■ 第62話「祝宴」
カインが目を覚ましたのは、翌日の夕方だった。
丸一日眠っていたらしい。ガラに「三日は術式を使うな」と怒られた。二回目だった。
身体中が痛い。魔力回路がまだ悲鳴を上げている。指先の感覚がない。
でも——生きている。帰ってきた。
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起き上がって外に出たら、王都がとんでもないことになっていた。
広場に巨大なテーブルが何列も並んでいた。魔王祭のときより多い。ガラスの通りに飾りが吊るされている。街灯が全部点灯していて、白と紫の光が夕暮れの街を照らしていた。
グラザードが執務室の前に立っていた。
「起きたか」
「何ですか、これ」
「祝宴だ。二百六十人以上の同胞が帰ってきた。祝わないわけにはいかないだろう」
「俺が寝てる間に準備してたのか」
「民が勝手に動いた。止める理由がない」
グラザードの口元が、ほんの少しだけ緩んでいた。
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広場に出た。
人がいた。大勢。王都の住民と、帰ってきた二百六十人以上。合わせて数百人が広場に集まっていた。
昨日までボロボロの服だった二百六十人以上が、新しい服を着ていた。ミルの店と、他の住民たちが手持ちの服を全部出して配ったらしい。サイズが合っていない者もいた。大きすぎる袖を折り返している者がいた。でも全員が、清潔な服を身に纏っていた。
裸足だった者たちが靴を履いていた。全員分は足りなかったらしく、サンダルの者もいた。でも誰も裸足じゃなかった。
テーブルの上には料理が山になっていた。
パン。焼き肉。チーズ。果物。スープの大鍋がいくつも。ナーヴェルから干し魚と塩漬けの海老が届いていた。ドルクが息吹石入りのガラスの杯を人数分作っていた。光を受けると黄色と紫にうねるやつ。全員の手に一つずつ行き渡っていた。
テオが走り回っていた。
「パーティーだ! パーティーだ! 前より人がいっぱいいる!」
ガラが「うるさい」と言いながら薬草茶を配っていた。解放された者たちの中に体調が悪い者がいて、一人一人診て回っていた。
「お前さんたち、まず飯を食え。食って寝ろ。話はそれからだ」
ガラの言葉は短かったが、薬草茶を渡す手は優しかった。
ナーシャがガラの隣で手伝っていた。解放された子どもたちに、飴を配っていた。
ソルスが住居の割り振りを仕切っていた。空き家と、新しく建てた仮設の宿舎。二百六十人以上分の寝床を、一晩で用意したらしい。
「全員分の屋根は確保しました。しばらくは相部屋になりますが」
「十分だ。ありがとう、ソルス」
「ミルが寝ずに布団を縫ってましたよ。止めたんですけど」
ミルが遠くから手を振った。目の下に隈がある。でも笑っていた。
―――――
グラザードが広場の中央に立った。
「民よ」
数百人が静まった。
「昨日、魔王様が単身で人間の国に乗り込み、二百六十人以上の同胞を連れ帰った。一人も殺さず。一人も欠けず。全員を」
歓声が上がった。王都の住民たちから。
「百年間、奪われ続けてきた。土地を。水を。仲間を。——だが昨日、初めて取り返した。仲間を」
グラザードの声が震えていた。あの鉄面皮のグラザードの声が。
「今夜は祝え。帰ってきた同胞を迎えろ。飲め。食え。笑え。泣きたいなら泣け。——今夜は、全員が家族だ」
歓声が、夜空に弾けた。
―――――
宴が始まった。
解放された者たちが、最初は戸惑っていた。テーブルの前に立ったまま動かない者がいた。食べていいのかわからないのだ。
テオが走ってきた。
「食べなよ! パン美味いよ!」
大きな男——あの、最初に「使え。俺の魔力を」と言った男が、テオを見下ろした。
「……食べていいのか」
「当たり前じゃん! お前たちのために作ったんだよ!」
男がパンを手に取った。一口噛んだ。
咀嚼して、飲み込んで。
目を閉じた。
「……美味い」
掠れた声だった。
