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ヴェルデ・碧の力 —パーティー全員に嵌められ魔族領に捨てられた俺、封印術が覚醒してなぜか魔族に救世主と崇められる—  作者: はやんえでぃ
第7章

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■ 第60話「潜入」

 出発は夜だった。


 馬で半日。人間の国の国境近く、奴隷施設がある場所まで。シアが計算した最短ルート。壁の外を走る。息吹がない土地。枯れた荒野。


 見送りはシアとノアだけだった。


 シアが転移魔法の術式が刻まれた石板を渡してきた。


「この石板を地面に置いて、魔力を流せば転移陣が展開する。出口は王都の広場に設定してある。私が受け側の陣を維持する」


「わかった」


「術式の効率は限界まで上げた。あとはカインの魔力次第だ」


「ああ」


 シアが俺を見た。銀色の瞳が、月明かりを映していた。


 昨夜のことが頭をよぎった。泣いた。全部吐き出した。シアに抱えてもらった。


 今は——大丈夫だった。


「行ってくる」


「……行ってこい」


 シアの声は震えていなかった。昨夜全部受け止めたから。もう二人とも覚悟はできていた。


 ノアが俺の前に来た。


 水色のショートボブ。小麦色の肌。深い青の瞳。昨日シアに買ってもらった茶色のブーツを履いていた。


「カイン」


「ん」


「お父さんとお母さんを——お願いします」


 太陽みたいな笑顔じゃなかった。本物の顔だった。祈るような顔。


「任せろ」


 馬に跨がった。白銀の髪が夜風になびいた。


 走り出した。振り返らなかった。


―――――


 夜明け前。


 施設が見えた。


 ノアたちの証言通りだった。平原の真ん中に、石造りの建物が並んでいる。周囲に柵。南側に鉄の門。門の前に見張りが二人。


 松明の光が揺れていた。それ以外は暗い。


 俺は丘の陰に馬を繋いだ。


 ここからは一人だ。


 ——兵士の装備を手に入れる。


 施設の外周を回った。身を低くして。息を殺して。


 裏手に一人、巡回の兵士がいた。松明を持って、だらだら歩いている。油断している。まさか単独で乗り込んでくる奴がいるとは思っていない。


 背後から近づいた。


 封印術を直接流し込んだ。首の後ろに手を当てて。兵士が声も出さずに崩れ落ちた。魔力回路を封じた。数時間は起きない。


 鎧を剥いだ。着た。兜を被った。角が兜の中に隠れた。


 ——ここからが本番だ。


 息吹の核を十個、懐に入れてある。これが武器だ。


―――――


 門の前に歩いていった。


 見張りの兵士が二人、こちらを見た。


「交代か?」


「ああ。中を巡回する」


「こんな時間にか。ご苦労なこった」


 素通りできた。兜のおかげで顔が見えない。声は人間の言葉。三年間パーティーにいた。兵士の喋り方くらい染みついている。


 門をくぐった。


 石畳の通路。左右に鉄格子の扉が並んでいる。奴隷房だ。


 暗かった。松明が等間隔に刺さっているが、光が弱い。通路の奥が見えない。


 鉄格子の向こうに——人がいた。


 横になっている者。座っている者。壁にもたれている者。


 全員が痩せていた。ボロボロの服。裸足。目が虚ろだった。


 ——魔族だ。


 整った顔。小さな角。力のない目。


 百年間、ここに閉じ込められてきた者たちがいる。ノアの父親や母親もこの中にいるかもしれない。


 胸が締めつけられた。


 ——怒りは後だ。今は作戦を遂行する。


 通路を歩いた。兵士のふりをして。巡回しているように見せながら。


 最初の息吹の核を、通路の隅に置いた。目立たない場所に。壁と床の隙間に押し込んだ。


 手のひらから魔力を流し込む。息吹の核が応えるように熱を帯びた。白と紫の光がほんの微かに灯る。息吹が滲み出し始めた。人間にはわからないくらい薄く。じわじわと。


 二個目。同じように壁際に。魔力を込める。灯る。息吹が広がる。


 三個目。通路に沿って等間隔に。一つ起動するたびに魔力が削られていく。でも必要な投資だ。


