■ 第50話「海へ」
朝、執務室に行ったら地図が新しくなっていた。
ヴェルダークの位置に、見慣れない文字が書かれている。
「……ヴェルダーク王都?」
グラザードが横で腕を組んでいた。
「そうだ。カイン殿がトーラに行っている間に制定した。ヴェルダークは王都だ。魔王がいる場所が王都になる」
「聞いてないんだけど」
「事後報告だ」
「事後って……」
「ムルトゥス様もシア殿も賛成した。民も喜んでいる。問題ないだろう」
シアが横からちらっと俺を見た。
「反対?」
「いや……反対じゃないけど。王都って急に言われても」
「魔王がいるから王都だ。論理的に正しい」
論理の問題じゃない気がするけど。
まあいい。ヴェルダーク王都。悪くない響きだ。
―――――
軍議を開いた。次の灯火を届ける集落を決める。
グラザードが地図を広げた。赤い印がついている集落がいくつかある。
「次はどこに」
「南西のナーヴェルを提案する」グラザードが指を置いた。「海沿いの港町だ。王都から馬で三日」
「港町……海か」
「かつては漁業と交易で栄えた集落だった。百年前は魔族領で最も豊かな町の一つだった」
「今は?」
グラザードの声が少し沈んだ。
「船を焼かれた。港を壊された。海に出られなくなって百年。息吹が枯れて海の幸も減った。今は細々と生き延びている」
ムルトゥスが静かに言った。
「ナーヴェルは私が若い頃に行ったことがある。美しい町だった。青い海と白い砂浜。港には色とりどりの船が並んでいた。もう百年以上前の話だがの」
「灯火を届ければ、息吹が戻る。海も蘇るかもしれない」
「かもしれない、ではない」シアが言った。「息吹が海に溶け込めば、魚が戻る。海藻が育つ。潮の流れが変わる。ナーヴェルが港町として機能するために必要なのは、まず息吹だ」
「じゃあ決まりだ。ナーヴェルに行く」
「もう一つ」グラザードが地図を指でなぞった。「ナーヴェルへ向かう途中、壁を南に押し広げたい。今の壁は王都の周辺だけだ。南西方面はまだ手つかずになっている」
「道中で壁を広げながら進む、ということか」
「そうだ。ナーヴェルまでの道を壁で覆えば、王都とナーヴェルが壁で繋がる。安全な街道ができる」
「灯火を届けて、壁も広げる。一石二鳥だな」
グラザードが頷いた。
「パーティーの編成は」
「いつも通りだ。俺とシアとリーナとレナ。四人で行く」
シアが術式書を閉じた。「三日分の荷物を準備する」
リーナが少し嬉しそうだった。「海、見たことないです」
レナが欠伸をしながら言った。「あたしもない。魔族領に海があるなんて知らなかった」
「魔族領は広いんだよ」
「カインに言われると説得力あるんだかないんだか」
―――――
翌朝、出発した。
四頭の馬で南西に向かう。白銀の髪が風になびいた。隣をシアが走っている。真白のショートボブが揺れている。後ろにリーナとレナが続く。
いつもの四人。いつもの旅。
でも今回は少し違った。三日間の旅だ。トーラのときは二日だった。今回はもう少し長い。
初日は平野を走った。壁の内側を南西に。息吹が満ちた緑の中を進んでいく。
午後、壁の端に到着した。ここから先はまだ壁がない。取り戻していない土地だ。
「壁の外に出る。気をつけろ」
レナが剣の柄に手を置いた。リーナが少し緊張した顔をした。シアは変わらない。いつもの無表情。
壁を抜けた。
空気が変わった。息吹が薄い。草が枯れている。土が乾いている。壁の内と外の違いが、一歩で分かった。
「……全然違う」リーナが呟いた。
「これが壁の外だ。百年間、こうだった」
リーナは黙って前を見た。草色の瞳が、枯れた大地を見ていた。
―――――
夜、野営した。
焚き火を囲んで四人で座った。壁の外だから息吹が薄い。少し肌寒かった。
リーナが夕食を作った。干し肉と根菜の煮込み。レナが「リーナちゃんの飯は最高」と三杯おかわりした。
「カイン」シアが火を見ながら言った。
「ん」
「ナーヴェルの情報が少ない。王都との連絡が途絶えて久しいらしい」
「どれくらい」
「五年以上。最後の伝令が来たのが五年前だ。それ以降、誰も行っていない」
「五年か……無事だといいけど」
「集落自体はある。偵察の報告で建物は確認している。でも中の状況はわからない」
レナが剣を磨きながら言った。
「五年も連絡ないって、結構やばくない?」
「やばいかもしれない。だから行くんだ」
リーナが膝を抱えて座っていた。金色の髪が焚き火の光を受けて揺れている。
「カインさん」
「ん」
「海って、どんな匂いがするんでしょう」
「潮の匂い。しょっぱくて、でもどこか懐かしい匂い」
「懐かしい?」
