■ 第53話「海を変える」
術式を展開した。
紋様が宙に浮かぶ。封印術じゃない。純粋な息吹の放出術式。大地から息吹を汲み上げて、海に叩き込む。
——重い。
海は川と違う。広すぎる。深すぎる。灯火で二年かかると言われた量を、一気にやろうとしている。
魔力が削られていく。
白と紫の光が、波打ち際から海面に広がっていった。ゆっくりと。少しずつ。
「カイン、ペースを落とすな。今の出力を維持しろ」シアが横で術式の流れを見ていた。
維持する。削られる。汗が出る。
十分経った。海面の一部が白と紫に光り始めた。でも——港の前だけだ。ほんの一角。
これじゃ足りない。全然足りない。
三十分経った。魔力が半分を切った。光は港の前から少し広がったが、水平線には程遠い。
「カイン、魔力が半分を切った」シアが声をかけた。
わかってる。
——このペースじゃ、全部出し切っても港の前だけで終わる。海全体なんて無理だ。
ノアの声が後ろから聞こえた。
「……やっぱり、無理なんだ」
小さい声だった。
振り返った。
ノアが立っていた。海を見ていた。水色のショートボブが風に揺れている。小麦色の肌。深い青の瞳。
笑っていなかった。
でも泣いてもいなかった。諦めた顔だった。慣れた顔だった。期待して裏切られることに、慣れきった顔。
「わかってた。そんな簡単に変わるわけない。百年も死んでた海だもんね」
ノアは笑おうとした。いつもの笑顔を作ろうとした。
——作れなかった。
口元が震えた。歪んだ。笑顔にならなかった。
「……ごめん。期待しちゃった。あたし、また期待しちゃった」
ノアの声が震えていた。
俺は前を向いた。海を見た。
港の前だけが光っている。それ以外は暗い。冷たい。死んでいる。
——ここに来てから、一度も「魔王様」と呼ばれていない。
気づいていた。ヴェルダーク王都では「魔王様」「救世主様」と呼ばれる。トーラでも。イルガでも。
でもナーヴェルでは、誰も呼ばなかった。「カイン」としか呼ばれていない。
当然だ。
五年間見捨てられた町だ。王都から誰も来なかった。魔王がいると聞いても、助けに来なかった。一年間も。
この人たちは、誰も本当には期待していない。
灯火を見て泣いた。でもあれは安堵であって、期待じゃない。「少しマシになるかもしれない」程度の安堵。
本当の期待——「この人が全部変えてくれる」「この人が本当の希望だ」——そんな目で見ている者は、一人もいなかった。
期待したふりをしているだけだ。
そんな状態で「魔王」と呼んでもらえるわけがない。
——じゃあ、見せるしかないだろ。
魔王ってところを。
本当の希望ってやつを。
目の前で。
俺は術式を一度止めた。
「カイン?」シアが驚いた声を出した。「なぜ止め——」
「シア。さっきの出力じゃ港の前で終わる。海全体には届かない」
「……わかってる」
「だから出力を変える」
「変えるって——」
「本気を出す」
シアの銀色の瞳が見開かれた。
「本気って、南のときの——」
「あれ以上だ」
「死ぬぞ」
「死なない」
「根拠は」
「ない」
「カイン!」
俺はシアを見た。
「シア。俺は魔王だ。この人たちを導く王だ。それはヴェルダークだけの話じゃない。ナーヴェルの三十人も、俺の民だ」
「……」
「民が五年間苦しんでた。ノアが三年間一人で支えてた。その間、俺は何もしなかった。来なかった。知らなかった」
「それはカインのせいじゃ——」
「——知らなかったことはせいじゃないかもしれない。でも知った今、目の前にいるのに何もしないのは——俺のせいだ」
シアが黙った。
「——魔王ってのは、玉座に座ってるだけの称号じゃない。目の前で苦しんでる民がいるなら、そこが玉座だ。ここが俺の戦場だ」
