■ 第61話「全員連れて帰る」
紋様が崩れていく。
碧い光が明滅している。強くなって、弱くなって、また強くなって——弱くなる。安定しない。二百六十人以上の重さが、ヴェルデを押し戻している。
膝をついていた。片膝。地面に手をついている。
——足りない。
視界がぼやけていた。魔力回路が悲鳴を上げている。身体が震えている。
二百六十人以上が見ている。
さっき「百年ぶりの魔王だ」と叫んだ男が、膝をついている。紋様が消えかけている。
——信じようとしてくれた目が、また曇り始めていた。
老人が目を伏せた。女性が子どもを抱きしめた。大きな男が拳を握って、何も言わずに立っていた。
諦めが、戻ってきている。
「……やっぱり、無理なんだ」
誰かが呟いた。小さい声。でも通路に響いた。
「……知ってた。そんな簡単に出られるわけない」
「百年だぞ。百年間、誰も来なかった。今さら——」
声が広がっていく。諦めの声が。
——やめろ。やめてくれ。諦めるな。
でも——俺が膝をついてるんだ。俺が「無理だ」って顔をしてるんだ。この人たちが諦めるのは当然だ。
あの夜。シアの前で泣いた。全部吐き出した。怖いと言った。
シアが言った。
「泣きたいなら泣け。震えたいなら震えろ。全部吐き出せ。——明日になったら、また立てばいい」
——明日になった。
今が、その「明日」だ。
シアが全部受け止めてくれた。怖さも弱さも全部。だから今、空っぽだ。もう怖さは吐き出した。残っているのは——
——やると決めた覚悟だけだ。
——立てよ俺。膝ついてんじゃねぇよ。二百六十人以上が見てんだろ。
右手で地面を叩いた。
「——命に代えても、希望をもう絶対絶やしちゃいけねぇだろぉぉぉおおお!!」
叫んだ。自分に。腹の底から。通路に響いた。二百六十人以上が息を飲んだ。
立ち上がった。
膝が震えていた。身体が痛かった。視界がぼやけていた。
でも立った。
二百六十人以上を見た。
諦めかけた目。曇った目。また裏切られると思っている目。
「——諦めるな」
声が出た。自分でも驚くくらい、低くて強い声だった。
二百六十人以上が顔を上げた。
「俺が膝をついたくらいで諦めるな。まだ倒れてない。まだ立ってる」
「……」
「お前たちは百年間耐えた。舌を噛み切らなかった。地獄の中で生き延びた。——その強さを、あと少しだけ貸してくれ」
老人が顔を上げた。涙が流れていた。
「——お前たちが諦めないなら、俺も諦めない。お前たちが立ってるなら、俺も立つ。それが魔王だ」
碧い光が——揺れた。
消えかけていたはずの光が、揺れた。弱くなっていたはずの光が、少しだけ戻った。
——なんだ。今、何が起きた。
二百六十人以上を見た。
目が変わっていた。さっきの諦めが消えていた。
老人が立っていた。背筋を伸ばして。女性が子どもを抱えたまま、俺を見ていた。大きな男が拳を握って、頷いていた。
——この人たちの目が変わっている。
そして——息吹の核。通路に十個設置した核が、まだ息吹を放ち続けていた。魔族にとっては回復の力。二百六十人以上の身体に息吹が染み込んで、衰弱していた魔力が戻り始めていた。
大きな男が、一歩前に出た。
俺の背中に手を置いた。
「……使え。俺の魔力を」
その瞬間——魔力が流れ込んできた。手のひらから。温かかった。
男の後ろにいた老人が、男の背中に手を置いた。「わしのも持っていけ」
老人の魔力が男を通って、俺に届いた。
その後ろの女性が、老人の肩に手を置いた。その後ろの男が、女性の背に手を置いた。
連鎖が始まった。
後ろから前へ。前の人の身体に触れて、魔力を送る。前の人がまた前に送る。二百六十人以上の鎖が、通路の奥から俺の背中まで一本に繋がった。
一人分は微かだった。でも二百六十人以上の信頼の鎖となって重なったとき——
——桁が変わった。
「——鎖に繋がれていたお前たちが、今度は自分の意志で鎖を作った! これが本当の絆だ!」
碧い光が脈打った。信頼の鎖を通って、魔力が津波のように押し寄せてくる。
「——奴隷の鎖は断ち切った! 今お前たちが作ったこの鎖は、誰にも断ち切れない!」
「——足りないなら、もらうぞ! お前たちの力を! 全部!」
叫んだ。二百六十人以上に向かって。
碧い光が脈打った。強く。強く。紋様が広がり始めた。消えかけていた端が、戻ってきた。二百六十人以上分の魔力が、ヴェルデに合流して、碧い光を膨れ上がらせていく。
角が燃えた。碧い光の粒子が通路中に舞った。紋様が二百六十人以上全員を包み込んだ。
碧い光が、通路を埋め尽くした。壁が碧に染まった。天井が碧に染まった。二百六十人以上の顔が碧い光に照らされていた。
大きな男が叫んだ。
「——魔王!」
一人の声だった。でもそれが引き金になった。
「魔王!」
「魔王様!」
「魔王様!!」
声が重なった。二百六十人以上の声が。通路に反響して、壁を震わせた。
「——お前らが捨てなかった希望が、今繋がってる!! それに応えなかったら魔王じゃねぇだろ!! 爆ぜちまえよヴェルデェェェェェェェエエエ!!」
碧が、爆ぜた。
光が溢れた。通路が。壁が。天井が。全部が碧に呑まれた。
二百六十人以上の身体が光に包まれた。
一瞬だった。
石畳の通路が消えた。鉄格子が消えた。松明の光が消えた。
