■ 第60話「潜入」
出発は夜だった。
馬で半日。人間の国の国境近く、奴隷施設がある場所まで。シアが計算した最短ルート。壁の外を走る。息吹がない土地。枯れた荒野。
見送りはシアとノアだけだった。
シアが転移魔法の術式が刻まれた石板を渡してきた。
「この石板を地面に置いて、魔力を流せば転移陣が展開する。出口は王都の広場に設定してある。私が受け側の陣を維持する」
「わかった」
「術式の効率は限界まで上げた。あとはカインの魔力次第だ」
「ああ」
シアが俺を見た。銀色の瞳が、月明かりを映していた。
昨夜のことが頭をよぎった。泣いた。全部吐き出した。シアに抱えてもらった。
今は——大丈夫だった。
「行ってくる」
「……行ってこい」
シアの声は震えていなかった。昨夜全部受け止めたから。もう二人とも覚悟はできていた。
ノアが俺の前に来た。
水色のショートボブ。小麦色の肌。深い青の瞳。昨日シアに買ってもらった茶色のブーツを履いていた。
「カイン」
「ん」
「お父さんとお母さんを——お願いします」
太陽みたいな笑顔じゃなかった。本物の顔だった。祈るような顔。
「任せろ」
馬に跨がった。白銀の髪が夜風になびいた。
走り出した。振り返らなかった。
―――――
夜明け前。
施設が見えた。
ノアたちの証言通りだった。平原の真ん中に、石造りの建物が並んでいる。周囲に柵。南側に鉄の門。門の前に見張りが二人。
松明の光が揺れていた。それ以外は暗い。
俺は丘の陰に馬を繋いだ。
ここからは一人だ。
——兵士の装備を手に入れる。
施設の外周を回った。身を低くして。息を殺して。
裏手に一人、巡回の兵士がいた。松明を持って、だらだら歩いている。油断している。まさか単独で乗り込んでくる奴がいるとは思っていない。
背後から近づいた。
封印術を直接流し込んだ。首の後ろに手を当てて。兵士が声も出さずに崩れ落ちた。魔力回路を封じた。数時間は起きない。
鎧を剥いだ。着た。兜を被った。角が兜の中に隠れた。
——ここからが本番だ。
息吹の核を十個、懐に入れてある。これが武器だ。
―――――
門の前に歩いていった。
見張りの兵士が二人、こちらを見た。
「交代か?」
「ああ。中を巡回する」
「こんな時間にか。ご苦労なこった」
素通りできた。兜のおかげで顔が見えない。声は人間の言葉。三年間パーティーにいた。兵士の喋り方くらい染みついている。
門をくぐった。
石畳の通路。左右に鉄格子の扉が並んでいる。奴隷房だ。
暗かった。松明が等間隔に刺さっているが、光が弱い。通路の奥が見えない。
鉄格子の向こうに——人がいた。
横になっている者。座っている者。壁にもたれている者。
全員が痩せていた。ボロボロの服。裸足。目が虚ろだった。
——魔族だ。
整った顔。小さな角。力のない目。
百年間、ここに閉じ込められてきた者たちがいる。ノアの父親や母親もこの中にいるかもしれない。
胸が締めつけられた。
——怒りは後だ。今は作戦を遂行する。
通路を歩いた。兵士のふりをして。巡回しているように見せながら。
最初の息吹の核を、通路の隅に置いた。目立たない場所に。壁と床の隙間に押し込んだ。
手のひらから魔力を流し込む。息吹の核が応えるように熱を帯びた。白と紫の光がほんの微かに灯る。息吹が滲み出し始めた。人間にはわからないくらい薄く。じわじわと。
二個目。同じように壁際に。魔力を込める。灯る。息吹が広がる。
三個目。通路に沿って等間隔に。一つ起動するたびに魔力が削られていく。でも必要な投資だ。
詰所の前を通った。中から声が聞こえた。笑い声。酒の匂い。夜勤の兵士たちが酒を飲んでいた。
——楽しそうだな。奴隷を鉄格子に閉じ込めて、酒を飲んでる。