俺は海に向き直った。
住民たちが見ていた。イルマが見ていた。リーナが見ていた。レナが見ていた。
ノアが見ていた。
諦めた目で。期待を捨てた目で。
——その目を変える。今日。ここで。
目を閉じた。
身体の奥底に潜った。魔力回路の一番深いところ。ヴェルデ——碧の力。シアが名前をつけてくれた、俺だけの力。それが眠っている場所。二千人を止めたときの、あの場所。
あのときは限界を超えて、無理やり引き出した。
今回は違う。限界なんか超えない。最初から全開だ。
——来い。
碧い光が、身体の中で目覚めた。
角が——燃えた。
根元が白くて先が水色の角が、内側から碧い光を放ち始めた。脈打つように。心臓の鼓動に合わせて。一拍ごとに光が強くなる。角の先端から碧い光の粒子が散った。風に乗って、海に向かって流れていく。
目を開けた。
碧い瞳が、光っていた。瞳の中で碧い光が渦を巻いている。ただの目じゃなかった。魔王の目だった。
白銀の髪が碧い光に染まって、風になびいた。角から散る光の粒子が、カインの周囲に舞っていた。
後ろでリーナが息を飲んだ。「カインさんの……角が……」
レナが「来る」と呟いた。剣を握る手が震えていた。震えているのは恐怖じゃなかった。
シアが術式書を握りしめた。銀色の瞳が碧い光を映していた。「……全力か」
全力だ。
術式を展開した。
さっきの白と紫じゃなかった。碧い紋様が宙に浮かんだ。カインだけの色。魔王の色。
紋様が広がっていく。広がっていく。港の前を超えて、海面全体に広がっていく。
住民たちがざわめいた。「何だあの光は」「碧い……」
ノアが目を見開いていた。
俺は叫んだ。
海に向かって。この町の全員に聞こえるように。
「守るだけが王じゃない!! 民を幸せにして初めて王だ!!」
碧い紋様が海面を覆った。港から沖まで。水平線の向こうまで。
——死ぬぞ。
シアの声が頭をよぎった。さっき言われた言葉。死ぬぞ。根拠は。ない。
怖い。正直、怖い。身体が震えてる。死ぬかもしれない。本当に。
——だから何だよ。死ぬのが怖くて止まれるかよ。
「できるかどうかじゃない!! やると決めた瞬間に、もう終わってんだよ!!」
住民たちが固まっていた。イルマが杖を握りしめていた。
「期待しろ!! 期待して裏切られるのが怖いなら——お前たちの百年を背負う!! だから頼むから、もう一度だけ信じてくれ!!」
ノアが俺を見ていた。深い青の瞳が、碧い光を映していた。
「希望を忘れたこの町に——俺が届けなくて誰が届けるんだよぉぉぉおおおおお!!」
碧が、爆ぜた。
海面が割れた。
碧い衝撃波が海の上を走った。同心円状に広がっていく。波を越え、沖を越え、水平線の向こうまで。
海面だけじゃない。海中に碧い光が沈んでいった。海底に届いた。海底から碧い光が噴き上がってきた。海全体が碧く染まった。
息吹が海に溶け込んでいく。一気に。二年分を、一瞬で。
海水が変わった。温度が変わった。色が変わった。暗くて冷たかった海が、碧い光を帯びた透き通った青に変わっていく。
最初に動いたのは海底だった。
岩肌から、海藻が伸び始めた。緑が、碧い光の中で揺れていた。
次に——魚が来た。
どこから来たのかわからない。一匹。銀色の小さな魚。碧い光に引き寄せられるように泳いできた。
二匹目。三匹目。十匹。二十匹。
群れになった。銀色の魚の群れが、碧い海の中を走っていく。光が鱗に反射して、きらきら光っていた。
海面に魚が跳ねた。
ばしゃん、と音がした。
もう一匹。もう一匹。あちこちで魚が跳ねている。港の中に魚が溢れていた。
イルマが膝から崩れた。
「……魚だ。魚が……戻ってきた……」
住民たちが泣いていた。声を上げて。百年ぶりの魚。百年ぶりの海。
