■ 第48話「魔王祭」
帰還から三日後、シアが言った。
「買い物に行きたい」
朝食の席だった。パンを噛んでいた俺の手が止まった。
シアが。あのシアが。買い物。
「……買い物?」
「ドレス屋ができたと聞いた。服屋も。見に行きたい」
シアの銀色の瞳が、真剣だった。術式の話をするときと同じ目だった。
「行けばいいだろ。俺に言わなくても」
「リーナも誘う。レナも」
「俺には関係な——」
「カインも来い。あなたもずっと同じ服を着ている」
確かに。魔族の集落に来てからずっと同じ服だった。もらった服をローテーションしてるだけだ。
「……わかった」
―――――
四人でガラスの通りを歩いた。
リーナが目を輝かせていた。
金色の髪が肩で揺れている。肩より少し長めの、さらさらのストレート。草色の瞳がきょろきょろと店を見ている。白い修道服はトーラから帰ってきてからずっと同じものだ。柔らかくて優しい顔立ち。笑うと目が細くなって、草色の瞳が三日月みたいになる。身体は細くてしなやかで、シアやルティアと同じくらいの背丈だ。
「すごい……こんなにお店があるんですね……!」
リーナは一つ一つの窓を覗き込んでいた。宝石店で立ち止まって、ドレス屋で立ち止まって、雑貨屋で立ち止まって。全部の店で立ち止まっていた。
「リーナ、先に進もう」
「あ、すみません……でもあの紫の石、きれい……」
レナが欠伸をしながら言った。
「リーナちゃん、あとで買えばいいよ。まず服見ようよ」
「そうですね!」
シアは黙って歩いていたが、ドレス屋のガラス窓に映った自分をちらっと見ていた。白い装束、真白の髪。いつもと同じ姿。
何か考えている顔だった。
―――――
服屋に入った。
ミルが店番をしていた。
「魔王様! シアちゃん! リーナちゃん! いらっしゃい!!」
うるさい。でもミルはいつもこうだ。
「今日は何を——あ、もしかして私服!? ついに!?」
「見るだけだ」シアが言った。
「見るだけって言う人が一番買うんだよね」ミルがにやにやしていた。
女性陣が店の奥に消えていった。俺は店の入り口で待っていた。
しばらくして、レナが最初に出てきた。
「どう?」
いつもの鎧じゃなく、茶色の革ベストに黒のズボン。動きやすそうだった。胸元が少し開いている。
「レナらしいな」
「でしょ」
次にリーナが出てきた。
「えっと……変じゃないですか……?」
淡い青のワンピースだった。白い修道服を脱いだリーナを初めて見た。肩が出ていた。鎖骨が見えていた。金色の髪が、青い布の上で光っていた。
……綺麗だな。普通に。
「変じゃない。似合ってる」
リーナの顔が赤くなった。「ほ、本当ですか……」
レナが「かわいー」と叫んでいた。ミルが「買って買って」と煽っていた。
そして——シアが出てきた。
黒いワンピースだった。シンプルな、飾りのない黒。真白のショートボブと白い肌に、黒が映えていた。いつもの白い装束とは全く違う印象だった。
小柄な身体のラインが、初めてはっきり見えた。
シアは俺を見た。無表情だった。でも耳が赤かった。
「……どうだ」
「似合う」
「……そうか」
シアはそれだけ言って、試着室に戻った。
ミルが俺の横に来て小声で言った。「シアちゃん、三十分くらい迷ってあれ選んだんだよ」
三十分。シアが服を選ぶのに三十分。
俺も着替えた。黒の上衣に濃紺のズボン。革のベルト。今まで着たことのない色だった。
鏡を見た。白銀の髪に黒い服。水色の角がちらっと見えている。
「おおー」レナが声を上げた。「イケメン度上がった」
「元からだろ」
「自覚あるんだ」
ないけど。
リーナが俺の顔をじっと見ていた。
「……カインさん」
「ん」
「一年経ったのに、全然変わってないですね。顔も、体型も。出会った頃と全く同じです」
言われて気づいた。確かにそうだ。一年前と鏡の中の顔が同じだ。
シアが横から言った。
「角が生えてから、カインの身体は魔族の体質に変わっている。見た目の老化が止まっているんだろう。魔族と同じように」
「つまり俺、このままってことか」
「百五十歳くらいまでは。たぶん」
リーナの草色の瞳が、一瞬だけ揺れた。すぐに笑顔に戻った。
「ずっとかっこいいままですね」
「……そうか?」
「はい」
リーナは笑っていた。でも俺は気づいた。リーナは人間だ。リーナだけが、普通に歳を取る。
——考えるのはやめた。今はそういう夜じゃない。
―――――
その日の夕方、グラザードが執務室に来た。
「カイン殿。一つ相談がある」
「何ですか」
「魔王祭を開きたい」
