■ 第55話「ノアの話」
海が蘇ってから三日が経った。
ナーヴェルは変わり始めていた。
漁師たちが毎朝海に出るようになった。投げ縄漁で魚を獲り、素潜りで海老や貝を獲る。食糧が足りないという言葉を、もう聞かなくなった。
子どもたちが浜で遊ぶようになった。波打ち際を走り回って、きゃあきゃあ叫んでいる。
イルマ長老が、崩れた桟橋を見ながら言った。
「船を作り直したい。木材があれば」
「王都から手配します。造船の技術を持った者も」
「……ありがたい」
町が、前を向き始めていた。
―――――
ノアは相変わらず元気だった。
朝から浜を走り回って、漁の手伝いをして、子どもたちと遊んで、夕方になると灯台に登る。
でも、少し変わった。
笑顔が、前より本物に近づいていた。
まだ完全じゃない。ときどき処世術の笑顔が混じる。でも割合が変わっていた。半分以上が本物になっていた。
リーナがノアと仲良くなっていた。年齢が近いからだろう。二人で浜を歩いて、貝を拾いながら話している姿をよく見かけた。
レナはノアの剣の腕を褒めていた。「筋がいい。誰かに習ったのか」と聞いていたが、ノアは「独学だよ」と笑って誤魔化していた。
シアはノアを静かに観察していた。何も言わなかった。でも見ていた。
―――――
四日目の夜。
灯台に登ったら、ノアが先にいた。
いつもの場所。灯台の一番上。海が見える特等席。
ノアが俺を見た。
「来ると思った」
「毎晩来てるからな」
「うん」
隣に座った。海底の灯火が光っていて、海面がうっすら白と紫に揺れていた。
しばらく黙って海を見ていた。
ノアが口を開いた。
「カイン」
「ん」
「あたしの話、聞いてくれる?」
声が静かだった。いつもの明るさがなかった。灯台の上でだけ見せる、本当のノアの声。
「聞く」
「長いよ」
「いい」
「……嫌いにならない?」
「ならない」
ノアが少し笑った。小さく。
「……ありがと」
深い青の瞳が、海を見ていた。
「あたしは、魔族領で生まれてない」
「……ああ」
「人間の国で生まれた」
風が吹いた。水色のショートボブが揺れた。
「お父さんとお母さんは、魔族だった。でも人間の国にいた。自分たちの意思じゃない。——捕まってた」
俺は黙って聞いていた。
「兵士用の奴隷。って言えばわかる?」
わからなかった。
「……兵士用の奴隷?」
「魔族は顔が整ってて、力が強い。だから人間の兵士に好まれるんだって。奴隷として」
俺の中で、何かが止まった。
「お父さんは力仕事をさせられてた。重い荷物を運んだり、訓練の相手をさせられたり。お母さんは——」
ノアの声が、少し詰まった。
「……兵士たちの、世話をさせられてた」
言葉を選んでいた。でも意味はわかった。
「あたしは、二人の間に生まれた。奴隷の子どもは奴隷。それが決まりだった」
「……」
「あたしが育ったら、お母さんと同じことをさせるために育てられた。兵士の——慰みもの、って、上の人が言ってるのを聞いた。小さい頃に」
俺の拳が、膝の上で白くなっていた。
「毎日が地獄だった。お父さんは毎晩ボロボロで帰ってきた。お母さんは泣いてた。でも二人ともあたしの前では笑ってた」
ノアが少し笑った。
「あたしの笑顔、お母さんに似てるって言われる。たぶんそうだと思う。お母さんも——辛いときに笑う人だった」
処世術の笑顔。あれは母親から受け継いだものだった。
「あたしが十二歳になった年。見た目が止まる歳だよね。あの歳になったら、もう——使われるって決まってた」
「……」
「お父さんとお母さんが、逃がしてくれた」
ノアの声が震えた。初めてだった。今夜初めて。
「兵士が出払った夜。お父さんが鎖を壊した。お母さんが食べ物を袋に詰めてくれた。二人とも来るんだと思った。一緒に逃げるんだと思った」
「……来なかったのか」
「お父さんが言った。俺たちが一緒だと目立つ。お前一人なら、角を隠せば人間の子どもに見える。魔族領を目指せ。東にずっと行けば着くって」
