■ 第6話「結界」
異変があったのは、夜明け前だった。
集落に警報の鐘が鳴り響いた。
俺が飛び起きて外に出ると、すでに魔族の兵たちが動いていた。武器を手に、北の方角へ走っていく。
グラザードがそこにいた。
「人間の侵攻部隊だ。北の境界線を越えてきた。百人規模」
「百人——」
「カイン」グラザードは俺を見た。「来るか」
——ここで俺が立たなかったら、昨日の約束が嘘になる。
「行く」
―――――
北の境界線まで走った。
着いたとき、すでに戦闘が始まっていた。
魔族の兵と人間の兵が、境界線を挟んでぶつかり合っている。人間側は重装備だった。鉄の鎧、長槍、魔法使いが後方に控えている。王国の正規軍だ。
俺は地形を見た。
境界線の向こうは開けた平地。こちら側は集落へ続く一本道。ここを突破されたら集落まで一直線だ。
魔族の兵は懸命に防いでいたが、数で押されていた。
じわじわと、境界線が後退していく。
「カイン」
横にシアが来た。
いつの間にか来ていた。白い装束が夜風に揺れている。
「来たのか」
「あなたの術式を見る必要がある」
相変わらずの口調だった。でも俺の横に並んで、前を見ていた。
「何かできそうか」とシアが聞いた。
俺は境界線を見た。
ここに結界を張れば——いや、普通の結界じゃ百人規模の正規軍は止められない。でも息吹を混ぜたら。先日の訓練で石畳を抉った、あの術式を。防御に転用したら。
——恩を返すって決めたのが昨日。今日がその一回目だ。
「やってみる」
俺は一歩前に出た。
―――――
術式を展開し始めた。
封印術の紋様を、境界線に沿って横に広げていく。普段の何倍もの規模だ。魔力が一気に削られる感覚がある。
同時に、息吹を引き込む。
来た。温かい。馴染む。術式の中に息吹が流れ込んで、紋様の色が白から紫に変わっていく。
魔族の兵の一人が気づいて叫んだ。
「下がれ! 下がれ——!」
兵たちが一斉に後退した。
俺は全部を境界線に向けて解き放った。
——三年間、誰にも見てもらえなかった力だ。今日初めて、見てくれる人がいる前で出す。
―――――
光が、広がった。
白と紫が混ざった光の壁が、境界線に沿って立ち上がった。高さは木々を超えて、横幅は視界の端から端まで。
人間側の最前線の兵たちが、光の壁に突っ込んで弾き飛ばされた。魔法使いが後方から術式を撃ち込んできたが、壁に触れた瞬間に霧散した。
静寂。
壁は、揺らぎもしなかった。
俺は膝をついた。魔力がほとんど空だった。身体が重い。立っているのがやっとだ。
でも、壁はそこにあった。
「……すごい」
誰かの声が聞こえた。魔族の兵の誰かだろう。
グラザードが俺の横に来た。しばらく光の壁を見ていた。
「維持にどれだけ魔力がいる」
「それが——」俺は手のひらを見た。「もうほとんど使い切ったのに、消えない」
グラザードが眉を動かした。
シアが壁に近づいた。指先で紋様の光をなぞって、しばらく黙っていた。
「消えない」シアは静かに言った。「これは維持術式じゃない」
「どういうことだ」
「息吹が壁そのものに定着している。カインの封印術が息吹を固定した。もうカインの魔力がなくても、この場所の息吹が壁を維持し続ける」
グラザードが「永続するということか」と言った。
「息吹がある限り消えない。魔族領ではほぼ永続する結界だ」
シアは小石を拾って壁に向けて投げた。石は壁に触れた瞬間に弾き飛ばされた。
「人間の攻撃は通らない。息吹と相性が悪いから、壁が弾く」
次にシアは自分の手のひらに小さな魔力の光を作り、そっと壁に触れさせた。光は壁をすり抜けた。
「魔族の魔力は通る。息吹と相性がいいから、壁が受け入れる。つまり——」
「魔族は通れて、人間は通れない」グラザードが静かに言葉を継いだ。「攻撃も通らない」
「そういうことだ」
静寂が広場に落ちた。
グラザードは壁を見上げた。長い沈黙の後、静かに言った。
「百年間、欲しかったものだ」
その一言が、広場に落ちた。
