■ 第51話「ナーヴェル」
ノアに引っ張られて、町の中を進んだ。
「こっちこっち! 長老のところに連れてく!」
ノアが走る。裸足で石畳を。水色のショートボブが海風に揺れる。小麦色の肌が午後の陽を受けて光っていた。
通りを歩くと、窓が少しずつ開いた。
ノアが叫んだ。
「みんな! 大丈夫! 魔族だよ! 角あるよ! 王都から来たって!」
一つ、また一つ、扉が開いた。
最初に出てきたのは老人だった。杖をつきながら、俺を見た。角を見た。白銀の髪を見た。
「……本当に、魔族か」
「ヴェルダーク王都から来た。カインだ」
老人の目が潤んだ。何か言おうとして、言葉にならなかった。
その後ろから、女性が出てきた。子どもを抱えていた。子どもが俺を見て怯えた。人間だと思ったんだろう。角を見て、少しだけ顔が緩んだ。
ぽつぽつと、人が出てきた。
少なかった。
全部で——三十人もいなかった。
「これが全員か」
ノアの笑顔が、一瞬だけ消えた。すぐに戻った。
「うん。全員」
―――――
長老の家に案内された。
港を見下ろす高台の、一番大きな建物。大きいといっても、王都の民家と変わらないくらいだった。
長老は老婆だった。名前はイルマ。背中が曲がって、杖なしでは歩けない。でも目だけは鋭かった。
「王都から……本当に来たのか」
「はい。灯火を届けに来ました。この町に息吹を戻します」
イルマの手が震えた。杖を握る手が。
「……五年だ。五年間、誰も来なかった」
「申し訳ない。もっと早く来るべきだった」
「謝るな。来てくれただけでいい」
イルマは窓の外を見た。港が見える。崩れた桟橋。空っぽの海。
「この町は百年前、魔族領で一番の港だった。船が百隻あった。魚が山ほど獲れた。市場は毎日賑わっていた」
「今は」
「船はゼロだ。人間に全部焼かれた。港も壊された。海に出る術がない。畑も枯れた。息吹が足りなくて作物が育たない。海の幸も獲れない。食うものがない」
「どうやって生き延びてきたんですか」
「海岸で貝を拾って、岩場の海藻を取って。それだけだ。五年前の子どもが十人いた。今は三人しか残っていない」
リーナが息を飲んだ。レナが唇を噛んだ。シアは無表情だったが、拳が握られていた。
「残りの七人は」
「餓死した子が二人。病気が三人。残りの二人は……人間に連れ去られた」
空気が凍った。
「連れ去られた?」
「五年前だ。人間の兵が来た。小規模の部隊だった。町を荒らして、若い者を二人連れていった。それ以来、みんな外に出られなくなった」
イルマの目がノアを見た。
「あの子だけが外に出る。見張りをしてくれている。あの子が来てから、三年間」
「三年……ノアはここに三年いるのか」
「ああ。三年前にふらりと現れた。ボロボロだった。傷だらけで、痩せ細って、裸足で。でも笑っていた。ここに置いてくれと言った。何でもするからと」
イルマの目が、また窓の外に向いた。
「あの子は自分の過去を話さない。聞いても笑って誤魔化す。でも——あの子の身体を見れば、どんな目に遭ってきたかは想像がつく」
俺は黙った。
「あの子がいなかったら、この町はもう終わっていた。見張りも、貝拾いも、子どもの世話も、全部あの子がやっている。十六歳の子どもが、三十人の町を一人で支えている」
―――――
町を歩いた。ノアが案内してくれた。
「ここが市場だったところ! 今は何もないけど!」
石の台が並んでいた。何も乗っていない。
「ここが造船所! 船は全部なくなったけど、道具は残ってるよ!」
木の骨組みが一つだけ残っていた。朽ちかけていた。
「ここが灯台! もう灯りはつかないけど、上から見る海は最高だよ!」