代わりに——空が見えた。
青い空。朝日。白と紫の街灯。ガラスの窓。石畳の広場。
ヴェルダーク王都の、広場だった。
二百六十人以上が、広場に立っていた。
全員。
一人も欠けていない。
―――――
広場にいたシアが、転移陣の受け側を維持していた。碧い光が収まっていく。
シアの目が見開かれた。
「……全員……?」
二百六十人以上。ボロボロの服。裸足。痩せた身体。でも全員立っている。全員がここにいる。
朝日が広場を照らしていた。息吹が満ちた空気が、二百六十人以上の身体に染み込んでいく。
最初に泣いたのは老人だった。
「……息吹だ……」
膝をついた。両手で地面に触れた。
「温かい……土が……温かい……」
堰が切れた。
泣き声が広場に溢れた。二百六十人以上分の。何年分もの。何十年分もの。
抱き合う者がいた。地面にしゃがみ込む者がいた。空を見上げて動けない者がいた。子どもが「お外だ」と叫んでいた。
ノアが広場に走ってきた。
二百六十人以上の中を探していた。水色のショートボブが揺れていた。走って、走って、人の間をすり抜けて——
「——お父さん!! お母さん!!」
ノアの叫び声が広場に響いた。
人混みの中から、二人が振り返った。
男と女。痩せていた。ボロボロだった。でも——生きていた。
女の方がノアを見た。目が見開かれた。
「……ノア……?」
「お母さん!!」
ノアが飛び込んだ。母親の胸に。全力で。
母親がノアを抱きしめた。父親が二人をまとめて抱きしめた。
三人で泣いていた。声を上げて。広場の真ん中で。
ノアが泣いていた。本物の。処世術じゃない。太陽みたいな笑顔でもない。
ただの子どもが、親に抱きついて泣いていた。
―――――
俺は広場の中央に歩いた。
二百六十人以上が泣いていた。崩れていた。震えていた。
俺は声を出した。
「顔を上げてくれ」
少しずつ、顔が上がった。涙だらけの顔が。
「……俺の顔を見ろ。角がある。お前たちと同じだ。——俺は、お前たちの王だ」
二百六十人以上の目が、俺を見た。
「お前たちが何年そこにいたか、俺は知らない。何をされたか、全部はわからない。——でも一つだけわかることがある」
「お前たちは、生きていてくれた」
声が広場に響いた。
「どれだけ苦しくても。どれだけ痛くても。どれだけ絶望しても。——お前たちは死ななかった。生きることを選び続けた」
「それがどれだけすごいことか——お前たちはわかってないかもしれない。でも俺にはわかる」
「お前たちが生きていてくれたから、俺は今日間に合った。お前たちが一日でも早く諦めていたら、俺は間に合わなかった。——お前たちが繋いだ命を、今日俺が迎えに来れた」
「だから言わせてくれ」
「——生きていてくれて、ありがとう」
老人が崩れた。声を上げて泣いた。
女性が子どもを抱きしめたまま嗚咽した。
大きな男が、歯を食いしばって涙を堪えていた。堪えきれなかった。
「……もう頑張らなくていい。もう耐えなくていい。もう笑わなくていい。もう一人で泣かなくていい」
「泣きたいなら泣け。崩れたいなら崩れろ。——お前たちが立てなくなったら、俺が立つ。お前たちが歩けなくなったら、俺が背負う」
「明日のことは俺に任せろ。飯は俺が用意する。寝る場所は俺が作る。お前たちの安全は、この命に懸けて俺が守る」
「——お前たちは今日から、俺の民だ。俺の家族だ。俺の誇りだ」
「百年遅れた。許してくれとは言わない。——でもここから先の百年は、俺が全部背負う」
「だから——」
俺は、二百六十人以上を見渡した。
「——おかえり。よく生きていてくれた」
広場が、泣き声で溢れた。
全員が泣いていた。
立ったまま泣く者。膝をついて泣く者。地面に突っ伏して泣く者。声を上げる者。声の出ない者。
ノアが親に抱きついたまま、俺を見ていた。涙でぐちゃぐちゃの顔で。深い青の瞳で。
笑っていた。
本物の笑顔だった。
―――――
俺は——広場の端に立っていた。
立っていた。
また、立っていた。
南で倒れた。海で立てた。そして今——二百六十人以上を転移させて、まだ立っている。
嘘だ。立ててない。膝がガクガクしている。視界が暗い。魔力回路が焼けてるかもしれない。身体の感覚がほとんどない。
でも立ってる。倒れてない。
シアが走ってきた。
「カイン!」
俺はシアを見た。視界がぼやけていた。でもシアの顔はわかった。真白のショートボブ。銀色の瞳。泣きそうな顔。
「……帰ってきたぞ」
「……ばか」
シアの声が震えていた。
「約束……守ったな」
「守った。シアの術式のおかげだ」
「……私の術式じゃない。カインの力だ」
「二百六十人以上の力だよ。俺一人じゃ足りなかった」
シアが俺の腕を掴んだ。
「……もう倒れていい」
「まだ立って——」
「いいから。倒れていい。受け止めるから」
俺は——笑った。
力が抜けた。膝が崩れた。
シアが受け止めた。小さな身体で。俺の身体を支えて。
「……ありがとう、シア」
「……おかえり」
小さい声だった。
シアの目が赤かった。
広場で二百六十人以上が泣いていた。
ノアが親に抱きついて泣いていた。
朝日が全部を照らしていた。
俺は目を閉じた。シアの腕の中で。
——約束、守ったぞ。全部。




