■ 第65話「ノアの変化」
ノアが変わった。
最初は気づかなかった。
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朝、広場を歩いていたら、ノアが走ってきた。
「カイン! おはよう!」
「おはよう」
いつもの元気なノア。太陽みたいな笑顔。でも今は本物の方だ。
「今日何するの?」
「灯火の点検と、壁の拡張計画をグラザードと——」
「あたしも行っていい?」
「別にいいけど、つまらないぞ」
「つまんなくない! カインがいるなら楽しい!」
……なんだ今のは。
ノアは笑ってそのまま隣を歩き始めた。距離が近い。肩が触れそうだった。
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執務室でグラザードと打ち合わせをしていた。ノアは隅の椅子に座って待っていた。
地図を広げて壁の拡張計画を話し合っている間、ノアはずっと俺の方を見ていた。
気づいた。
ノアの目が、前と違う。
前は俺を見るとき、感謝の目だった。信頼の目だった。約束を守ってくれた人を見る目だった。
今のノアの目は——何か違う。目が合うと、ぱっと逸らす。でもすぐにまた見てくる。頬が少し赤い。
「ノア、暑いのか」
「え!? 暑くない! 全然!」
「顔赤いけど」
「赤くない!」
グラザードが地図から目を上げて、ノアを見て、俺を見て、また地図に戻した。何も言わなかった。でも口元が微かに動いた。笑ったのか。
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昼、リーナと一緒に食堂にいたら、ノアが来た。
「ここ空いてる?」
俺の隣を指していた。リーナの隣じゃなく、俺の隣。
「空いてるよ」
ノアが座った。近かった。肘が触れた。
「あ、ごめん」ノアが慌てて少しずれた。
「気にしなくていいよ」
「う、うん」
リーナが向かい側で微笑んでいた。草色の瞳が優しかった。
「ノアちゃん、今日はカインさんとずっと一緒にいるんですね」
「べ、別にたまたまだよ!」
「そうですか? 朝も一緒でしたよね」
「たまたまが二回続いただけ!」
「ふふ」
リーナは笑っていた。全部わかっている顔だった。
俺だけがわかっていなかった。
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午後、ノアが剣の練習をしていた。
訓練場の端で、一人で素振りをしていた。レナに教わった型を繰り返している。
水色のショートボブが汗で額に張り付いていた。小麦色の肌に汗が光っていた。真剣な顔だった。普段の元気なノアとは全然違う顔。
「上手くなったな」
声をかけたら、ノアが剣を取り落とした。
「か、カイン!? いつからいたの!?」
「今来たところだけど」
「見てた!?」
「見てたけど」
ノアの顔が真っ赤になった。
「汗だくだし……髪ぐちゃぐちゃだし……こんなの見ないでよ……」
「何を気にしてるんだ。いつも元気に走り回ってるだろ」
「それとこれは違うの!」
何が違うんだ。
ノアが慌てて髪を整えていた。汗を袖で拭いていた。
レナが訓練場の向こう側から見ていた。にやにやしていた。
「カイン」レナが近づいてきて小声で言った。「あんた本当に鈍いね」
「何が」
「何がじゃないよ」
レナはそれだけ言って、笑いながら去っていった。
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【ノア】
ノアは自分でも困っていた。
いつからだろう。カインの顔を見ると胸がどきどきするようになった。
灯台の上で泣いたときからかもしれない。海が蘇ったときからかもしれない。両親を連れ帰ってくれたときからかもしれない。
全部かもしれない。
カインは約束を守った。全部。一つ残らず。
海を変えると言って変えた。父さんと母さんを取り戻すと言って取り戻した。二百六十人以上を一人も残さず連れ帰った。
——そんな人を好きにならないわけがないだろう。
でも困る。
