■ 第52話「灯火」
翌朝、港の広場に灯火を設置した。
ナーヴェルの住民が全員集まっていた。三十人弱。老人が多い。子どもは三人。みんな痩せていた。
俺は広場の中央に立った。術式を展開する。息吹を汲み上げて、灯火を作る。
白と紫の光が、広場を包んだ。
息吹が満ちていく。枯れた石畳の隙間から、草が顔を出した。建物の壁に絡まった蔦が、目に見えて緑を取り戻していく。空気が変わった。乾いていた風が、湿り気を帯びた。
住民たちが息を飲んだ。
老人が膝をついた。「息吹だ……」と呟いた。「百年ぶりの……」
女性が子どもを抱きしめて泣いていた。
イルマ長老が杖をつきながら立っていた。目が赤かった。
「……本物だ。本物の息吹だ」
灯火の光が、廃れた港町を照らしていた。白と紫の柔らかい光。ヴェルダーク王都と同じ光。
ノアが俺の横にいた。
笑っていた。太陽みたいに。
「すごい! すごいよカイン! 町が光ってる!」
——でも。
俺は気づいていた。ノアの笑顔が、昨日と同じだということに。
処世術の笑顔。本物じゃない。
嬉しいはずだ。町に息吹が戻ったんだ。でもノアの目の奥は笑っていない。
なぜだ。
——わかった。
ノアが見ているのは町じゃない。海だ。
広場から海が見える。青くて、広くて、死んでいる海。灯火の光は広場を照らしているが、海には届いていない。
ノアにとって、この町の命は海なんだ。三年間、死んだ海で貝を拾い続けた。海が死んでいる限り、ノアにとっては何も変わっていない。
―――――
「シア」
「何」
「海に灯火を入れられるか」
シアが少し考えた。
「理論上はできる。川で実証済みだ。息吹は水に溶け込む性質がある。海でも同じ原理でいける」
「やろう」
「ただし」シアが術式書を開いた。「問題がある。灯火を海中に設置しても、海全体に息吹が溶け込むのに二年はかかる。海は川と違って流れが複雑で、範囲が桁違いに広い」
「二年……」
「しかも灯火は三個目を置けない。大地からの息吹の循環を奪い合う。今の広場の一個と海の一個で限界だ。二個で場所が離れているからギリギリ成立している」
「つまり灯火だけじゃ足りないと」
「足りない。二年待てば海は蘇る。でも二年間、この町は今のまま耐えなければならない」
二年。あと二年、ノアが一人で町を支えるのか。あと二年、死んだ海で貝を拾うのか。
「……他に方法はないのか」
シアが俺を見た。銀色の瞳が、真剣だった。
「一つだけある。灯火に頼らず、カインが直接海に息吹を叩き込む。魔力で。灯火を通さず、カイン自身の力で海全体を一気に満たす」
「それは」
「南の戦いで五十人を封じたときの広範囲展開を、海に向けてやる。封印術じゃなく、純粋な息吹の放出。海底から海面まで、一気に」
「できるのか」
「理論上は。でも必要な魔力量は灯火の数十倍。カインの今の全魔力を使い切っても足りるかわからない」
「足りなかったら」
「倒れる。最悪、回路が焼ける」
南の戦いと同じだ。あのときも全部出し切って倒れた。
でもあのときは五十人を止めるためだった。今回は——海を一つ、丸ごと蘇らせる。
規模が違いすぎる。
「……やる」
「カイン」
「やる。二年は待てない」
「待てないじゃない。待つ選択肢もある」
「ノアに二年待てって言えるか。あの子にあと二年一人で頑張れって言えるか」
シアが黙った。
「俺は言えない」
―――――
午後、海岸に立った。
全員がいた。住民三十人。イルマ長老。リーナ。レナ。シア。
そしてノア。
ノアは俺の横にいた。何をするか聞いていた。「海に息吹を入れる」とだけ伝えた。
「海を変えるの?」
「変える」
「……本当に?」
また同じ質問。昨日の灯台と同じ。「本当に?」。期待したいけど怖い。
「本当だ」
ノアは笑った。いつもの笑顔。太陽みたいな。
——今日、あの笑顔を本物に変える。
俺は海に向かって歩いた。波打ち際に立った。
足元に波が触れた。冷たかった。息吹のない海は冷たい。
術式を展開し始めた。