ノアはどこを案内しても「今は何もないけど」と言った。でも笑っていた。ずっと笑っていた。
リーナがノアの隣を歩いていた。金色の髪と水色の髪が並んでいた。
「ノアちゃん、いつもこうやって案内してるの?」
「案内? お客さんなんて来ないよ。五年ぶりだもん」
「じゃあ今日が初めての案内?」
「うん! だから張り切ってる!」
リーナが少し笑った。でも草色の瞳が、ノアの裸足を見ていた。
レナが俺の横で小声で言った。
「カイン。あの子、剣の持ち方が独学じゃない」
「気づいたか」
「屋根から飛び降りたときの着地も。訓練を受けてる。それもかなり本格的に」
「どこで」
「わからない。でもあの身のこなしは素人じゃない」
シアが横から言った。
「イルマが言っていた。三年前にボロボロで来たと。傷だらけで。その前に、どこかで戦闘訓練を受けていた可能性がある」
「奴隷として、か」
シアが俺を見た。
「何か知ってるのか」
「……まだわからない。でも引っかかることがある」
―――――
夕方、灯台の上に登った。
ノアが「ここが一番いいんだ」と連れてきてくれた。
海が見えた。
夕日が海に沈んでいく。水平線がオレンジに染まって、海面が金色に光っている。
「……すごいな」
「でしょ」
ノアが隣に座っていた。小麦色の肌が夕日に染まっている。深い青の瞳に、金色の海が映っていた。
笑っていなかった。
初めて見た。ノアが笑っていない顔。
静かだった。海を見ていた。風が水色の髪を揺らしていた。
「ノア」
「ん」
「ここ、好きか」
「好き。ここが一番静かだから」
静かな場所が好き。元気で明るいノアが、静かな場所が好き。
「一人でよく来るの」
「うん。みんなが寝た後に。ここに来て、海を見てる」
「何を考えてるんだ」
ノアが少し間を置いた。深い青の瞳が、沈んでいく夕日を見ていた。
「……何も」
嘘だった。何かを考えている。でも言わない。笑って誤魔化さなかった。ただ「何も」と言った。
俺はそれ以上聞かなかった。
「明日、灯火を作る。この町に息吹を満たす」
「……本当に?」
「本当だ」
「息吹が戻ったら……海も変わる?」
「変わる。魚が戻る。海藻が育つ。貝ももっと獲れるようになる」
ノアが俺を見た。
深い青の瞳が、夕日の金色を映したまま、俺の碧い瞳を見ていた。
「……あんた、本当にそれができるの」
声が違った。元気じゃない。明るくない。静かで、真剣で、少しだけ震えていた。
「できる」
「嘘じゃない?」
「嘘じゃない」
「期待していい?」
「していい」
ノアが少し黙った。
夕日が半分沈んだ。
「……ありがとう」
小さい声だった。
ノアの目が少し赤くなっていた。泣いてはいなかった。でも赤かった。
すぐに顔が変わった。ぱっと笑顔になった。太陽みたいに。
「よし! じゃあ明日楽しみにしてる! 今日は寝る場所用意するね! あたしの秘密の特等席があるんだ!」
ノアは立ち上がって、灯台の階段を駆け下りていった。裸足の音が、石の階段に響いた。
俺は一人で海を見ていた。
夕日が沈んだ。水平線が紫に染まっていく。
——あの子は、本当の自分を一瞬だけ見せた。
静かで、真剣で、少し震えていた。あれが本当のノアだ。太陽みたいな笑顔の下にいる、本当のノア。
シアが灯台の入り口に立っていた。いつから来ていたのかわからない。
「聞いてたか」
「途中から」
「どう思う」
シアは少し間を置いた。
「……あの子は、嘘の笑顔が上手すぎる」
「ああ」
「上手すぎる人間は——笑わなきゃいけなかった人間だ」
シアの銀色の瞳が、ノアが消えた階段を見ていた。
「明日、灯火を作ろう。あの子に本物の笑顔を見せてやりたい」
俺は頷いた。
「ああ。明日、この海を変える」