ノアの目から、涙が落ちた。
静かだった。嗚咽はなかった。ただ、涙が頬を伝っていた。
「お母さんが、最後に言った。笑っていなさいって。辛いときほど笑いなさいって。笑っていれば、誰かが助けてくれるからって」
——笑っていれば、誰かが助けてくれる。
ノアの笑顔の理由が、全部わかった。
「角を帽子で隠して、逃げた。残飯を漁って。水たまりの水を飲んで。追っ手がいないか怯えながら、人目を避けて歩いた。足の裏が血だらけになった。でも歩いた。一年くらい、ずっと」
「一年……」
「季節が一周した。雪の中も歩いた。夏の日差しの中も歩いた。何度も死にかけた」
あの傷跡。裸足で走るたびに見えていた古い傷。一年間の逃亡の傷だった。
「魔族領に入ったとき、息吹が身体に染みてきて、泣いた。生まれて初めて、空気が温かいと思った」
「……それで、ナーヴェルに」
「うん。海沿いをずっと歩いてたら、この町があった。イルマばあちゃんが、ボロボロのあたしを見て、何も聞かずにご飯をくれた」
ノアが袖で目を拭いた。
「それから三年。ここにいる」
「お父さんとお母さんは」
ノアが少し黙った。
「……わからない。生きてるかも、わからない」
声が小さかった。
「でも、生きてると思ってる。だって——あたしを逃がすために残ったんだから。死ぬために残ったんじゃない。生きるために残ったんだと思いたい」
俺は何も言えなかった。
言葉が出てこなかった。
「だからあたし、戦士になろうとしてる。強くなって、いつか——迎えに行く」
ノアが俺を見た。
深い青の瞳。涙で濡れていた。でも、目の奥に光があった。
「無理かもしれない。一人じゃ無理かもしれない。人間の国に、奴隷を取り戻しに行くなんて。でも——それがあたしの夢だから」
俺は——
俺は、自分の中で何かが壊れる音を聞いた。
人間の国にいた。三年間。勇者パーティーにいた。
その裏で、魔族が奴隷にされていた。
知らなかった。
「魔族は醜悪なもの」と教えられていた。顔が整っていて、力が強いなんて聞いたことがなかった。
——嘘だった。全部嘘だった。
「魔族は醜悪」——あれは魔族を敵対させるためのプロパガンダだ。醜悪で恐ろしい化け物だと思わせれば、国民は魔族を憎む。憎めば戦争を支持する。枢機卿はそうやって百年間、戦争を続けてきた。
でも実際の魔族は顔が整っていて、力が強い。奴隷にすれば使える。枢機卿はそれを知っていた。
だから奴隷は兵士専用なんだ。一般の国民の目に触れたら「魔族は醜悪」の嘘がバレる。兵士だけに使わせて、口を塞いで、表には出さない。
枢機卿が。あの男が。全部仕組んでいた。
勇者パーティーが魔族と戦わなかった理由。ダンジョンや魔獣ばかり相手にしていた理由。飾り物だった理由。
——魔族と接触させたくなかったからだ。顔を見たら嘘がバレる。
あの日、アルベルトが言った言葉が蘇った。追放の日。弾劾の壇上で。
「この男は白銀の髪と、吸い込まれるような碧い瞳で我々の信頼を得ていた。我がパーティーの華として迎え入れたことを、今は悔やんでいる」
——華として迎え入れた。
あのとき、何とも思わなかった。弾劾の勢いで聞き流した。
でも今、意味がわかった。
枢機卿は最初から、見た目の価値を知っていたんだ。魔族が整った顔をしていることを。だから俺の白銀の髪と碧い瞳を見て、パーティーに入れた。能力じゃない。封印術が使えるからじゃない。見た目がいいから入れた。飾り物として。
——あの男は、魔族を奴隷にしているのと同じ目で、俺を見ていた。
「……カイン?」
ノアの声が聞こえた。遠かった。
「顔、怖いよ」
俺はノアを見た。
水色のショートボブ。小麦色の肌。深い青の瞳。十六歳の子ども。奴隷として生まれて、逃げて、三年間一人でこの町を支えてきた子ども。
「……ごめん。怖い顔してたか」
「うん。すごく」
「ノア」
「ん」
「お前の父さんと母さんを、迎えに行く」
