■ 第5話「白い術師」
シアは、いつも白かった。
装束が白い。髪が白銀。肌も、装束に溶けそうなほど白い。訓練場の朝霧の中に立っていると、霧と境界がわからなくなりそうなくらいだ。
その上、背が小さい。レナと並ぶとかなり差がある。胸元も薄い。
なのに、集落の誰もが言う。
シアが一番だ、と。
俺はそれを最初、大げさだと思っていた。
でも毎朝訓練場で向かい合うたびに、少しずつわかってきた。
整いすぎているのだ、この子は。
白い肌に映える銀色の瞳。感情を映さないその目が、術式を見るときだけわずかに光る。細い指が宙に紋様を描くとき、その動きに一切の無駄がない。
美しい、というより——完成されている、という感じだった。
「何を見ている」
シアに言われた。
「いや、何でもない」
「訓練に集中しろ」
「してる、してる」
―――――
五日目の朝だった。
シアはいつものように的の前に立って、俺を見た。
「今日は封印術に息吹を通してみる」
「……どうやって」
「術式を展開するとき、外から息吹を引き込め。昨夜やっていた、あの手のひらで渦を巻かせる要領で」
俺は昨夜のことを思い出した。手のひらに息吹を集めて、紫の光を作った。あれを術式の中に流し込む、ということか。
「やってみる」
的に向けて封印術を展開する。術式の紋様が宙に浮かぶ。同時に、周囲の息吹を引き寄せようとする。
最初は何も起きなかった。
もう少し強く引いてみる。
息吹が術式に触れた。
次の瞬間、術式が震えた。
「っ——」
紋様が歪んだ。息吹が予想より多く流れ込んで、術式の制御が一瞬飛ぶ。膨張した光の塊が、的を吹き飛ばした。
そのまま横に流れた。
シアの方に。
「シア——!」
考えるより先に身体が動いた。
シアの前に飛び込んで、結界を展開する。
光の塊が結界に直撃した。ドン、と重い衝撃が腕に伝わる。押し返して、霧散させる。
静寂。
俺はシアの前に立ったまま、ゆっくりと息を吐いた。
心臓がうるさかった。
「……大丈夫か」
振り返ると、シアは俺を見上げていた。
いつもと同じ無表情だった。
でも、その白い頬が——ほんの少し、赤かった。
「なぜ庇った」
「咄嗟に動いただけだよ」
「……」
「怪我はないか」
「ない」
シアは俺から目を逸らした。装束の裾を、指先でわずかに握った。
それだけだった。
礼も言わなかった。
でも、その後しばらく、シアは俺に背中を向けたまま動かなかった。
―――――
気を取り直して、訓練を再開した。
今度は息吹の量を絞って、少しずつ術式に流し込む。
三回目で、うまくいった。
封印術の紋様に息吹が混ざった瞬間、光の色が変わった。白から、深い紫へ。的に向けて解き放つと、ドン、という衝撃音と共に的が石畳ごと抉れた。
俺は自分の手を見た。
「……これ、封印術か?」
「封印術に息吹を乗せた、新しい術式だ」シアは静かに言った。「人間の術師には作れない。あなただから作れる」
「でも制御が難しい」
「今日初めてやったんだから当然だ。繰り返せば精度が上がる」
シアは抉れた石畳を見た。
「……思ったより威力が出た」
「そうだな」
「あなたの封印術の構造が、息吹との親和性が高いせいだと思う。普通の魔術師が同じことをやっても、ここまでの出力は出ない」
シアは俺を見た。
「あなたにしかできないことだ」
淡々とした口調だった。褒めているのか分析しているのか、わからない言い方だった。
でも俺には、なぜかちゃんと届いた。
「……ありがとう」
シアは何も言わなかった。
ただ、また少しだけ顔を背けた。
―――――
昼過ぎにレナが来た。
訓練場の石畳が抉れているのを見て、目を丸くした。
「何したの」
「息吹と封印術を混ぜた」
「それでこうなったの」レナは抉れた跡をつま先で突いた。「カイン、やるじゃん」
「制御できなくて暴発したんだけどな」
「最初はそんなもんだよ」レナはあっさり言った。「私も最初に魔力を剣に乗せようとしたとき、自分の剣が折れたし」
「自分のが?」
「うん。三本」
なんか笑えてきた。俺が笑ったら、レナも笑った。
その横で、シアがじっとこちらを見ていた。
俺がそちらを向いたら、すぐに視線を逸らした。
レナが小声で俺の耳元に寄ってきた。
「ねえ、シアちゃんって今日なんか違わない?」
「どこが」
「なんか、ちょっとそわそわしてる」
「そうか?」
「うん。私、シアちゃんのことずっと見てるからわかる。あんな顔したことなかったよ」
俺はちらっとシアを見た。
シアは的に向かって術式の確認をしていた。いつも通りに見えた。
でも指先が、装束の裾をわずかに握っているのに気づいた。
さっきと同じ癖だ。
「……そうかもな」
俺は小さく笑って、訓練を再開した。
―――――
夕方、解散になった。
レナは「じゃあねー」と手を振って走っていった。あのマイペースさは毎回気持ちがいいくらいだ。