テオがにっと笑った。
「だろー!」
それが合図だった。二百六十人以上が、食べ始めた。
泣きながら食べている者がいた。笑いながら食べている者がいた。無言で黙々と食べ続ける者がいた。何年ぶりかの、まともな食事。
リーナが子どもたちのテーブルにいた。魚の骨を丁寧に取って、小さく切って、一人一人に配っていた。金色の髪が灯りに揺れている。草色の瞳が優しかった。
「はい、どうぞ。ゆっくり食べてね。おかわりもあるからね」
子どもが一人、リーナの膝に登ってきた。解放された子どもだ。三歳くらい。奴隷施設で生まれた子かもしれない。
リーナが抱き上げた。自然に。何の躊躇いもなく。子どもがリーナの胸に顔を埋めた。
「大丈夫だよ。もう大丈夫だからね」
レナが焼き肉を山盛りにして配っていた。
「ほら食え! もっと食え! 痩せすぎだ! 肉食え肉!」
解放された若い女性が、レナの勢いに圧倒されていた。でも肉を受け取って、一口食べて、小さく笑った。
「……美味しい」
「だろ! もう一枚いけ!」
シアは隅の方で静かに立っていた。術式書は持っていなかった。珍しく手ぶらだった。
解放された老人が、シアの前に来た。
「お嬢さん。あの転移の術式を設計したのは、あなたかね」
「……そうだ」
「ありがとう。あんたの術式がなかったら、わしらはここにいなかった」
シアは少し黙った。
「……私じゃない。あれはカインの力だ」
「でもあの術式は、あなたが三日かけて作ったと聞いた」
シアの耳が少し赤くなった。
「……当然のことをしただけだ」
老人が微笑んだ。「ありがとう」ともう一度言って、去っていった。
シアは小さく息を吐いた。でも口元が、ほんの少しだけ緩んでいた。
―――――
ノアを探した。
広場の端。テーブルから少し離れた場所。
ノアがいた。両親と一緒に。
三人で座っていた。並んで。肩が触れ合う距離で。
ノアの父親は——痩せていた。がっしりした体格だったはずが、骨が浮き出ていた。左手の指が二本、不自然な角度に曲がっていた。折られたのだろう。
ノアの母親は——ノアに似ていた。水色の髪。でもノアより長くて、痩せた肩に張り付いていた。目の下に深い隈があった。
でも二人とも——笑っていた。
ノアが二人の間に座って、両手で両親の手を握っていた。
母親がノアの水色の髪を撫でていた。
「大きくなったね」
「三年だもん。もう十六だよ」
「そうだね。十六……。立派になった」
「立派じゃないよ。全然」
「立派だよ」父親が言った。低い声だった。掠れていた。でも温かかった。「お前は立派だ。一人で生き延びて、一人で町を守って。——俺たちの自慢の娘だ」
ノアの目から涙が落ちた。笑いながら。
「泣かないって決めたのに。もう泣かないって」
「泣いていいんだよ」母親が言った。「もう、笑わなくていいんだよ」
母親も泣いていた。父親も泣いていた。三人で泣いていた。笑いながら。
俺はそれ以上近づかなかった。
あの三人の時間は、誰にも邪魔されちゃいけない。
―――――
夜が更けた。
酒が出た。魔族は酒に強い。でも今夜は違った。解放された者たちは身体が弱っている。一杯で顔が赤くなった。でも誰も止めなかった。
グラザードが酒を飲んでいた。魔王祭のときと同じだ。三杯目で目が潤んだ。
「……また泣くんですか」
「泣かん」
「目が赤いですけど」
「酒のせいだ」
「嘘ですよね」
「……うるさい」
グラザードが目を拭った。泣いていた。
「……二十三年間、仲間が連れ去られるのを止められなかった。帰ってこないと知りながら、何もできなかった」
「……」
「魔王様が一晩でやったことを、俺は二十三年間できなかった」
「グラザードさんのせいじゃないです」
「わかっている。わかっているが——」
グラザードが酒を煽った。
「……ありがたい。本当にありがたい」
レナが後ろから「グラザード様また泣いてるー」と言った。グラザードが「うるさい」と泣きながら怒鳴った。前と同じだった。
―――――
ムルトゥスが、解放された老人たちと話していた。