「人間の国の港に一度だけ行ったことがある。パーティーの任務で。海風が気持ちよかった」
リーナが目を細めた。
「楽しみです」
シアが焚き火を見ていた。何も言わなかった。でも耳が少しだけ動いた。聞いていた。
―――――
二日目。
枯れた平野を進んだ。草が少しずつ減って、岩が増えてきた。地形が変わっている。
午後から風が変わった。
湿った風だった。重くて、温かくて。
「……この風」レナが鼻を動かした。「なんか匂う」
「潮だ」
「これが潮の匂い……」リーナが目を閉じて、深く息を吸った。「しょっぱい」
丘を越えた。
視界が開けた。
——海が、見えた。
地平線の果てまで、青が広がっていた。空の青とは違う。もっと深くて、もっと重い青。波が白く光りながら、岸に打ち寄せている。
「うわ……」レナが声を上げた。「でっか」
リーナが馬の上で立ち上がりかけた。草色の瞳が限界まで開いていた。
「すごい……こんなに大きい……」
シアは黙って海を見ていた。銀色の瞳に、青い海が映っていた。
「……きれい」
シアが小さく呟いた。無表情のまま。でも、声が柔らかかった。
―――――
三日目の午後。
海沿いの道を進んでいくと、崖の上から港町が見えた。
ナーヴェル。
白い石造りの建物が斜面に並んでいた。段々畑のように、海に向かって下りていく。一番下に港があった。
——だが。
港に船はなかった。桟橋は半分崩れていた。建物の窓に灯りがない。通りに人影が見えない。
「……人、いるのか?」レナが呟いた。
「建物は残ってる。完全に廃墟じゃない」
シアが目を細めた。
「煙が出ている。あの建物。炊事の煙だ。誰かがいる」
俺は馬を進めた。
ナーヴェルの門が見えた。石のアーチ。かつては立派だったんだろう。今は半分崩れて、蔦が絡まっている。
門をくぐった。
——誰もいなかった。
白い石畳の通り。両側に建物が並んでいる。扉は閉まっている。窓も閉まっている。通りに足音が一つもない。
俺たちの馬の蹄の音だけが、石壁に反響していた。
「……気配はある」シアが小声で言った。「建物の中に。隠れてる」
窓の隙間から、こちらを覗いている目が見えた。すぐに隠れた。
「怯えてるのか」
「外から来た者を恐れている。人間だと思ってるんだろう」
しばらく通りを進んだ。誰も出てこなかった。声もかからなかった。廃れた港町を、四人と四頭の馬だけが歩いている。
リーナが不安そうな顔をしていた。レナが剣の柄から手を離さなかった。
そのとき。
「——止まれ」
声がした。上から。
見上げた。
建物の屋根の上に、人影があった。
小柄だった。シアより少し大きいくらい。しゃがんでこちらを見下ろしていた。
水色のショートボブ。小麦色の肌。海のような深い青の瞳。頭には小さな角が、髪に隠れるように生えていた。
ボロボロの服を着ていた。裸足だった。手に、錆びた短剣を握っていた。
「何者だ」
声は鋭かった。明るさはなかった。見張りの声だった。
深い青の目が、俺を見た。白銀の髪を。そして——水色の角を。
目が変わった。鋭さが消えた。
「角……魔族だ。本物の魔族だ!」
声が弾けた。さっきの鋭さが消えて、太陽みたいな声になった。
屋根から飛び降りた。裸足で石畳に着地した。軽かった。
「やった! 五年ぶり! 外から人が来た!」
走ってきた。裸足で。石畳の上を。
「あたし、ノア! ここの見張り! あんたたち、本当に王都から?」
元気だった。裏がなさそうだった。太陽みたいに笑っていた。
でも俺は気づいた。
さっきまで短剣を握っていた手が、まだ震えていた。見張りをしていた。人間が来ないか。五年間、ずっとこの子が。
そして走ってくるノアの足の裏が、傷だらけだった。古い傷。何年もかけてできた傷。裸足で石の上を歩き続けた傷じゃない。
もっと前の傷だ。
「俺はカイン。灯火を届けに来たんだ。この町に」
「灯火? なにそれ!」
「息吹を蘇らせるものだ。この町に息吹を戻す」
ノアの深い青の目が、一瞬だけ揺れた。
ほんの一瞬。太陽みたいな笑顔の奥で、何かが動いた。
すぐに戻った。
「すごい! 入って入って! みんなに教えなきゃ! あたしが案内する!」
ノアは俺の手を掴んで引っ張った。小麦色の小さな手。力が強かった。
シアが俺の後ろで、静かに言った。
「……あの子の足」
「気づいたか」
「気づいた。あと、手。短剣を握っていた手がまだ震えていた」
シアの銀色の瞳が、ノアの背中を見ていた。
「五年間、あの子が一人で見張りをしていた。他の住民は怯えて外に出られない。あの子だけが外に出ている」
水色のショートボブが、海風に揺れていた。
明るい声が、廃れた港町に響いていた。
——何があったんだ、この子に。




