■ 第69話「帰り道」
砂浜から戻ったノアは、靴を履いて、何事もなかったような顔をしていた。
嘘だ。耳がまだ赤い。
俺も何事もなかったような顔をしていた。たぶん下手だった。
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出発の前に、イルマ長老に挨拶した。
「ナーヴェルは順調です。灯火も安定している。漁師たちも馴染んでる」
「ああ。いい男たちだよ。働き者だ。船の骨組みももう二隻目に入った」
「何かあれば王都に伝令を」
「わかっている。——ノア」
イルマがノアを見た。
「お前はどうするんだい」
ノアが少し黙った。
「……ばあちゃん。あたし、王都に住もうと思う」
「そうかい」
「お父さんとお母さんが王都にいるから。家族一緒にいたい」
イルマは頷いた。寂しそうではなかった。わかっていた顔だった。
「この町はお前がいなくてももうやっていけるよ。漁師も来た。食料もある。お前が三年間守ってくれたおかげだ」
「……ばあちゃん」
「胸を張って行きな。お前はもう十分やった」
ノアがイルマに抱きついた。小さな老婆を、ぎゅっと。
「ありがとう。あたしがボロボロで来たとき、何も聞かずにご飯くれて」
「当たり前のことをしただけだよ」
「……それ、カインと同じこと言うね」
イルマが笑った。ノアも笑った。
―――――
馬に乗った。
問題が発生した。
ノアは俺の後ろに乗る。腰に手を回す。背中にくっつく。
昨日までは何でもなかった。
今は全然何でもなくない。
ノアが後ろに跨がった。距離があった。いつもよりずっと離れていた。腰に手を回すのに時間がかかった。
「……掴まれ。落ちるぞ」
「わ、わかってる」
ノアの手が俺の腰に回った。力が弱かった。
「もっとちゃんと掴まれ」
「これでいい」
「落ちるって」
「落ちない」
馬が走り出した。揺れた。ノアの身体が後ろにずれた。
「わっ——」
反射的にしがみついた。背中に顔が押しつけられた。
「……ごめん」
「いいから掴まってろ」
「……うん」
ノアの額が俺の背中に当たっていた。熱かった。
―――――
しばらく走って、ノアが口を開いた。
「……ねえ」
「ん」
「さっきのこと……怒ってない?」
「怒ってない」
「……引いてない?」
「引いてない」
「……困ってる?」
「……正直、困ってる」
「あはは。だよね」
ノアが俺の背中に額を押しつけたまま笑った。震えていた。笑っているのか泣いているのかわからなかった。
「返事はいらないって言ったでしょ。だから困らなくていいよ」
「でも——」
「あたしが勝手に好きなだけだから。カインは何も悪くない」
「……」
「ただ隣にいさせてくれればいい。それだけで十分」
俺は何も言えなかった。
ノアの手が、少しだけ力を強めた。俺の腰を掴む手。
それ以上は何も言わなかった。二人とも。
馬の蹄の音だけが、壁の内側の道に響いていた。
―――――
途中で休憩した。木陰で水を飲んだ。
「ノア。王都に住むって決めたんだな」
「うん。お父さんとお母さんがそうしたいって」
「ノア自身はどうなんだ。ナーヴェルを離れて寂しくないのか」
「……寂しいよ。三年間いた場所だから。でも」
ノアが水筒の水を見ていた。
「ナーヴェルはもう大丈夫。漁師が来て、イルマばあちゃんも元気で。あたしがいなくてもやっていける」
「ああ」
「それに——あたしもカインのそばにいたい」
さらっと言った。でも耳が赤かった。
「……お父さんとお母さんは何て言ってた」
ノアが少し笑った。
「お母さんが『魔王様を狙うなんてすごい娘ね』って笑ってた」
「……バレてるのか」
「バレバレだって。お父さんは『魔王様なら安心だ』って言ってた。どういう意味かわかんないけど」
「……どういう意味だろうな」
「わかんない。でも二人とも嬉しそうだった。あたしが誰かを好きになったのが初めてだから」
ノアが空を見上げた。青い空。白い雲。
「お母さんが言ってた。好きな人がいるだけで、毎日が全然違うって。お母さんはお父さんのことをずっと好きだったから。あの場所にいても、お父さんがいたから生きていられたって」
「……」
「あたしもそう。カインがいるから、毎日が楽しい。それだけでいい」
ノアが立ち上がった。スカートの砂を払った。
「行こう。早く帰らないと、シアちゃんが怖い顔して待ってるよ」
「……それは確かに怖い」
「でしょ」
ノアが笑った。本物の笑顔だった。太陽みたいだけど、前とは違う。恋をしている太陽だった。
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王都が見えた。
丘の上にガラスの窓が光っている。街灯が並んでいる。畑が広がっている。煙が上がっている。
門の前に、人影が四つあった。
シア。リーナ。レナ。ノアの両親。
シアが腕を組んで立っていた。真白のショートボブが風に揺れている。銀色の瞳が、こちらを見ていた。
「おかえり」
「ただいま」
シアの目が俺を見た。それからノアを見た。ノアの顔を。耳を。首を。
「……何かあったか」
「何も——」
「ノア。何かあったか」
ノアがびくっとした。
「な、何もないよ! 全然! 普通にナーヴェルの視察して帰ってきただけ!」
シアの目が細くなった。
レナが後ろでにやにやしていた。全部察している顔だった。
リーナが微笑んでいた。優しい微笑み。でもどこか切ない微笑み。
ノアの両親が手を振っていた。父親が「おかえり、ノア」と言った。母親がノアを見て、俺を見て、小さく笑った。
あの笑い方、ノアに似ていた。
「……カイン」
シアが小さく言った。
「ん」
「あとで話がある」
「……はい」
怖かった。
二百六十人以上を転移させるより怖かった。