ノアの目が見開かれた。
「……え」
「今すぐじゃない。準備がいる。力もいる。でも——必ず迎えに行く」
「なんで……なんでカインが」
「俺は人間の国にいた。三年間。その裏で魔族が奴隷にされてたのを知らなかった」
拳を握った。
「——知らなかったことはせいじゃないかもしれない。でも知った今、何もしないのは俺のせいだ」
少し前にも同じことを言った。あの海の前で。
でも——同じ言葉のはずなのに、重さが全然違った。
あのときは海を変えるために言った。民の暮らしのために。それだって本気だった。
でも今は——奴隷にされている多くの命を、取り返すために言っている。人間の国に、こちらから本気で喧嘩を仕掛けるために。
同じ言葉だ。でも背負うものが変わった。
この言葉を、俺は何度でも言うだろう。そのたびに重くなるだろう。でもそれでいい。重くなるたびに、この言葉が本物になっていく。
ノアが息を飲んだ。
「お前の夢は、一人で叶えなくていい。俺がいる。俺の仲間がいる。魔王の力がある」
「……カイン……」
「約束する。お前の父さんと母さんを、取り戻す」
ノアの顔が、ぐちゃぐちゃになった。
泣いていた。声を殺して。両手で口を押さえて。肩が震えていた。
俺はノアの頭に手を置いた。水色の髪が、手のひらに触れた。
「よく話してくれた」
ノアが、声を漏らした。
「っ——ぅ——」
堰を切ったように泣き始めた。声を上げて。灯台の上で。海に向かって。
三年分じゃなかった。十六年分だった。
生まれてからずっと、泣けなかった分の涙だった。
俺はノアの頭を撫で続けた。何も言わなかった。
海が光っていた。灯火の光が波に揺れていた。
ノアが泣き止むまで、長い時間がかかった。
―――――
ノアが落ち着いてから、灯台を降りた。
宿舎に戻ると、シアが起きていた。
壁に寄りかかって、術式書を開いていた。でも読んでいなかった。俺を待っていたのだ。
「……聞いたか」
「ノアの話を?」
「ああ」
シアの銀色の瞳が、俺を見た。
「顔が変わっている。何を聞いた」
俺は全部話した。
奴隷のこと。ノアの両親のこと。「魔族は醜悪」という嘘のこと。枢機卿が仕組んでいたこと。
シアは最後まで黙って聞いていた。
聞き終わってから、長い沈黙があった。
「……魔族を醜悪だと広めて敵対させ、戦争を続けさせている。その裏で、魔族を兵士専用の奴隷にしている。国民にバレないように」
「ああ」
「枢機卿が全部仕組んでいる」
「たぶん」
「……カインは、奴隷のことを知らなかったんだな」
「ああ。醜悪だという話は人間の国じゃ当たり前だった。でもそれが嘘で、裏で奴隷にしていたなんて——三年間パーティーにいて、考えたこともなかった」
シアは少し間を置いた。
「……カインのせいじゃない」
「でも——」
「カインのせいじゃない」
シアが繰り返した。強い声だった。
「知らなかったのはカインだけじゃない。私たちも奴隷の実態は知らなかった。連れ去られた者がいることは知っていたが、どう扱われているかまでは。帰ってきた者がほとんどいないから」
「……」
「でも今、知った。ならやることは決まっている」
シアが俺を見た。
「ノアの両親を取り戻す。そして——他にもいるはずだ。奴隷にされている魔族が。全員取り戻す」
俺は頷いた。
「ああ。全員だ」
シアは少し黙ってから、小さく言った。
「……あの子に約束したんだろう」
「した」
「なら守れ。魔王の約束だ」
「守る」
シアは術式書を閉じた。
「明日、王都に伝令を送る。グラザードに報告する。奴隷の情報を集める。枢機卿の裏を洗う。やることが増えた」
「ああ。増えた」
「寝ろ。明日から忙しくなる」
「シアも寝ろ」
「……私はもう少し考える」
シアは窓の外を見ていた。海の方を。灯火の光が遠くに揺れていた。
「……あの子に、嘘の笑顔を作らせたくない」
小さい声だった。
俺も同じことを思っていた。




