■ 第54話「希望」
翌日、海中に命の灯火を設置した。
港の沖、水深が十メートルほどの岩場。シアが術式書を見ながら最適な位置を指示した。
「あの岩場の窪みがいい。潮の流れが集まる場所だ。そこに置けば息吹が海流に乗って広がる」
俺は息吹石で水中呼吸の結界を作って潜った。碧い光が海中を照らす。
海底はまだ昨日の碧い光の名残があった。海藻が揺れている。魚が泳いでいる。でもこれはカインが一気に叩き込んだ息吹の残り香だ。放っておけばいずれ薄まる。
灯火を岩場の窪みに固定した。術式で封じ込める。息吹を込める。
灯火が起動した。
白と紫の光が海底から噴き上がった。海水に息吹が溶け込んでいく。昨日の碧い爆発とは違う。穏やかで、持続的な光。これが止まることなく、海に息吹を送り続ける。
海面に上がった。
「定着した。あとは灯火が勝手に息吹を送り続ける。大地からの循環もある。枯れない海になる」
シアが頷いた。「広場の灯火と海の灯火、二つで均衡が取れている。これ以上は増やせないが、この二つで十分だ」
「ナーヴェルの海は、もう死なない」
ノアが港の端に立っていた。海を見ていた。海底から白と紫の光が揺れている。魚が光の周りを泳いでいた。
「……綺麗」
小さい声だった。笑ってはいなかった。ただ、海を見ていた。
―――――
午後、ノアが叫んだ。
「みんな! 魚獲るよ!」
ノアが縄を持って海岸に走った。投げ縄漁。ナーヴェルに残っていた古い漁法だ。網がないから、縄の先に石の重りをつけて海に投げ込んで、魚の群れを囲い込む。
住民たちが出てきた。最初は恐る恐る。でもノアが「ほら! 魚いっぱいいるって!」と叫ぶと、一人、また一人と海岸に集まってきた。
俺も手伝った。レナも。リーナも。シアだけが「私は見てる」と言って岩の上に座っていた。
「シアちゃんも来なよ!」ノアが叫んだ。
「濡れるのは嫌だ」
「海だよ!? 濡れるに決まってるじゃん!」
「だから嫌だ」
ノアが笑った。レナが「シアちゃんは猫だからね」と言った。シアがレナを睨んだ。
縄を投げた。海に入った。
——魚が、信じられないくらいいた。
昨日の碧い爆発で海に息吹が満ちて、魚が一気に戻ってきていた。今朝の灯火で定着した。港の中が銀色の群れで溢れていた。
「うわーー!!」ノアが海の中で叫んだ。「すごい! こんなに! こんなにいる!!」
住民の老人が膝まで海に入って、両手で魚を掬おうとしていた。手から滑って逃げた。「昔もこうだった」と笑っていた。
子どもたちが海に飛び込んだ。三人の子どもが、きゃあきゃあ叫びながら魚を追いかけていた。
漁師だった老人が二人、海に潜った。百年ぶりの素潜りだった。
しばらくして浮かんできた。両手に何かを抱えていた。
「海老だ!!」
腕より太い海老だった。二匹。赤くて、髭が長くて、暴れていた。
「岩場にいた! でかいのがごろごろいる!!」
もう一人が浮かんできた。網袋いっぱいの貝を持っていた。
「牡蠣だ! 岩にびっしりついてる! こんなの百年ぶりだ!」
三度目に潜ったとき、抱えて上がってきたのは蟹だった。盾みたいにでかい蟹。脚を広げたら子どもの背丈くらいありそうだった。
「化け物みてえなのがいたぞ!!」
老漁師が笑っていた。泣いていた。笑いながら泣いていた。
投げ縄を三回打った。
大漁だった。
浜に海の幸が山になった。銀色の魚。青い魚。赤い魚。腕より太い海老。岩牡蠣。盾みたいな蟹。海藻。ウニ。種類がわからないくらい色とりどりだった。
「こんなに獲ったの、初めてだ……」ノアが海の幸の山を見て、目を丸くしていた。
イルマ長老が浜に来た。杖をつきながら、魚の山を見た。
何も言わなかった。ただ、目を細めて、長い間見ていた。
―――――
夜、パーティーを開いた。
広場に焚き火を起こして、海の幸を焼いた。
