■ 第68話「海と、言葉と」
翌朝、ナーヴェルの浜を歩いた。
朝日が海を照らしていた。波が白く光って、砂浜に寄せては返している。空気が潮の匂いがした。
ノアが隣を歩いていた。裸足だった。ブーツを脱いで、砂浜を歩いていた。
「靴、せっかくあるのに」
「砂浜は裸足がいいの。足の裏で海を感じたいから」
ノアの足跡が砂浜に残っていった。小さな足跡。波が来て消して、また歩いて、また残す。
「ここに来ると思い出す。三年前、ボロボロでここに辿り着いたとき。裸足で。傷だらけで」
「……ああ」
「今も裸足だけど、全然違う。自分で選んで裸足になってる。それだけで幸せ」
ノアが笑った。朝日が小麦色の肌を照らしていた。水色のショートボブが海風に揺れていた。胸元のペンダントが光を受けて、黄色と紫にうねっていた。
「カイン」
「ん」
「あたし、前にここで言ったよね。希望の意味を初めて知ったって」
「ああ。海が蘇ったとき」
「あのとき知ったのは、明日がいいことあるかもって信じられる感覚」
「ああ」
「でも今は——もっと知った」
ノアが立ち止まった。俺も止まった。
波の音だけが聞こえていた。
「希望って、人なんだ」
「……人?」
「明日が楽しみなのは、明日もカインに会えるから。嬉しいのは、カインがいるから。怖くないのは、カインが守ってくれるから」
ノアが俺を見た。深い青の瞳。朝日を映していた。
「あたしの希望は、カインだよ」
風が吹いた。波が寄せた。ノアの水色の髪が揺れた。
俺は——言葉が出なかった。
「……ノア」
「待って。まだ言いたいことがある。全部言う。今日言わなかったら一生言えないから」
ノアが深く息を吸った。吐いた。もう一度吸った。
「あたしは——奴隷の子どもだった。生まれたときから鉄格子の中にいた。笑い方はお母さんに教わった。嘘の笑い方」
「……」
「逃げて、一年間歩いて、ナーヴェルに来た。三年間、一人で町を守った。笑い続けた。泣かなかった。弱いところを見せなかった」
「……」
「カインが来て、全部変わった」
ノアの目が潤んでいた。でも泣いてはいなかった。笑っていた。本物の笑顔で。
「海が蘇った。お父さんとお母さんが帰ってきた。靴をもらった。ペンダントをもらった。——全部カインがくれた」
「俺は——」
「あたしの人生で一番幸せなことは、全部カインが持ってきてくれた」
ノアが一歩前に出た。距離が縮まった。
「だから——」
ノアの声が震えた。目が赤くなっていた。でも逸らさなかった。深い青の瞳が、俺の碧い瞳を真っ直ぐ見ていた。
「——好き。カインが好き」
波の音が聞こえた。それだけだった。
「好きなの。いつからかわかんない。全部がそうだったのかもしれない。灯台で泣いたときからかもしれない。海が光ったときからかもしれない。お父さんとお母さんに会えたときからかもしれない」
涙が頬を伝った。笑いながら。
「でも確かなのは——今、この瞬間、あたしはカインが好きだってこと。それだけは嘘じゃない。処世術じゃない。本物」
ノアが泣き笑いしていた。小麦色の頬に涙が光っていた。水色の髪が風に揺れていた。
俺は——
「ノア」
「……ん」
「俺は——お前に何て返せばいいかわからない」
正直に言った。
「お前の気持ちは嬉しい。本当に。でも俺は——シアにもリーナにもレナにも、みんなに支えてもらってる。お前だけを特別にすることが、正しいのかわからない」
ノアが少し黙った。
泣き止んでいた。目を拭って、鼻をすすって。
それから——笑った。
「知ってる」
「……え」
「カインがそう言うの、知ってた。だって鈍いもん」
「鈍い……」
「でもいいの。返事は今じゃなくていい。あたしは言いたかっただけ。嘘の笑顔じゃなくて、本当の気持ちを伝えたかっただけ」
ノアが一歩前に出た。もう一歩。
目の前にいた。
小さかった。俺の胸くらいの背丈。見上げていた。深い青の瞳が、朝日に光っていた。
「だから——一つだけ、わがまま言っていい?」
「……何だ」
「目、閉じて」
「え」
「いいから」
俺は——よくわからないまま、目を閉じた。
数秒の沈黙があった。波の音だけ。
——唇に、何かが触れた。
柔らかくて。温かくて。一瞬だった。
目を開けた。
ノアがいた。顔が真っ赤だった。耳まで赤かった。首まで赤かった。
「……リーナは戦場で衝動的にしたって聞いた」
「え」
「あたしは——自分から、ちゃんと好きって言ってからした」
ノアが両手で顔を覆った。
「勝った……あたしの方がちゃんとしてる……」
「何の勝負だ」
「うるさい!!」
ノアは踵を返して走った。砂浜を。裸足で。水しぶきを上げながら。
「ノア! 靴! 靴忘れてる!」
「知らない!! 後で取りに来る!!」
ノアは走っていった。振り返らなかった。
でも——背中が笑っていた。肩が揺れていた。
泣いているのか笑っているのか、たぶん両方だった。
俺は砂浜に立ったまま、唇に指を当てた。
まだ温かかった。
……何が起きたんだ。
波が寄せてきて、ノアの靴を濡らした。
慌てて拾い上げた。茶色のブーツ。シアが三十分かけて選んだやつ。
——帰ったらシアになんて説明すればいいんだ。
それが一番怖かった。




