■ 第72話「不器用」
シアとの毎日が始まった。
朝、ノアが来る。「おはよう!」と太陽みたいに。
午前中はシアと仕事をする。壁の設計、術式の研究、灯火の管理。
午後はノアが来る。「ねーカイン、あっち行こう」と腕を掴む。
シアの目が鋭くなる。
夕方、シアと二人で仕事の続きをする。
毎日この繰り返し。
―――――
三日目の朝。
ノアが俺の腕に抱きついてきた。
「カイン、今日あったかいね!」
「そうか?」
「うん。あったかい」
抱きついている。腕に。人前で。
シアが執務室の入り口に立っていた。術式書を持ったまま。
銀色の瞳が——凍っていた。
「……カイン」
「はい」
「今日の予定を確認する。来い」
「あ、はい」
ノアが「行ってらっしゃーい」と手を振った。
シアに引っ張られた。ノアとは反対側の腕を。
「シア、痛い」
「痛くない」
「痛いって」
「我慢しろ」
執務室に入った。扉を閉めた。シアが振り返った。
「毎朝毎朝、ベタベタと」
「俺に言われても——」
「ノアに言え」
「言ったら泣くと思うんだけど」
「知らない」
「知らないって——」
「……知らないわけないだろう。あの子が泣くのは見たくない。でも——」
シアが俯いた。
「……でも」
「でも?」
「……私だって」
シアが俺を見た。銀色の瞳が揺れていた。
「……抱きつきたい」
……え。
「……今のは忘れろ」
「無理だ」
「忘れろ」
「シアが抱きつきたいって言った。忘れられるわけない」
「殺す」
「殺さないでくれ」
シアが真っ赤になっていた。顔だけじゃない。耳も首も。手まで赤い。全身赤い。
「……あの子は素直に抱きつける。私にはできない。それだけだ」
「できないんじゃなくて、しないだけだろ」
「同じだ」
「違うと思うけど」
「同じだ。私は——そういうことができない性格だ。恥ずかしくて。怖くて。拒絶されたらと思うと」
「俺がシアを拒絶するわけない」
シアが黙った。
長い沈黙。
「……本当に?」
「本当に」
「……じゃあ」
シアが一歩前に出た。もう一歩。
俺の前に立った。小さい。頭が俺の胸くらい。
シアの手が、俺の服の裾を掴んだ。指先だけで。そっと。
「……これくらいなら」
服の裾。指先だけ。
それがシアの精一杯だった。
「……いいか」
「いいに決まってる」
「……そう」
シアは服の裾を離さなかった。指先だけで。ほんの少しの布を。
それだけなのに、シアの耳は真っ赤だった。
——これはずるい。こっちの心臓が持たない。
―――――
午後、事件が起きた。
ノアが執務室に来た。扉を開けた。
シアが俺の隣に座っていた。いつもより近かった。肩が触れていた。シアの手が、俺の服の裾を掴んでいた。
ノアの目がそこに行った。
「……シアちゃん」
「何」
「それ何してるの」
「服の裾を持っている」
「なんで」
「持ちたいからだ」
ノアの目が細くなった。
「……あたしだって持てる」
ノアが俺の反対側に座った。俺の服の反対側の裾を掴んだ。
右にシア。左にノア。両方が俺の服を掴んでいる。
「……何この状況」
「カインは黙ってろ」シアが言った。
「そうだよカイン黙ってて」ノアが言った。
二人の意見が一致した。俺だけが置いてけぼりだった。
―――――
レナが通りかかった。扉が開いていた。中を見た。
カインの左右にシアとノアが座って、両方が服の裾を掴んでいる。カインが困った顔をしている。
レナは扉を静かに閉めた。
廊下で一人で笑った。
―――――
夜。ノアが帰った後。
シアと二人。
「シア」
「何」
「今日のあれは何だったんだ」
「何が」
「服の裾」
「……持ちたかっただけだ」
「ノアと張り合ってなかったか」
「張り合っていない」
「嘘だろ」
「……少し」
「少し」
「ノアが来るたびにカインの隣を取られる。だから——先に取った」
シアが俺を見た。
「……幼稚だと思うか」
「思わない」
「思ってるだろう」
「思ってない。……かわいいと思った」
シアが固まった。
三秒。五秒。十秒。
「……何と言った」
「かわいいと——」
「二度と言うな」
「え」
「二度と言うな。心臓が止まる」
シアが立ち上がった。背を向けた。
耳が赤いのが見えた。首まで。
「……帰る」
「おやすみ」
「……おやすみ」
シアが扉に手をかけた。止まった。
「……明日も持っていいか」
「何を」
「裾」
「……いいよ」
「……そう」
シアが出て行った。
足音が遠ざかっていく。いつもより少し速い足音。
俺は椅子に座ったまま、天井を見上げた。
シアが俺の服の裾を持ちたがっている。
毎日。
ノアに負けたくないから。
——こっちの心臓がもたないんだけど。
でも——悪くなかった。全然、悪くなかった。