俺は立っていた。
立っていた。倒れなかった。
南のときは倒れた。二千人のときも倒れかけた。でも今回は立っている。
——成長したんだ。あのときから。
身体は限界だった。魔力はほぼ空だった。視界がぼやけていた。膝が震えていた。
でも立っている。魔王だから。倒れるわけにはいかないから。
この人たちが見てる。倒れたら、また希望が消える。
だから立つ。
ノアが——動かなかった。
みんなが泣いている。叫んでいる。抱き合っている。
ノアだけが動かなかった。
海を見ていた。碧い海を。魚が跳ねる海を。百年間死んでいた海が生き返った瞬間を。
水色のショートボブが海風に揺れていた。小麦色の肌に、碧い光が映っていた。深い青の瞳が——
濡れていた。
涙が、頬を伝っていた。
声は出ていなかった。口が開いていた。何か言おうとしていた。でも声にならなかった。
ノアの膝が折れた。
しゃがみ込んだ。両手で顔を覆った。
肩が震えていた。
——泣いていた。
声が出た。
堰を切ったように。
「う……うぁ……ぁぁぁぁぁ……」
子どもの泣き声だった。十六歳の子どもの。三年間、一度も泣かなかった子どもの。
太陽みたいな笑顔が消えていた。処世術の明るさが消えていた。
ただの子どもが泣いていた。
イルマ長老がノアのそばに来た。膝をついて。皺だらけの手で、ノアの頭を撫でた。
「よく頑張ったね」
ノアがさらに泣いた。
「ずっと頑張ったね。一人で。三年間」
ノアが顔を上げた。涙でぐちゃぐちゃだった。鼻も目も赤かった。
「イルマ……ばあちゃん……海が……海が……」
「ああ。海が戻ったよ」
「魚が……魚がいる……」
「いるね。たくさん」
「もう……貝だけじゃない……みんな……お腹いっぱい食べられる……」
ノアの声が途切れ途切れだった。嗚咽が止まらなかった。
俺はノアの前にしゃがんだ。
膝が震えていた。魔力が空だった。でも、まだ立てる。まだしゃがめる。
「ノア」
ノアが顔を上げた。涙でぐちゃぐちゃの、深い青の瞳が俺を見た。
「もう一人で頑張らなくていい」
「……」
「見張りも、貝拾いも、子どもの世話も。全部一人で背負わなくていい」
「でも……あたししか……」
「俺がいる。シアがいる。リーナがいる。レナがいる。王都がある。もうナーヴェルは一人じゃない」
ノアの唇が震えた。
「……本当に?」
三回目の「本当に」だった。
灯台で一回。灯火のとき一回。そして今。
「本当だ。もう誰もお前を一人にしない」
俺はノアの頭に手を置いた。
「一人で強い奴が本当に強いんじゃない。助けてって言える奴が強いんだ。だからもう、一人で笑わなくていい」
ノアが——泣きながら、笑った。
ぐちゃぐちゃの顔で。涙を拭いもせず。鼻水も出ていた。全然綺麗じゃなかった。
でもその笑顔は——太陽じゃなかった。
処世術じゃなかった。
本物だった。
初めて見た、ノアの本物の笑顔だった。
「……ありがとう。魔王様」
魔王様。
ナーヴェルで初めて、その言葉を聞いた。
ノアの口から。
俺は笑った。笑ったら、膝が限界だった。
どさっと砂浜に尻餅をついた。
「あ」
「カイン!」シアが走ってきた。
「カインさん!」リーナが走ってきた。
「大丈夫だ。ちょっと座りたかっただけだ」
「嘘つけ」レナが笑っていた。
ノアが涙を拭いて、俺の前にしゃがんだ。
「大丈夫? 魔王様」
「大丈夫だ。それと、カインでいい」
「……カイン」
ノアが笑った。涙の跡が残った顔で。
本物の笑顔だった。二回目の。
海が碧く光っていた。魚が跳ねていた。海藻が揺れていた。
百年間死んでいた海が、生きていた。
空を見上げた。青かった。海と空の青が繋がっていた。
いい空だった。