同じくらいの年齢の者たち。百五十歳を超えているかもしれない。ムルトゥスの知り合いがいたのだろう。
「……生きておったか」
「ムルトゥス様こそ。お元気そうで」
「元気なものか。心臓が止まるかと思った。お前さんの名前が生存者の中にあったとき」
二人の老人が、静かに杯を合わせた。
百年ぶりの再会だった。
―――――
深夜。宴が落ち着いてきた頃。
俺は広場の隅のベンチに座っていた。身体がまだ重い。でも心は軽かった。
ノアが来た。
両親はもう寝たらしい。身体が限界だったのだろう。
ノアが隣に座った。茶色のブーツが、街灯の光に照らされていた。
「カイン」
「ん」
「ありがとう」
「何回目だ、それ」
「数えてない。でも足りない。一生かかっても足りない」
ノアが空を見上げた。星が出ていた。
「お父さんの指、折れてた。お母さんの身体、傷だらけだった」
「……ああ」
「でも二人とも笑ってた。あたしの顔を見て。笑ってた」
ノアの声が震えた。
「あたしが逃げた後も、二人はずっとあそこにいた。三年間。あたしがいなくなった後も」
「……」
「お母さんが言ってた。ノアが生きてると信じてたって。いつか誰かが助けに来てくれると信じてたって」
ノアが俺を見た。深い青の瞳。涙が光っていた。でも笑っていた。本物の笑顔。
「——来てくれた。本当に来てくれた」
「約束しただろ」
「うん。約束してくれた」
「守ったぞ」
「守ってくれた」
ノアが少し泣いた。でもすぐに拭いた。
「あたし、今日初めてわかった」
「何が」
「希望って、こういうことだったんだ」
前に「希望の意味を初めて知った」と言った。あのときは海が蘇ったときだった。
でも今は違う。
「海が戻ったときも嬉しかった。でも今日は——お父さんとお母さんが隣にいる。それだけで、今まで生きてた意味が全部わかった」
「……」
「生きててよかった。逃げてよかった。ナーヴェルに行ってよかった。カインに会えてよかった」
ノアが立ち上がった。俺の前に立った。
深々と頭を下げた。
「——ありがとう、魔王様」
顔を上げた。涙の跡が光っていた。水色のショートボブが風に揺れていた。小麦色の肌が街灯に照らされていた。
笑っていた。
処世術じゃない。太陽でもない。
静かで、温かくて、優しい笑顔だった。
ノアの、本当の笑顔だった。
「ノア」
「ん」
「お前の笑顔、本物になったな」
ノアが少し目を丸くした。
それから、もう一度笑った。
「……カインのおかげだよ」
―――――
シアが来た。
広場の喧騒から少し離れた場所で、俺とノアが話しているのを見ていたのだろう。
「ノア。両親が起きたら探すぞ。戻っておけ」
「うん。おやすみ、カイン。おやすみ、シアちゃん」
ノアは手を振って走っていった。茶色のブーツの音が石畳に響いた。
裸足の音じゃなかった。靴の音だった。
シアが隣に座った。
「……いい顔をしていた。あの子」
「ああ。本物の笑顔だった」
「嘘の笑顔が上手すぎる子だった。もう嘘をつかなくていい」
「ああ」
しばらく二人で黙っていた。街灯の光が揺れていた。遠くで誰かが歌っている声が聞こえた。
「カイン」
「ん」
「……よくやった」
シアが言った。静かに。
「帰ってきた。約束を守った。二百六十人以上を連れて。一人も殺さず」
「シアの術式のおかげだ」
「また同じことを言う」
「本当のことだから」
シアは少し黙った。
「……疲れただろう」
「疲れた。めちゃくちゃ疲れた」
「なら寝ろ」
「もう少しだけ」
「何をしてる」
「この景色を見てる」
広場を見た。灯りの下で、まだ話し込んでいる者たちがいた。解放された者と、王都の住民が。隣り合って座って。酒を交わして。笑って。
百年間離れていた者たちが、隣に座っている。それだけの光景が、どうしようもなく美しかった。
「……いい夜だな」
「ああ」
シアが小さく頷いた。
「いい夜だ」
二人でベンチに座ったまま、夜が明けるのを待っていた。
街灯の白と紫の光が、静かに揺れていた。
いい夜だった。最高の夜だった。