四個目の息吹の核を、詰所の入り口近くに置いた。魔力を流す。灯る。ここは少し多めに息吹が出るよう調整した。詰所の兵士を最優先で落とすために。
五個目。六個目。置いて、込めて、灯す。通路の奥に進んでいく。
突き当たりを右に曲がった。ダグが言っていたもう一列。力仕事用の奴隷が入れられている区画。
七個目。八個目。込めるたびに魔力が減る。でもまだいける。
ここの奴隷は体格が大きかった。それでも痩せていた。目が死んでいた。
九個目を起動したとき——詰所から叫び声が聞こえた。
「おい——なんだこの——」
声が途切れた。
どさっ、と何かが倒れる音。
息吹が効き始めた。息吹の核から放たれた息吹が通路に満ちて、人間の兵士の意識を奪っている。
魔族にとっては回復。人間にとっては毒。
倒れる音が連鎖した。一人、二人、三人。詰所から出ようとした兵士が通路で崩れた。
十個目の息吹の核を奥の通路の端に置いた。最後の一個。魔力を込める。灯る。これで施設全体を覆える。
通路を急いで戻った。
兵士が転がっていた。通路のあちこちに。全員倒れている。目を閉じている。呼吸はある。死んではいない。昏睡しているだけだ。
一人も殺していない。
門の前の見張り二人も倒れていた。息吹が門の外まで漏れたらしい。
——制圧完了。
―――――
鍵を壊す。
封印術を展開した。全奴隷房の鍵に向けて。二十五部屋分の鍵と、通路の鉄扉の鍵。全部同時に。
並列展開。一つ一つに精密な封印術を送り込んで、鍵の構造を内側から破壊する。
集中した。汗が額を流れた。
——バキン。
音が、二十五箇所で同時に鳴った。
鉄格子の扉が、一斉に開いた。
通路の鉄扉も開いた。
全部屋。同時に。
静寂があった。
奴隷たちが——動かなかった。
扉が開いたのに。鍵が壊れたのに。誰も出てこなかった。
怯えていた。
罠だと思っている。また何かされると思っている。扉が開くことに、良い記憶がないのだ。
俺は兜を脱いだ。
白銀の髪が通路に散った。水色の角が、息吹の光に照らされた。碧い瞳が、暗い通路の奥を見た。
叫んだ。
「俺は魔王だ! 新しい魔王が、お前たちを助けに来た!」
声が通路に反響した。
奴隷たちが——顔を上げた。
虚ろだった目が、俺を見た。角を見た。白銀の髪を見た。
「……魔王?」
誰かが呟いた。掠れた声。
「魔族の……魔王が……?」
「ここから出ろ! 全員だ! 入り口に集まれ! お前たちを魔族領に連れて帰る!」
最初に動いたのは、奥の部屋にいた大きな男だった。立ち上がった。よろめきながら。通路に出てきた。
俺を見た。角を見た。
「……本物、か」
「本物だ。さあ出ろ」
男が歩き出した。その後ろから、一人、また一人。
ぞろぞろと出てきた。ボロボロの服。裸足。痩せた身体。虚ろな目。
でも——歩いていた。入り口に向かって。
―――――
入り口付近に全員を集めた。
二百四十人。いや——もっといた。奥の奥にも部屋があった。合計で二百六十人以上。
全員が俺を見ていた。
怯えた目。信じられない目。希望を忘れた目。
ノアと同じ目だった。
俺は二百六十人以上の前に立った。
「聞いてくれ」
声が通路に響いた。二百六十の目が俺を見ていた。
「俺は魔王カイン。一年前に魔族の王になった。——お前たちを迎えに来た」
誰も声を出さなかった。信じていないのだ。当然だ。何年も、何十年も裏切られてきたのだから。
「お前たちのことを知ったのは、つい最近だ。ここに仲間がいることを、俺は知らなかった。——遅くなって、すまなかった」
老人が一人、涙を流していた。声を出さずに。
「今からお前たちを魔族領に連れて帰る。壁がある。灯火がある。息吹が満ちた土地がある。——お前たちの居場所がある」
