一年後かもしれない。ただ——」
「ただ?」
「偵察の頻度が上がっている。枢機卿が焦っている。早いかもしれない」
「……グラザードに報告する」
「明日の朝。軍議を開け」
「ああ」
シアが予言書を閉じた。
「カイン」
「ん」
「……今夜は寝ろ。明日から忙しくなる」
「シアも」
「……私はもう少し調べる。ベルグリムの弱点があるかもしれない」
シアが術式書に向き直った。銀色の瞳が真剣だった。
俺は立ち上がった。扉に手をかけた。
「シア」
「何」
「……ありがとう。気づいてくれて」
「予言の守り手だ。当然のことをしただけだ」
「それでも」
「……寝ろ」
部屋を出た。
廊下を歩いた。夜の王都は静かだった。街灯の白と紫の光が揺れていた。酒場から笑い声が聞こえた。
この日常が——壊されるかもしれない。
山のように巨大な獣。壁を踏み越えてくる。息吹を喰らう。
——守る。何が来ても。
拳を握った。




