■ 第59話「前夜」
術式は三日で完成した。
シアが机の上に広げた紋様は、今まで見たどの術式よりも複雑だった。線の一本一本が精密で、隙間がない。三日間、ほとんど寝ずに設計したのだろう。シアの目の下に薄い隈があった。
「完成した」
「……ありがとう、シア」
「礼はいい。これで魔力消費を最大限まで抑えた。波長フィルターも組み込んだ。魔族だけが転移する。人間は置いていける」
「完璧だ」
「完璧じゃない。それでも全魔力の二倍以上は必要になる。ヴェルデを使っても、足りるかどうかはわからない」
「……ああ」
「明日の夜、出発する。準備はいいか」
「できてる」
シアが俺を見た。銀色の瞳が、何かを探るように俺を見ていた。
「……本当に?」
「できてる」
シアは少し黙った。
「……そう」
それだけ言って、術式書を畳んだ。
―――――
夜。
眠れなかった。
寝台に横になって、天井を見ていた。暗い。灯りを消した部屋。
頭の中で作戦を回している。もう何十回も。
潜入。兵士の装備を奪う。兜で角を隠す。通路に沿って息吹の核を設置する。兵士が昏睡する。鍵を壊す。奴隷房を開放する。二百四十人を集める。転移魔法を発動する。
何十回やっても、同じところで止まる。
転移魔法。二百四十人。全魔力の二倍以上。ヴェルデを使っても足りるかわからない。
足りなかったら。
——二百四十人が取り残される。昏睡した兵士が目を覚ます。追っ手が来る。全員捕まる。全員殺される。
俺のせいで。
目を閉じた。開けた。また閉じた。
眠れない。
昨日も眠れなかった。寝たのか寝てないのかわからない。頭がぼんやりしているのに、思考だけがぐるぐる回っている。
怖い。
正直に言えば——怖い。
南の戦いも怖かった。海を変えるときも怖かった。でも今回はその比じゃない。
あのときは自分が倒れるだけで済んだ。今回は二百四十人の命がかかっている。失敗したら全員死ぬ。
俺が。
俺一人が。
——足音が聞こえた。
扉の前で止まった。
ノックはなかった。足音が立ち止まったまま、しばらく動かなかった。
俺は起き上がった。扉を開けた。
シアが立っていた。
白い寝間着。真白のショートボブが少し乱れていた。裸足だった。
「……シア」
「起きてたか」
「眠れなかった」
「……私もだ」
シアは部屋に入ってきた。窓際に立った。外を見ていた。街灯の白と紫の光が、シアの横顔を照らしていた。
「入っていいとは言ってないんだけど」
「言わなくてもわかる。入ってほしい顔をしていた」
「……してたか」
「してた」
沈黙が落ちた。
長い沈黙だった。
俺は寝台の端に座っていた。シアは窓際に立っていた。二人の間に、二メートルくらいの距離があった。
「シア」
「何」
「……少し、話していいか」
「いい」
「弱音だ」
「いい」
俺は天井を見た。
「俺は魔王だ。だからこそ、やらなきゃいけない。二百四十人を助けに行かなきゃいけない。俺にしかできない。わかってる」
「……」
「無茶なのは正直わかってる」
「……」
「めちゃくちゃ怖い」
声が、少し震えた。自分でも驚いた。
「どうしようもなく怖い。昨日だって頭の中で作戦を何回も考え直して、うまく寝れなかった。寝たのか寝てないのかよくわからない」
シアは黙って聞いていた。
「いつも死ぬかもってギリギリだ。南のときも。海のときも。でも今回はその比じゃない」
手を見た。震えていた。
「二百四十人だ。失敗したら全員死ぬ。俺のせいで。俺が失敗したら、あの人たち全員が——」
声が詰まった。
「……ごめんな」
「……何が」
「生きて帰ってくるって約束しといて、こんなこと言って」
頬に何かが伝った。
涙だった。
泣いている。俺は泣いていた。いつからだ。気づかなかった。
怖い。怖くて泣いている。十八歳の男が。魔王が。部屋で一人で泣いている。
——一人じゃなかった。シアがいた。
「約束も、魔王も、期待も、希望も。全部、俺の肩に乗ってる」
涙が止まらなかった。
「今、押しつぶされそうだ」
シアは黙っていた。
「怖いよ。死ぬのより——みんなの期待を裏切る方が怖いかもしれない。ノアとの約束を守れないのが怖い。お前との約束を守れないのが怖い」