カインの隣にいると顔が熱くなる。目が合うと心臓が跳ねる。声をかけられると剣を落とす。
最悪だ。全然かっこよくない。強い戦士になりたいのに、好きな人の前だとポンコツになる。
シアちゃんを見ろ。いつも無表情で、冷静で、かっこいい。あんな風になりたい。
——でもシアちゃんも、カインの前だと耳が赤くなってるのをノアは知っていた。
同じじゃん。
みんなカインの前だとだめになるんだ。あの男のせいだ。
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夕方、ガラスの通りを歩いていた。
ドルクの工房の前で立ち止まった。窓に息吹石入りのガラスのアクセサリーが並んでいた。小さなペンダント。光を受けると黄色と紫がうねるように光る。
「……きれい」
ノアがじっと見ていた。
「ほしいのか」
「えっ! い、いらない! 別に!」
「目が釘付けだったけど」
「見てただけ! 見てただけだから!」
俺はドルクの工房に入った。ノアが「え、ちょっと、何してるの」と慌てていた。
ペンダントを一つ買った。小さな水色のガラス。ノアの髪と同じ色だった。光を受けると、息吹石の黄色と紫がうねる。
店の外でノアに渡した。
「やる」
ノアが固まった。
深い青の瞳が、ペンダントと俺の顔を何往復もした。
「……え」
「両親を取り戻すって約束を守った記念だ」
「記念……」
「嫌なら——」
「嫌じゃない!!」
ノアがペンダントを両手で受け取った。小麦色の手が震えていた。
「……ありがとう」
声が小さかった。いつもの太陽みたいな声じゃなかった。
ノアが俯いていた。耳が赤かった。首まで赤かった。
「つ、つける……」
ノアがペンダントを首にかけた。水色のガラスが、小麦色の胸元に揺れた。
「……似合ってる」
ノアが顔を上げた。目が潤んでいた。泣いてはいない。でも潤んでいた。
「……カインは、ずるい」
「え?」
「こういうことするから……こういうことするから、好きに——」
ノアが口を押さえた。目が見開かれていた。自分で自分の言葉に驚いていた。
「——なんでもない!! 今の忘れて!! 絶対忘れて!!」
ノアは走って逃げた。裸足じゃなかった。茶色のブーツの音が石畳に響いた。
俺はその場に立ったまま、首を傾げた。
好きに——なんだ。好きに、なった? 好きに、なりそう?
……何の話だ。
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【ノア】
ノアは角を曲がったところで立ち止まった。壁に背中をつけて、ずるずるとしゃがみ込んだ。
顔が熱い。心臓がうるさい。死にそう。
ペンダントを握りしめた。水色のガラス。カインがくれた。自分の髪と同じ色。
「……言いかけた。好きって言いかけた。最悪。死にたい」
でも嫌じゃなかった。ペンダントが嬉しかった。カインが選んでくれた。自分の髪の色と同じものを。
——気づいてないんだろうな、あの人。自分がどれだけ罪なことしてるか。
ノアはペンダントを胸に当てた。温かかった。息吹石の温もり。
「……好き」
小さく呟いた。誰にも聞こえない声で。
壁の向こうでレナの声がした。
「聞こえてるよー」
「!!!!」
ノアは立ち上がって走った。今度こそ全力で。
レナの笑い声が後ろから聞こえた。
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夜、シアが俺の部屋に来た。
術式書を持っていた。いつもの。
「カイン」
「ん」
「ノアにペンダントを買ったらしいな」
「記念に」
「記念」
「約束を守った記念だ」
シアは少し黙った。
「……リーナにはトーラで何か買ったか」
「いや」
「レナには」
「いや」
「私には」
「……いや」
シアの目が細くなった。
「……ノアにだけ買ったのか」
「あ」
「あ、じゃない」
シアは術式書を俺の顔の前に突きつけた。
「明日。ガラスの通りに行く。全員分買え」
「全員分?」
「全員分」
シアはくるりと踵を返して去っていった。
足音がいつもより少し強かった。
……怒ってる?
怒ってるな。
明日、全員分買おう。




