■ 第56話「王都の一日」
ナーヴェルを発つ朝、町の全員が見送りに来た。
三十人弱。少ない。でも一週間前に来たときとは、顔が全然違っていた。
イルマ長老が杖をつきながら言った。
「王都から物資と人を送ると言ってくれたな」
「はい。造船の技術者と木材。あと食料も当面は」
「……恩に着る。本当に」
イルマが頭を下げた。深く。
「灯火と、海と、この町の命を、ありがとう」
住民たちが一斉に頭を下げた。
俺は少し困った。こういうのは慣れない。
「顔を上げてください。俺は約束を守っただけです」
ノアが横にいた。小さなリュックを背負っていた。中身は着替えと、イルマが持たせてくれた干し魚だけ。
「ノア。行くぞ」
「うん」
ノアは町を振り返った。白い石造りの建物。海底から光る灯火。崩れた桟橋。
「……すぐ帰ってくるから」
小さい声だった。町に向かって。
イルマが手を振った。子どもたちが「ノアねえちゃん!」と叫んでいた。
ノアが笑った。本物の方だった。
―――――
帰り道は三日間。
来るときに壁を広げながら進んだから、帰りは壁の内側をずっと通れる。安全な道。
ノアが馬に乗るのは初めてだった。
「俺の後ろに乗れ」
「え、一緒に?」
「一人で乗れるわけないだろ。しっかり掴まれ」
ノアがカインの後ろに跨がった。小さな手が俺の腰に回った。
「高い……! 落ちそう……!」
「落ちないから。ちゃんと掴まってろ」
「掴まってる! めっちゃ掴まってる!」
リーナが横で微笑んでいた。レナが「おー青春」と呟いた。シアが先頭を無言で走っていた。速度はノアに合わせて落としていた。
二日目にはノアも慣れた。
「カイン、風気持ちいい!」
「暴れるな。落ちるぞ」
「大丈夫! ちゃんと掴まってる!」
三日目にはノアがカインの背中で居眠りしていた。小麦色の頬がカインの背に押しつけられていた。水色の髪が風に揺れていた。
「……寝てるな」
「疲れたんでしょ」リーナが小さく笑った。
「信頼されてるね、カイン」レナが言った。
シアは何も言わなかった。ちらっと後ろを見て、すぐに前を向いた。
―――――
三日目の午後。
丘を越えたとき、ノアが馬の上で固まった。
「……何、あれ」
ヴェルダーク王都が見えた。
ガラスの窓が陽光を反射して、きらきら光っている。通りに街灯が並んでいる。建物が丘の上に整然と並んでいる。畑が広がっている。緑が濃い。人が歩いている。
「あれが王都だよ」
「嘘……町がキラキラしてる……」
ノアの深い青の目が、限界まで開いていた。
門をくぐった。ガラスの通りに入った。
「うわ……うわうわうわ……」
ノアがきょろきょろしていた。ドレス屋。肉屋。宝石店。ガラス工房。全部の窓を覗き込んでいた。
「お店がいっぱいある! ナーヴェルにはお店なんて一つもなかった!」
「ここも一年前は何もなかったんだ」
「一年で!? これを!?」
「命の灯火と息吹石のおかげだ」
ノアが街灯を見上げた。白と紫の柔らかい光。
「これが息吹石……綺麗……」
ドルクの工房の窓に、あのコップが飾ってあった。光を受けて黄色と紫がうねるように光っている。
「何あれ!! 宝石!?」
「ガラスだよ。息吹石を混ぜたガラス」
「ガラスがこんなに綺麗になるの……」
ノアは窓に張り付いていた。小麦色の額がガラスにくっついていた。
―――――
グラザードの執務室に報告に行った。ノアを紹介した。
「ナーヴェルで世話になった。ノアだ」
「ノアです。よろしくお願いします」
ノアはぺこりと頭を下げた。元気だった。太陽みたいに。
グラザードがノアを見た。水色のショートボブ。小麦色の肌。深い青の瞳。裸足。
「……靴を履いていないのか」
「あ、持ってないんです。ずっと裸足で」
グラザードの眉が少し動いた。何かを感じ取ったのだろう。ノアの足の裏の傷跡を見たかもしれない。
「グラザード、明日軍議を開きたい。ノアに証言してもらうことがある。ナーヴェルの報告もあるが、それだけじゃない。全員に聞いてもらわなければならない話がある」
グラザードが俺を見た。俺の顔に、何かを読み取ったらしい。
「……わかった。明日の朝、全将を集める」
「ムルトゥス様にも来てもらってください」
「それほどの内容か」
「それほどの内容です」
グラザードは頷いた。
俺はノアを見た。
「ノア。明日の軍議で話してもらうことがある」
「……うん。わかってる」
「今日一日は自由だ。王都を見てこい」
ノアの目がぱっと明るくなった。
「いいの!?」
「シアとリーナに案内してもらえ」
シアが「私が?」という顔をした。リーナが「喜んで!」と笑った。
「レナも行け」
「あたしも? まあいいけど」
「俺は報告の準備がある。頼んだ」
―――――
女四人が通りに消えていった。
ノアの声が遠くから聞こえた。「あれ何!? あれも!? 全部見たい!!」
リーナの笑い声が聞こえた。レナの「落ち着け」が聞こえた。シアは無言だったが、たぶん一番ノアを見ていただろう。
俺は執務室で、明日の軍議の準備を始めた。
——あの子に、全員の前で話させる。辛いだろう。でも必要だ。
ノアの過去は、ノアだけの話じゃない。魔族全体の問題だ。
―――――
夕方、ノアたちが帰ってきた。
ノアが靴を履いていた。
茶色の革のブーツ。足首まであるやつ。紐で結ぶタイプ。
「カイン! 見て! 靴!」
ノアが嬉しそうに足を見せてきた。
「似合ってるな」
「シアが選んでくれた!」
シアが横で何でもない顔をしていた。
「足の形に合うものを選んだだけだ」
「シアちゃん三十分くらい迷ってたよね」リーナが笑った。
「迷ってない」
「迷ってた」レナが言った。
シアの耳が赤くなった。
ノアが靴を見下ろしていた。
「……生まれて初めて。自分の靴」
声が小さくなっていた。
「奴隷には靴はもらえなかった。逃げてからもずっと裸足だった。ナーヴェルにも靴屋なんてなかった」
ノアが俺を見た。深い青の瞳が、夕日を受けていた。
「……嬉しい」
一言だった。でもその一言に、十六年分が入っていた。
リーナが少し目を潤ませていた。レナが黙って腕を組んでいた。
シアが言った。
「似合っている」
ノアが笑った。
本物の笑顔だった。
―――――
夜、ノアはシアとリーナの部屋に泊まった。
三人で何か話している声が聞こえた。ノアの笑い声と、リーナの笑い声と、たまにシアの短い返事。
レナが俺の横を通りかかった。
「女子会してるよ、あの三人」
「楽しそうだな」
「ノアちゃん、いい子だね」
「ああ」
「明日、辛いこと話させるんでしょ」
「……ああ」
レナは少し黙った。
「あたしもいるからさ。隣にいるよ、あの子の」
「頼む」
レナは軽く手を振って去っていった。
部屋から、またノアの笑い声が聞こえた。
明日は辛い日になる。でも今夜は笑っていてほしい。
——明日のことは、明日でいい。