ざわめきが起きた。小さく。でも確かに。
「——信じられないのはわかってる。でも一つだけ覚えてくれ」
俺は全員を見渡した。
「——お前たちは、忘れられてなんかいなかった。俺が遅かっただけだ。もう誰も置いていかない」
沈黙があった。
奥の方で、女性が嗚咽を漏らした。
「お前たちが生きていたのは! 舌を噛み切らなかったのは! 少しの希望があったからだろう!」
声が大きくなっていた。自分でも止められなかった。
「今だけでいい! その希望を、この俺に託せ! ——この俺が、百年ぶりの魔王だ!」
二百六十人以上が、俺を見ていた。
目が変わっていた。さっきまでの虚ろが消えていた。怯えも消えていた。
——信じようとしている目だった。
もう時間がない。兵士が起きる前にやる。
石板を地面に置いた。シアの術式が刻まれた石板。これに魔力を流せば、転移陣が展開する。
魔力を流し込んだ。
白と紫の紋様が地面に広がった。二百六十人以上を包み込むように。大きな円。
——でかい。今まで展開したどの術式よりも大きい。
魔力が一気に削られた。
紋様を維持するだけで、全魔力の半分が消えた。
まだ転移は発動していない。維持しているだけだ。ここから全員を飛ばすには——
シアの計算。全魔力の二倍以上。
半分使って、まだ展開しただけ。発動に必要な魔力は、残りの何倍も必要。
「……っ」
膝が震えた。
ヴェルデだ。ヴェルデを使えばいける。碧の力。シアが名前をつけてくれた、俺だけの力。
身体の奥底に潜った。魔力回路の一番深いところ。
——来い。ヴェルデ。
碧い光が目覚めた。角が碧く光り始めた。瞳が碧に染まった。
紋様に碧い光が流れ込んだ。白と紫の紋様が、碧に塗り替えられていく。
出力が上がった。紋様が安定した。
——いける。このまま——
転移を発動しようとした。
——足りない。
碧い光が、揺れた。紋様が歪んだ。二百六十人以上の重さが、碧い光を押し戻している。
もっとだ。もっと出力を上げないと。
角の光が明滅した。安定しない。碧い光が強くなったり弱くなったりしている。
「っ——!」
激痛が走った。魔力回路が悲鳴を上げている。碧い光を維持するだけで、回路が焼けそうだ。
——足りない。
二百六十人は、想定より二十人多い。その二十人分が、致命的に重い。
紋様が崩れ始めた。端から消えていく。碧い光が薄くなっていく。
「……嘘だろ」
声が漏れた。
足りないのか。ヴェルデでも。俺の全部を出しても。
膝をついた。
紋様が半分消えた。二百六十人以上のうち、半分が紋様の外に出てしまう。全員は運べない。
——無理だ。
その言葉が、頭を埋め尽くした。
——どう考えても無理だ。二百六十人以上は多すぎる。魔力が足りない。ヴェルデでも足りない。
半分だけ運ぶか。百三十人を先に転移させて、もう一度戻ってくるか。
——だめだ。一度転移を使ったら、魔力が空になる。戻ってこれない。残りの百三十人は取り残される。昏睡した兵士が起きる。全員捕まる。
他の方法を考えるか。施設の外に出て、歩いて逃げるか。二百六十人以上で。人間の国を。追っ手が来る。無理だ。
——じゃあどうする。
二百六十人以上の目が、俺を見ていた。
魔王だと名乗った。助けに来たと言った。ここから出ろと叫んだ。
それなのに——転移が発動しない。紋様が崩れている。魔王が膝をついている。
目の前で、希望が消えかけている。
また。
また俺が——足りなかったのか。
視界がぼやけた。痛みで。恐怖で。
昨夜シアに吐き出した言葉が蘇った。
「二百四十人の前で魔王だって名乗って、それで助けられなかったら、あの人たちの希望を一回灯して、また消すことになる。それが一番怖い」
——今、それが起きようとしている。