魚を串に刺して炙った。海老を殻ごと焼いた。殻が赤く色づいて、身がぷりぷりと弾けた。牡蠣を火にかけて、殻が開いた瞬間に汁が滴った。蟹は脚を折って、中の身を掻き出した。白くて太い身だった。
匂いが町中に広がった。脂がじゅうじゅう音を立てて、煙が夜空に立ち上っていく。磯の香りと焼ける音。百年ぶりの、海の宴。
住民たちが広場に集まっていた。三十人弱の全員。灯火の白と紫の光が広場を照らしていた。
最初の一匹が焼けた。ノアがイルマに持っていった。
「ばあちゃん。最初はばあちゃんが食べて」
焼きたての海老だった。殻を剥いた、湯気の立つ白い身。
イルマが震える手で受け取った。一口食べた。
咀嚼して、飲み込んだ。
涙が流れた。
「……美味い。海の味がする。昔と、同じ味だ」
それを合図に、みんなが食べ始めた。
泣きながら食べている者がいた。笑いながら食べている者がいた。おかわりを求めて走る子どもがいた。
リーナが魚の骨を丁寧に取って、子どもたちに配っていた。草色の瞳が優しかった。
レナが「もう一匹!」と叫んでいた。三匹目だった。
シアは魚を一匹、静かに食べていた。「……美味しい」と小さく言った。
ノアが走り回っていた。焼いて、配って、焼いて、配って。
「はいどうぞ! おかわりあるよ! もっと食べて!」
太陽みたいに笑っていた。
でも今日の笑顔は、昨日までと少し違った。
昨日までの笑顔は処世術だった。今日の笑顔は——半分くらい、本物が混じっていた。
―――――
宴が落ち着いた頃、俺は灯台に登った。
夜の海が見えた。海底の灯火が光っていて、海面がうっすら白と紫に揺れていた。波の音だけが聞こえる。
足音がした。
ノアだった。
「ここにいると思った」
「よく来るんだろ、ここ」
「うん。あたしの特等席」
ノアが隣に座った。小麦色の脚を投げ出して、海を見た。裸足の足の裏が、灯台の光に照らされていた。傷跡が見えた。
しばらく二人で黙って海を見ていた。
ノアが口を開いた。
「カイン」
「ん」
「人間が、憎いよ」
声が静かだった。いつもの明るさがなかった。灯台の上でだけ見せる、本当のノアの声。
「海を枯らした。船を焼いた。この町を殺した。……人間が、全部壊した」
「……ああ」
「でも」
ノアが空を見上げた。星が出ていた。
「今は、それ以上に嬉しい。海が生きてる。魚がいる。みんながお腹いっぱい食べた。子どもたちが笑ってた」
ノアの深い青の瞳に、星が映っていた。
「希望って言葉の意味、初めて知ったかも」
俺は引っかかった。
「……初めて?」
ノアが俺を見た。
「希望って、知らなかったのか」
「……言葉は知ってた。でも意味は知らなかった。明日が楽しみだって感覚。明日もいいことがあるって信じられる感覚。あたし、それを知らなかった。今日まで」
俺は黙った。
六歳で知っているはずの感覚を、十六歳のノアが今日初めて知った。
それは——この三年間だけの話じゃない。ここに来る前から。もっと前から。ずっと、希望を知らなかった。
「ノア」
「ん」
「ここに来る前、どこにいたんだ」
ノアが少し黙った。
海風が、水色のショートボブを揺らした。
「……あたし、ここで生まれてないんだ」
声が小さかった。
「魔族領じゃないところで、生まれた」
それだけ言って、ノアは口を閉じた。
俺はそれ以上聞かなかった。
今日はここまでだ。ノアが話したいときに、話してくれればいい。
「……ありがと」ノアが言った。「聞かないでくれて」
「聞かないよ。お前が話したくなったら聞く」
ノアが少し笑った。
本物の方の笑顔だった。小さくて、静かで、灯台の光に照らされた、本物の笑顔。
「……カインって、優しいね」
「そうか?」
「うん。優しい。あたしが知ってる大人の中で、一番」
ノアは海に目を戻した。
波の音だけが聞こえていた。
海底の灯火が、静かに光っていた。
枯れない海。もう死なない海。
ノアの横顔が、その光に照らされていた。




