■ 第70話「嫉妬」
リーナが忙しくなった。
解放された二百六十人以上の中に、怪我や病気を抱えている者が大勢いた。ノアの父親の指は治したが、他にもたくさんいた。
骨折が治らないまま固まった者。火傷の跡が引きつれて動かない者。栄養失調で目が見えにくくなった者。古い傷が化膿している者。
リーナが一人一人診ていた。聖女の癒しの術は強力だが、一人に時間がかかる。何年も放置された傷は一回では治らない。
「カインさん、すみません。しばらく旅には出られないと思います」
「気にするな。ここで治療に専念してくれ」
「でも——」
「リーナにしかできないことだ。お前がいなきゃ治らない人がたくさんいる」
リーナが少し俯いた。金色の髪が揺れた。
「……はい。頑張ります」
「無理はするな。お前が倒れたら元も子もない」
「はい」
リーナが微笑んだ。草色の瞳が優しかった。でもどこか寂しそうだった。旅に出られないことが、カインと離れることが。
ガラの薬屋がリーナの拠点になった。ナーシャが助手として横についた。毎日、朝から晩まで治療が続いた。
―――――
リーナが治療に専念している間、日常が少し変わった。
ノアが王都の生活に馴染み始めていた。
両親と一緒に新しい家に住んでいる。大工たちが建てた小さな家。ノアの母親がカーテンを縫って、父親が棚を作った。ノアが「あたしの部屋!」と叫んでいた。生まれて初めての自分の部屋。
ノアは毎朝、俺のところに来るようになった。
「カイン、おはよう! 今日何するの?」
毎日。欠かさず。太陽みたいな笑顔で。
シアが横で術式書を読んでいた。ノアが来るたびに、ページをめくる手が止まった。一瞬だけ。すぐに戻った。
でも俺は気づいていた。
―――――
ある朝。
ノアが俺の腕を掴んで引っ張った。
「カイン、あっちに新しいパン屋できたんだって! 行こう!」
「今からグラザードと——」
「すぐ終わるから! パン買うだけだから!」
ノアが俺の腕にしがみついていた。小麦色の手。力が強い。
シアが術式書から目を上げた。
銀色の瞳が、ノアの手を見た。俺の腕を掴んでいるノアの手を。
「……行ってくれば」
シアが言った。平坦な声。いつも通り。
「すぐ戻る」
「別にいい。急ぎの案件はない」
俺はノアに引っ張られて行った。
振り返った。シアが術式書に目を落としていた。
ページが、さっきから一枚もめくれていなかった。
―――――
パンを買って戻ったら、シアがいなかった。
「シア、どこ行った?」
レナが訓練場の端で剣を磨いていた。
「シアちゃん? さっき自分の部屋に戻ったよ。なんか不機嫌だった」
「不機嫌?」
「うん。あたしが話しかけたら『何でもない』って。何でもないって言うときが一番やばいんだけどね、シアちゃんは」
ノアが横で小さくなっていた。
「……あたしのせいかな」
「ノアちゃんのせいっていうか、カインのせいだよ」
「俺!?」
「ノアちゃんと腕組んで出ていったらそうなるでしょ」
「腕は組んでない。引っ張られただけだ」
「同じだよ、シアちゃんから見たら」
―――――
シアの部屋の前に行った。
ノックした。
「シア」
「……何」
「入っていいか」
「……いい」
入った。シアは窓際に座っていた。術式書を開いていた。読んでいなかった。
「さっきは悪かった」
「何が」
「ノアと出かけて」
「別に悪くない。用事があったんだろう」
「パンを買いに行っただけだ」
「……パン」
「うん」
シアが術式書を閉じた。ぱたん、と。少し強く。
「パンを買いに行くのに、二人で行く必要はあったのか」
「ノアが行きたいって言うから」
「ノアが言えば行くのか」
「……シアも行きたかったのか?」
シアが俺を見た。銀色の瞳が、怒っていた。いや——怒りじゃない。もっと別の何か。
「……行きたかったとかそういう話じゃない」
「じゃあ何が——」
「わからないなら、いい」
「わからないから聞いてるんだけど」
シアが立ち上がった。俺の前に来た。小さい。座っている俺と目線が同じ。
「カイン」
「ん」
「……私は、ノアみたいに腕を掴んで引っ張ったりしない」
「うん」
「おはようって毎朝走ってきたりしない」
「うん」
「パン屋に行こうなんて言わない」
「……うん」
「でも——」
シアの声が、少し震えた。
「——私だって、隣にいたい」
俺は——固まった。
シアの銀色の瞳が、揺れていた。怒りが消えていた。残っていたのは——寂しさだった。
「シア……」
「ノアは素直だ。気持ちを全部出せる。私にはできない。でも——できないからって、何も思ってないわけじゃない」
シアが俯いた。真白のショートボブが顔を隠した。耳が赤かった。
「……こんなこと言うつもりじゃなかった」
「いや——聞けてよかった」
「よくない。恥ずかしい」
「でも——」
「うるさい。出て行け」
「え」
「出て行け。今日はもう顔を見たくない」
「シア——」
「明日は……明日は、いい。明日また来い」
俺はシアを見た。俯いたままのシア。耳が真っ赤なシア。
——かわいい。
思ってしまった。
口には出さなかった。出したら殺される。
「……わかった。明日来る」
「……来なかったら許さない」
「行くって」
部屋を出た。扉を閉めた。
廊下で、心臓がうるさかった。
シアがあんな顔するの、初めて見た。
―――――
夜、ノアが俺のところに来た。
「……カイン」
「ん」
「シアちゃんと話した?」
「話した」
「怒ってた?」
「……怒ってたっていうか……」
「嫉妬してた?」
「……たぶん」
ノアが少し黙った。
「……シアちゃんも、カインのこと好きだよね」
「え——」
「見ればわかるよ。あたしも好きだから、好きな人を見る目はわかる」
ノアが俺を見た。深い青の瞳。
「あたしは負けないけどね」
「勝負じゃ——」
「勝負だよ。恋は勝負。——でもシアちゃんのこと嫌いにはならない。あの人は、カインが一番辛いときにそばにいた人だから」
ノアが笑った。
「だから正々堂々やる。シアちゃんにも、リーナにも、負けないように」
ノアが手を振って去っていった。
……正々堂々。
シアとノアが同時にいる日常。
これからどうなるんだ。