 詰所の前を通った。中から声が聞こえた。笑い声。酒の匂い。夜勤の兵士たちが酒を飲んでいた。


 ——楽しそうだな。奴隷を鉄格子に閉じ込めて、酒を飲んでる。


 四個目の息吹の核を、詰所の入り口近くに置いた。魔力を流す。灯る。ここは少し多めに息吹が出るよう調整した。詰所の兵士を最優先で落とすために。


 五個目。六個目。置いて、込めて、灯す。通路の奥に進んでいく。


 突き当たりを右に曲がった。ダグが言っていたもう一列。力仕事用の奴隷が入れられている区画。


 七個目。八個目。込めるたびに魔力が減る。でもまだいける。


 ここの奴隷は体格が大きかった。それでも痩せていた。目が死んでいた。


 九個目を起動したとき——詰所から叫び声が聞こえた。


「おい——なんだこの——」


 声が途切れた。


 どさっ、と何かが倒れる音。


 息吹が効き始めた。息吹の核から放たれた息吹が通路に満ちて、人間の兵士の意識を奪っている。


 魔族にとっては回復。人間にとっては毒。


 倒れる音が連鎖した。一人、二人、三人。詰所から出ようとした兵士が通路で崩れた。


 十個目の息吹の核を奥の通路の端に置いた。最後の一個。魔力を込める。灯る。これで施設全体を覆える。


 通路を急いで戻った。


 兵士が転がっていた。通路のあちこちに。全員倒れている。目を閉じている。呼吸はある。死んではいない。昏睡しているだけだ。


 一人も殺していない。


 門の前の見張り二人も倒れていた。息吹が門の外まで漏れたらしい。


 ——制圧完了。


―――――


 鍵を壊す。


 封印術を展開した。全奴隷房の鍵に向けて。二十五部屋分の鍵と、通路の鉄扉の鍵。全部同時に。


 並列展開。一つ一つに精密な封印術を送り込んで、鍵の構造を内側から破壊する。


 集中した。汗が額を流れた。


 ——バキン。


 音が、二十五箇所で同時に鳴った。


 鉄格子の扉が、一斉に開いた。


 通路の鉄扉も開いた。


 全部屋。同時に。


 静寂があった。


 奴隷たちが——動かなかった。


 扉が開いたのに。鍵が壊れたのに。誰も出てこなかった。


 怯えていた。


 罠だと思っている。また何かされると思っている。扉が開くことに、良い記憶がないのだ。


 俺は兜を脱いだ。


 白銀の髪が通路に散った。水色の角が、息吹の光に照らされた。碧い瞳が、暗い通路の奥を見た。


 叫んだ。


「俺は魔王だ! 新しい魔王が、お前たちを助けに来た!」


 声が通路に反響した。


 奴隷たちが——顔を上げた。


 虚ろだった目が、俺を見た。角を見た。白銀の髪を見た。


「……魔王?」


 誰かが呟いた。掠れた声。


「魔族の……魔王が……?」


「ここから出ろ! 全員だ! 入り口に集まれ! お前たちを魔族領に連れて帰る!」


 最初に動いたのは、奥の部屋にいた大きな男だった。立ち上がった。よろめきながら。通路に出てきた。


 俺を見た。角を見た。


「……本物、か」


「本物だ。さあ出ろ」


 男が歩き出した。その後ろから、一人、また一人。


 ぞろぞろと出てきた。ボロボロの服。裸足。痩せた身体。虚ろな目。


 でも——歩いていた。入り口に向かって。


―――――


 入り口付近に全員を集めた。


 二百四十人。いや——もっといた。奥の奥にも部屋があった。合計で二百六十人以上。


 全員が俺を見ていた。


 怯えた目。信じられない目。希望を忘れた目。


 ノアと同じ目だった。


 俺は二百六十人以上の前に立った。


「聞いてくれ」


 声が通路に響いた。二百六十の目が俺を見ていた。


「俺は魔王カイン。一年前に魔族の王になった。——お前たちを迎えに来た」


 誰も声を出さなかった。信じていないのだ。当然だ。何年も、何十年も裏切られてきたのだから。


「お前たちのことを知ったのは、つい最近だ。ここに仲間がいることを、俺は知らなかった。——遅くなって、すまなかった」


 老人が一人、涙を流していた。声を出さずに。


「今からお前たちを魔族領に連れて帰る。壁がある。灯火がある。息吹が満ちた土地がある。——お前たちの居場所がある」