声が震えていた。もう隠せなかった。
「全部怖いんだ。全部」
沈黙が落ちた。
長い、長い沈黙。
足音がした。
シアが窓際から歩いてきた。二メートルの距離を、ゆっくりと。
俺の前に立った。
小さかった。シアは本当に小さい。俺が座っていても、目線が同じくらいだ。
シアの手が伸びた。
俺の頬に触れた。涙を拭った。小さくて冷たい手だった。
「……泣いていい」
シアが言った。静かに。
「泣いていい。怖くていい。震えていい」
「……」
「カインは魔王だ。でも魔王の前に、一人の魔族だ。怖いのは当たり前だ」
シアの銀色の瞳が、俺を見ていた。近かった。
「私は——カインが弱いなんて思わない。怖いのに立ち上がれる人を、弱いとは言わない」
シアの手が、俺の頬から離れなかった。
「泣きたいなら泣け。震えたいなら震えろ。全部吐き出せ。——明日になったら、また立てばいい」
俺は——
堪えていたものが、全部崩れた。
声が出た。押し殺した声。嗚咽。情けない声だった。魔王の声じゃなかった。十八歳の、怖くて怖くてたまらない男の声だった。
「……転移が、失敗したら……二百四十人が……全員……」
「……」
「ノアの父さんと母さんが……もう死んでたら……どうしよう……約束したのに……取り戻すって言ったのに……」
「……」
「魔力が……足りなかったら……ヴェルデが出なかったら……どうすんだよ……あれ、自分でコントロールできてるのか……わかんないんだよ……毎回勝手に出てきただけで……」
「……」
「兵士に見つかったら……角がバレたら……潜入が失敗したら……核を設置する前に囲まれたら……」
「……」
「二百四十人の前で魔王だって名乗って……それで助けられなかったら……あの人たちの希望を一回灯して……また消すことになる……それが一番怖い……」
「……」
「シアの術式が……完璧なのはわかってる……三日間寝ないで作ってくれたのもわかってる……でも俺が……俺の魔力が……足りなかったら……シアの三日間も無駄になる……」
「……」
「みんなが……信じてくれてるのに……グラザードも……ムルトゥスも……ノアも……お前も……信じてくれてるのに……応えられなかったら……」
「……」
「帰って来れなかったら……お前との約束も……」
声が途切れた。嗚咽が止まらなかった。言葉にならなかった。
シアが——俺の頭を抱えた。
小さな身体で。俺の頭を胸に引き寄せて。真白の髪が俺の顔に触れた。
何も言わなかった。
シアは一度も口を挟まなかった。全部聞いた。全部受け止めた。
ただ抱えていた。
俺が泣き止むまで。
―――――
どれくらい経ったかわからない。
涙が止まっていた。目が腫れていた。鼻が詰まっていた。情けない顔だった。
シアはまだ立っていた。俺の頭を抱えたまま。
「……ごめん」
「謝るな」
「情けないところを見せた」
「見たかった」
「……え」
「カインはいつも強い顔をしている。みんなの前で。私の前でも。——でも今夜のカインは、本当のカインだ」
シアが少し離れた。俺の顔を見た。
「私は、本当のカインを知りたかった」
銀色の瞳が、真っ直ぐだった。
「弱いカインも。怖がるカインも。泣くカインも。全部知った上で——それでも、この人についていきたいと思った」
シアの声が、少し震えていた。
「だから——明日、行ってこい。全部吐き出したなら、もう大丈夫だ」
「……大丈夫か」
「大丈夫だ。私の術式が守る。カインは発動するだけでいい。あとは全部、私が設計した術式がやる」
「……シア」
「何」
「ありがとう」
「……礼はいらないと言った」
「言いたいから言う」
シアの耳が赤くなった。暗い部屋でもわかった。
「……寝ろ。明日に響く」
「シアも寝ろ」
「……もう少しだけ」
シアは俺の隣に座った。寝台の端に。肩が触れていた。
「少しだけ、こうしていていいか」
「……いい」
二人で黙って座っていた。
窓の外に街灯の光が揺れていた。白と紫の光。
シアの肩が、温かかった。
いつの間にか、眠っていた。
隣にシアの温もりがあった。
怖さは消えていなかった。でも——一人じゃなかった。
それだけで、明日に向かえる気がした。




