■ 第71話「シアの一日」
翌朝、シアのところに行った。約束したから。
シアは執務室にいた。術式書を開いていた。今度はちゃんと読んでいた。
「来た」
「来るって言ったから」
「……そう」
シアがちらっと俺を見た。すぐに術式書に目を戻した。
昨日のことは何もなかったかのような顔。でも耳が少し赤い。
「今日は何をする」
「壁の拡張計画の見直し。南西方面のルートを再設計する」
「わかった。手伝う」
「当然だ。私一人でやると思ったのか」
「思ってないけど」
「……ふん」
いつものシアだった。たぶん。
―――――
二人で地図を広げた。壁の現在位置と、拡張予定のルートを確認していく。
シアの指が地図の上を走る。白くて細い指。正確に線をなぞっていく。
「ここからここまでが第一段階。王都からナーヴェルまでの壁は完成している。次は北西方面——」
「シア」
「何」
「銀のペンダント、つけてないな」
シアの手が止まった。
「……一人のときにつけると言った」
「今つけてない?」
「……つけてない」
「そうか」
「……つけてほしいのか」
「見たいなとは思った」
シアが黙った。三秒くらい。
それから、服の襟元に手を入れて、何かを引っ張り出した。
銀色のペンダント。服の下につけていた。
「……つけてる」
「つけてるじゃん」
「服の下だ。一人のとき——というか、常につけてる。見せてないだけだ」
「なんで隠すんだ」
「……恥ずかしいからに決まってるだろう」
シアが銀のペンダントを服の中に戻した。顔が赤かった。
「もう地図に戻れ」
「はい」
―――――
【シア】
シアは地図を見ながら、内心で自分を殴りたかった。
なぜ見せた。なぜ服の下につけていることを白状した。
ノアなら「見て見て!」と嬉しそうに見せびらかすのだろう。リーナなら胸元に揺らして「似合いますか」と聞くのだろう。
シアにはできない。恥ずかしくてできない。
でも——カインが「見たい」と言ったとき、嬉しかった。
嬉しかったのが悔しい。
この男のせいで、自分がどんどんおかしくなっていく。
―――――
昼食を一緒に食べた。二人で。
食堂ではなく、執務室で。地図を広げたまま、パンとスープ。
シアが黙々と食べていた。小さな口で、少しずつ。
「シア、食べるの遅いな」
「早く食べる必要がない」
「俺もう食べ終わったけど」
「知ってる。食べ方が雑だ」
「雑って……」
「パンくずが地図についてる」
「あ、ごめん」
シアが地図のパンくずを指で払った。それから、自分のパンを一口ちぎって、俺に差し出した。
「……何」
「口についてる。パンくず」
「え、どこ」
「ここ」
シアの指が、俺の口元に触れた。パンくずを取った。
——触れた。
シアの指が、俺の唇に。
シアも気づいた。自分が何をしたか。
手がぱっと引っ込んだ。顔が真っ赤になった。耳まで。首まで。
「……っ」
「シア?」
「何でもない。食べろ。早く食べろ」
「もう食べ終わった——」
「じゃあ地図を見ろ! 仕事しろ!」
シアは自分のスープに顔を突っ込むみたいに俯いた。
——指、温かかったな。
―――――
午後、ノアが執務室に来た。
「カインー! ドルクさんが新しいガラス作ったって! 見に行こ——」
ノアが扉を開けた。
カインとシアが二人で地図を覗き込んでいた。肩が触れるくらい近い距離で。
ノアが固まった。
シアが顔を上げた。
二人の目が合った。
空気が凍った。
「……お邪魔でした」
「邪魔じゃない」カインが言った。
「邪魔だ」シアが言った。
「シア!」
「冗談だ」
シアの顔は冗談を言う顔じゃなかった。
ノアが俺の腕を掴んだ。
「カイン、ドルクさんの新作見に行こ」
シアが立ち上がった。
「私も行く」
「え」
「行く」
三人で出かけることになった。
俺の左にノア。右にシア。
二人とも無言だった。
俺だけが、両側から来る無言の圧力に潰されそうだった。
―――――
ドルクの工房で新作のガラス花瓶を見た。息吹石入り。光を受けると虹色に輝く。
「すごい! 綺麗!」ノアが目を輝かせた。
「……悪くない」シアが言った。
「シアちゃんも素直に綺麗って言えばいいのに」
「悪くないと言った。十分だ」
「全然十分じゃないよ」
「私の語彙に口を出すな」
ノアとシアが言い合っていた。仲が悪いわけじゃない。でもバチバチしていた。
ドルクが俺に小声で言った。
「……魔王様、大変ですな」
「……大変です」
―――――
夕方、ノアが帰った後。
シアと二人になった。執務室。
「シア」
「何」
「今日、ありがとう。一日付き合ってくれて」
「仕事だ」
「仕事じゃない部分もあっただろ」
「……何のことだ」
「パンくずとか」
シアの手が止まった。
「あれは——パンくずがついていたから取っただけだ」
「うん」
「それ以上の意味はない」
「うん」
「……何を笑っている」
「笑ってない」
「笑ってる。口元が緩んでいる」
「気のせいだ」
「気のせいじゃない」
シアが術式書で俺の顔をぱたんと叩いた。軽く。
「……明日も来い」
「はい」
「毎日来い」
「……毎日?」
「ノアは毎朝来る。なら私も毎日カインの時間をもらう。公平だろう」
「公平……」
「文句があるなら——」
「ない。毎日行く」
シアが少し黙った。
それから、ものすごく小さな声で言った。
「……楽しかった」
「え?」
「何でもない。聞こえなかったことにしろ」
「聞こえた」
「聞こえてない」
「楽しかったって——」
「うるさい。出て行け。明日来い」
シアが俺を部屋から押し出した。小さな手で。力は弱かった。
扉が閉まった。
廊下に立ったまま、俺は少し笑った。
シアが「楽しかった」って言った。
それだけで、今日は良い日だった。