 ざわめきが起きた。小さく。でも確かに。


「——信じられないのはわかってる。でも一つだけ覚えてくれ」


 俺は全員を見渡した。


「——お前たちは、忘れられてなんかいなかった。俺が遅かっただけだ。もう誰も置いていかない」


 沈黙があった。


 奥の方で、女性が嗚咽を漏らした。


「お前たちが生きていたのは! 舌を噛み切らなかったのは! 少しの希望があったからだろう!」


 声が大きくなっていた。自分でも止められなかった。


「今だけでいい! その希望を、この俺に託せ! ——この俺が、百年ぶりの魔王だ!」


 二百六十人以上が、俺を見ていた。


 目が変わっていた。さっきまでの虚ろが消えていた。怯えも消えていた。


 ——信じようとしている目だった。


 もう時間がない。兵士が起きる前にやる。


 石板を地面に置いた。シアの術式が刻まれた石板。これに魔力を流せば、転移陣が展開する。


 魔力を流し込んだ。


 白と紫の紋様が地面に広がった。二百六十人以上を包み込むように。大きな円。


 ——でかい。今まで展開したどの術式よりも大きい。


 魔力が一気に削られた。


 紋様を維持するだけで、全魔力の半分が消えた。


 まだ転移は発動していない。維持しているだけだ。ここから全員を飛ばすには——


 シアの計算。全魔力の二倍以上。


 半分使って、まだ展開しただけ。発動に必要な魔力は、残りの何倍も必要。


「……っ」


 膝が震えた。


 ヴェルデだ。ヴェルデを使えばいける。碧の力。シアが名前をつけてくれた、俺だけの力。


 身体の奥底に潜った。魔力回路の一番深いところ。


 ——来い。ヴェルデ。


 碧い光が目覚めた。角が碧く光り始めた。瞳が碧に染まった。


 紋様に碧い光が流れ込んだ。白と紫の紋様が、碧に塗り替えられていく。


 出力が上がった。紋様が安定した。


 ——いける。このまま——


 転移を発動しようとした。


 ——足りない。


 碧い光が、揺れた。紋様が歪んだ。二百六十人以上の重さが、碧い光を押し戻している。


 もっとだ。もっと出力を上げないと。


 角の光が明滅した。安定しない。碧い光が強くなったり弱くなったりしている。


「っ——!」


 激痛が走った。魔力回路が悲鳴を上げている。碧い光を維持するだけで、回路が焼けそうだ。


 ——足りない。


 二百六十人は、想定より二十人多い。その二十人分が、致命的に重い。


 紋様が崩れ始めた。端から消えていく。碧い光が薄くなっていく。


「……嘘だろ」


 声が漏れた。


 足りないのか。ヴェルデでも。俺の全部を出しても。


 膝をついた。


 紋様が半分消えた。二百六十人以上のうち、半分が紋様の外に出てしまう。全員は運べない。


 ——無理だ。


 その言葉が、頭を埋め尽くした。


 ——どう考えても無理だ。二百六十人以上は多すぎる。魔力が足りない。ヴェルデでも足りない。


 半分だけ運ぶか。百三十人を先に転移させて、もう一度戻ってくるか。


 ——だめだ。一度転移を使ったら、魔力が空になる。戻ってこれない。残りの百三十人は取り残される。昏睡した兵士が起きる。全員捕まる。


 他の方法を考えるか。施設の外に出て、歩いて逃げるか。二百六十人以上で。人間の国を。追っ手が来る。無理だ。


 ——じゃあどうする。


 二百六十人以上の目が、俺を見ていた。


 魔王だと名乗った。助けに来たと言った。ここから出ろと叫んだ。


 それなのに——転移が発動しない。紋様が崩れている。魔王が膝をついている。


 目の前で、希望が消えかけている。


 また。


 また俺が——足りなかったのか。


 視界がぼやけた。痛みで。恐怖で。


 昨夜シアに吐き出した言葉が蘇った。


 「二百四十人の前で魔王だって名乗って、それで助けられなかったら、あの人たちの希望を一回灯して、また消すことになる。それが一番怖い」


 ——今、それが起きようとしている。

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