俺が荷物を片付けていると、シアがまだそこにいた。
何かを言おうとして、やめた。そんな間があった。
「シア」
俺から声をかけた。
「今日ありがとう。いい訓練だった」
シアは俺を見た。
何も言わなかった。
ただ、小さく——本当に小さく——頷いた。
そして先に歩き出した。
いつもより少しだけ、歩くのが遅かった気がした。
俺はそれに気づかないふりをして、後からついていった。
―――――
夜、ガラのところに寄ったとき、老婆は薬を調合しながら言った。
「お前さん、シアと訓練してるそうだな」
「そうだよ」
「あの子がか」ガラは少し驚いた顔をした。「珍しい」
「何が」
「シアは滅多に人と関わらん。予言の守り手ってのは孤独な役割でな。小さい頃からムルトゥス様に引き取られて、ずっと一人で修行してきた子だ」
俺はそれを黙って聞いた。
「集落で一番の美女だって言われてるのに、誰も近づけん。本人も近づけさせん。そういう子だ」
「……そうか」
「まあ」ガラはすり鉢を動かしながら続けた。「お前さんが来てから、あの子の顔が少し変わった気はするがな」
「俺が来たから?」
「さあな」老婆は笑った。「私の気のせいかもしれん」
―――――
宿舎に戻る途中、ムルトゥスに呼び止められた。
老長老は杖をつきながら、俺をじっと見た。
「今日の訓練、見ていた」
「そうですか」
「一つ教えておきたいことがある」ムルトゥスは歩き出した。「少し付き合え」
集落の外れまで来た。息吹の霧が漂っていた。
ムルトゥスは霧に手を伸ばした。
「カイン殿、以前お教えした息吹のこと、覚えておいでか」
「はい。人間が瘴気と呼ぶものが、魔族にとっては霊脈の息吹——大地の恵みだと」
「うむ」ムルトゥスは頷いた。「だが今日、カイン殿はそれを術式の中に取り込んでみせた。意味がわかるか」
「……いえ」
「息吹を操れるのは、本来、角を持つ者だけだ。魔族の角は息吹を取り込んで魔力に変える器官だ。角のない者が息吹に触れれば焼かれる。それが道理だった」
ムルトゥスは俺の額を見た。角のない、人間の額を。
「それなのにカイン殿、あなたは角もなく息吹を術式に通してみせた。……少し確かめさせてもらえるか」
「確かめる?」
「触れさせてほしい」
俺は頷いた。
ムルトゥスは皺だらけの手を伸ばして、俺の額に触れた。初めて会ったとき、予言を確かめたのと同じ仕草だった。だが今度はもっとゆっくりだった。指先を額の上で止めて、目を閉じた。
「……ふむ」
次に、両手を取られた。ムルトゥスの細い指が俺の手のひらを包むように触れた。しばらくじっとしていた。
「……ここにも」
「何が」
「黙っておれ」
ムルトゥスはしゃがんで、俺の足首に触れた。次に立ち上がって、俺の肩に手を置いた。背中に回して、肩甲骨のあたりを確かめた。最後に、俺の胸の中央に手のひらを当てた。
老人の目が、大きく見開かれた。
「……なんということだ」
「どうしたんですか」
ムルトゥスは俺から手を離して、一歩下がった。金色の瞳が、驚きと——それ以上の何かで揺れていた。
「全身だ」
「え」
「角ではない。カイン殿は、全身から息吹を取り込んでおる。額も、手も、足も、背も、胸も——身体のあらゆる場所から、息吹が流れ込んでいる」
俺は自分の手のひらを見た。
「我々魔族は角からしか息吹を受け取れぬ。だがカイン殿の身体は、まるで全身が角のように息吹を吸い込んでおる。しかも拒絶反応がない。完全に恵みとして受け入れている」
ムルトゥスは霧を見た。それから俺を見た。
「息吹帯の中を生きて歩いていた理由が、これでわかった。カイン殿にとって、あの霧の中にいることは——我々が息吹の濃い土地に住むのと同じだったのだ。全身で恵みを浴びていたのだから」
俺は自分の身体を見下ろした。何も変わらない。普通の人間の身体だ。角もない。
でも、言われてみれば——思い当たることがあった。
息吹帯に放り込まれたとき、温かかった。馴染んだ。焼かれるどころか、満ちていくような感覚があった。あれは全身で息吹を受け入れていたのか。
「これがどれほど異常なことか」ムルトゥスは静かに、しかし声を震わせて言った。「百年前の予言が語っていたのは、まさにこれなのだ」
「あの訓練で使った力は、魔族のやり方とも違うのですか」
「まるで違う。魔族は角を通して息吹を受け取る。一点から。だがカイン殿は全身で息吹と繋がっている。取り込める量が、桁違いだ。訓練で石畳を抉ったのも、全身から流れ込む息吹の量が術式の出力を跳ね上げたからだろう」
俺は霧を見た。温かい。馴染む。最初からそうだったんだと、改めて思った。
「カイン殿」ムルトゥスは静かに言った。「どうか、その力を我らのために使ってほしい」
老人の金色の瞳が、霧の中で光っていた。
「……やれるだけのことは、やります」
ムルトゥスは深く頷いた。




