■ 第67話「聞いてしまった」
事件は、リーナの一言から始まった。
―――――
女子四人で洗濯をしていた。シア、リーナ、レナ、ノア。川辺で。
ノアが後から聞いた話によると、こうだ。
レナが言った。
「ねえ、カインってキスしたことあるの?」
シアの手が止まった。リーナの手が止まった。ノアの手が止まった。
「な、なんでそんな話になるの」ノアが慌てた。
「いや、気になって。カインってモテるのに全然そういう話しないじゃん」
シアが黙々と洗濯を続けていた。顔は前を向いていた。耳だけが赤かった。
リーナが——少し俯いた。
「……あの」
三人がリーナを見た。
「キス……されたことは、あります」
空気が凍った。
「リーナちゃん!? いつ!?」レナが叫んだ。
「南の侵攻のときに……二千人を止めた後に……感情が溢れてしまって……唇に……」
「唇!?」
「は、はい……唇です……戦場で……二千人の前で……」
「二千人の前で唇!?」
リーナの顔が爆発しそうなくらい赤かった。
「シアちゃんも見てましたよね……」
シアが洗濯物を絞った。力が入りすぎていた。布が千切れそうだった。
「……覚えていない」
「嘘だよシアちゃん。あの後すごい顔してたもん」レナが言った。
「覚えていない」
二回言った。覚えている証拠だった。
——キス。リーナはカインに唇でキスしたことがある。二千人の前で。
シアが洗濯物をばしんと水に叩きつけた。
「……あれは不意打ちだった」
「でもされたんでしょ」レナがにやにやしていた。
「……うるさい」
ノアは——胸がざわざわしていた。
リーナがカインに唇でキスした。二千人の前で。あたしはまだしたことがない。
「……シアちゃんは?」
ノアが聞いた。自分でもなぜ聞いたかわからなかった。
シアが洗濯物をばしんと水に叩きつけた。
「……ない」
「本当に?」
「ない」
「でもシアちゃん、カインの手を朝まで握ってたって——」
「誰から聞いた」
「レナさん」
シアがレナを睨んだ。レナは口笛を吹いて空を見ていた。
―――――
その日からノアの頭の中は一つのことでいっぱいだった。
キス。
リーナはした。シアは手を握った。
あたしは——ペンダントをもらった。でもキスはしてない。
キスしたい。
——いや待て待て待て。何を考えてるんだ。
ノアは頭を振った。でも振っても消えなかった。
カインの顔が浮かぶ。白銀の髪。碧い瞳。笑ったときの顔。叫んだときの顔。泣いたときの顔。
全部好き。
全部好きだから、キスしたい。
——最悪だ。
―――――
翌日、カインが「ナーヴェルの様子を見に行く」と言った。日帰りじゃない。壁が通っているから安全だが、二日かかる。
「ノア、一緒に来るか。お前の町だろ」
「行く!」
即答した。
シアが「私も——」と言いかけたが、カインが「シアは転移術式の記録をまとめてくれ。ムルトゥスが待ってる」と言った。
シアの銀色の瞳が少し揺れた。でも頷いた。
「……わかった」
リーナが「私もお留守番ですね」と笑った。レナが「あたしも。馬の世話あるし」と肩をすくめた。
二人きりだった。
カインとノア。二人で馬に乗って、ナーヴェルへ。
ノアはカインの後ろに座った。前と同じように。腰に手を回した。
心臓がうるさかった。
前は馬が怖くてしがみついていた。今は——別の理由でしがみついている。
「ノア、力入りすぎ」
「ご、ごめん」
「苦しい」
「ごめんって!」
力を緩めた。でもカインの背中は温かかった。広かった。
あたしの手がちょうど収まる背中だった。
―――――
ナーヴェルに着いた。
港町が変わっていた。
漁師たちが船を作り始めていた。まだ骨組みだけだが、港に活気が戻っていた。子どもたちが浜を走り回っていた。イルマ長老が元気だった。
「魔王様。ノア。よく来た」
「元気そうで何よりです」
「漁師が来てくれたおかげだ。毎日大漁だ。食い切れん」
町を回った。灯火は順調。海底の灯火も安定している。海は碧い光を帯びたまま、魚で溢れていた。
夕方、灯台に登った。
ノアとカイン。二人で。
夕日が海に沈んでいく。水平線がオレンジに染まる。波が金色に光る。
ノアの特等席。でも今日は二人。
「……ここ、好きだな」
「うん。あたしの一番好きな場所」
「前に来たとき、ここでノアの本当の顔を初めて見た」
「……覚えてるの」
「覚えてる。笑ってなかった。初めて笑ってないノアを見た」
「……恥ずかしいんだけど」
「恥ずかしくない。あの顔が、本当のノアだと思った」
ノアの心臓が跳ねた。
カインが海を見ていた。夕日が碧い瞳に映っていた。白銀の髪がオレンジに染まっていた。
——綺麗だ。この人は本当に綺麗だ。
「カイン」
「ん」
「あのね」
「ん」
「……なんでもない」
言えなかった。まだ言えなかった。
でも胸の中で、言葉がもう形になっていた。
明日。明日言おう。
——たぶん。