魔族の兵たちが顔を見合わせた。誰も何も言わなかった。でもその目に、確かに何かが灯っていた。
グラザードが兵たちに指示を飛ばし始めた。
―――――
そのとき、向こう側から声が聞こえた。
光の壁越しに、人間の兵が叫んでいた。
「なんだこの結界は! 誰が——」
壁の向こうに、一人の兵士が立っていた。
鎧の紋章から、王国の中堅どころの兵だとわかる。その兵士が光の壁の向こうから俺を見た。
目が合った。
兵士の顔が、変わった。
「……お前は」兵士が絞り出すように言った。「カイン・アーヴェル、か」
俺は何も言わなかった。
「生きていたのか。息吹帯に捨てたはずじゃ——」
「そうだよ」
俺は静かに言った。
「生きてる」
兵士は光の壁を見た。俺を見た。魔族の兵たちを見た。
「お前、まさか魔族側に——」
「見ての通りだ」
兵士は何か言おうとして、止まった。
俺は続けた。
「王国に戻って伝えろ。カイン・アーヴェルは死んでいない。そして、もうお前たちの側じゃない」
「お前たちが俺を捨てた日が、お前たちが一番の敵を作った日だ」
兵士は青ざめた顔のまま、後退していった。
俺はその背中を見送った。
胸の中は、思ったより静かだった。
怒りもなかった。悲しみもなかった。
ただ、はっきりしただけだ。
俺の居場所は、ここだ。
―――――
戦闘が終わったのは夜明けだった。
人間側は光の壁を突破できず、撤退していった。
魔族の兵に死者は出なかった。
俺は地面に座り込んだまま、動けなかった。魔力を使い果たして、指の先まで力が入らない。
横にシアが来た。
無言でしゃがんで、俺の手に何かを押しつけた。
小さな瓶だった。
「魔力回復薬だ。飲め」
「ありがとう」
飲んだ。苦かった。でも、じわじわと魔力が戻ってくる感覚があった。
シアは俺の横に座ったまま、光の壁を見ていた。壁はまだ立っていた。息吹に定着した壁は、もう俺の魔力を必要としない。
「カイン」
「ん」
「あの結界」シアは壁を見たまま言った。「予言にある言葉と同じだ」
「何て言葉」
「『盾となりて、民を包む光』」
俺はその言葉を聞いた。
救世主、とムルトゥスは言っていた。魔族を導く者。
俺には、まだその実感はない。
でも。
あの兵士に「もうお前たちの側じゃない」と言った瞬間の、あの静けさ。
あれは本物だと思った。
「シア」
「なんだ」
「俺、ここで戦う。最後まで」
「……知っている」
「俺はまだ弱い。でも——弱い奴が守ろうとした壁は、たぶん一番硬い」
シアが俺を見た。
いつもの無表情だった。
でも、その銀色の瞳が——ほんの一瞬だけ、揺れた気がした。
「……知っている」
それだけ言って、シアは前を向いた。
俺たちはしばらく、並んで光の壁を見ていた。
夜明けの光が、白と紫の結界をゆっくりと染めていった。
―――――
集落に戻ると、テオが走ってきた。
「カイン! 無事だった!?」
「無事だよ」
「すごい光が見えたよ! あれカインがやったの!?」
「そうだよ」
テオは目を輝かせた。
「かっこよかった——!」
俺は笑った。
疲れていたけど、笑えた。
グラザードが近づいてきた。
「カイン」
「はい」
「……よくやった」
グラザードにしては珍しい言葉だった。
俺は頷いた。
「次はもっとうまくやります。——この壁が俺の答えです。ここで生きると決めた人間の、最初の答えだ」
グラザードは無言で頷いて、去っていった。
レナが後ろから肩を叩いてきた。
「カイン、あの結界マジでやばかったよ。私びっくりして剣落としたもん」
「落とすなよ」
「だって——あんなの見たことないし」
レナは珍しく、真剣な目をしていた。
「カイン、本当に強くなるね」
「なるよ」
俺は遠くを見た。王国の方角を。
アルベルト。ザック。ダイゴ。エレナ。
そして——すべての嘘を作り、魔族を醜悪だと国中に広め、百年間戦争を煽り続けた本人。俺を捨てさせた張本人。グレゴリウス枢機卿。
この五人だ。
まだ、その時じゃない。
でも、確実に近づいている。