「魔王祭?」
「魔王が誕生したときに開く祝祭だ。本来はすぐにやるものだが、戦いが続いて時期を逃していた。街がこれだけ発展した今なら、盛大にやれる」
「パーティーか」
「パーティーだ。街全体で。民全員で。飲んで、食って、踊って、騒ぐ」
グラザードの目が、珍しく楽しそうだった。
「やりましょう」
―――――
三日後の夜。
ヴェルダークが光に包まれた。
ガラスの通りに灯りが並んでいた。息吹の核を小さく削って作った灯篭が、道の両側に等間隔で置かれている。白と紫の柔らかい光が、ガラスの窓に反射して、通り全体が幻想的に輝いていた。
広場の中央に長テーブルが何列も並んでいた。肉が焼ける匂い。パンの山。果物。チーズ。そして酒。大量の酒。
民が全員いた。兵士も、職人も、老人も、子どもも。全員が広場に集まっていた。
テオが走り回っていた。「パーティーだ! パーティーだ!」と叫んでいた。
ガラが「うるさい」と言いながら薬草茶を淹れていた。ナーシャがその横で酒を注いでいた。
ムルトゥスが椅子に座って、穏やかに笑っていた。
ソルスが「飲みすぎるなよ」とミルに言っていた。ミルは既に一杯目を飲み終えていた。
俺は新しい黒い服を着ていた。シアが黒いワンピースを着ていた。リーナが青いワンピースを着ていた。レナが革ベストを着ていた。
全員が、いつもと違う格好で、いつもと違う顔をしていた。
グラザードが広場の中央に立った。
「民よ。今夜は魔王祭だ」
歓声が上がった。
「本来なら魔王誕生の日に開くべきだった。だが戦が続き、時期を逃していた。——今日、やっと開ける」
グラザードは俺を見た。
「魔王カイン・アーヴェル。壁を作り、水を取り戻し、川を蘇らせ、街を蘇らせた。二千の軍勢を一人で退けた。この男がいなければ、今夜のこの光景はなかった」
民が静かに聞いていた。
「今夜は飲め。食え。踊れ。笑え。百年ぶりに——安心して騒げ」
歓声が、夜空に弾けた。
―――――
魔族は酒に強かった。
十歳からもう飲んでいるらしい。テオが「俺はまだ飲めないけど!」と不満そうだった。あと三年だ。待て。
レナが最初に潰れると思っていたが、レナは底なしだった。五杯飲んでも全く変わらない。「魔族なめんな」と笑っていた。
グラザードは三杯目で顔が赤くなった。
五杯目で、異変が起きた。
「カイン殿……」
グラザードが俺の横に座った。目が潤んでいた。
「こんなパーティーを……安心して開けるのは……」
声が震えていた。
「絶対に襲撃が来ないと……安心できるのは……」
涙が、グラザードの頬を伝った。
「あなたの……おかげです……」
泣いていた。二十三年間、総司令として魔族の衰退を見続けてきた男が。鬼の顔で軍議を仕切っていた男が。酒で涙腺が壊れて、大泣きしていた。
「二十三年……二十三年間、一日も安心できなかった……夜中に報告が来るたびに、次はどこが襲われたかと……民が何人死んだかと……」
グラザードの大きな手が、俺の腕を掴んだ。
「今夜は……見張りが一人もいない……全員が酒を飲んでいる……こんな夜は……二十三年で初めてだ……」
俺は何も言えなかった。
グラザードの肩を叩いた。それしかできなかった。
「……ありがとうございます、グラザード。あなたが二十三年守ったから、今夜がある」
グラザードがさらに泣いた。レナが後ろから「グラザード様かわいい」と言っていた。グラザードが「うるさい」と泣きながら怒鳴った。
―――――
リーナが酔っていた。
三杯目だった。魔族と違って人間は弱い。
青いワンピースのリーナが、俺の横にすり寄ってきた。
「カインさぁん……」
声が甘かった。普段のリーナとは全然違う。
「リーナ、大丈夫か」
「大丈夫ですよぉ……えへへ……」
えへへ。リーナがえへへと言った。初めて聞いた。
リーナが俺の腕にしがみついた。金色の髪がさらさらと俺の腕に触れた。草色の瞳がとろんとしていた。
「カインさんの横、あったかいです……」
「酒のせいだろ」
「酒じゃないです。カインさんがあったかいんです」
リーナは俺の腕を離さなかった。頬を俺の肩に乗せた。
「……ここにいていいですか」
「いいけど。飲みすぎるな」
「飲みすぎてません。三杯です」
「人間には十分だろ」
「魔族の基準で言わないでください……」
リーナはそのまま俺の肩に頬を預けて、目を細めていた。幸せそうだった。金色の髪が灯篭の光を受けて、きらきら光っていた。
―――――
シアも酔っていた。
五杯目だった。魔族だから強いと思っていたが、シアは小柄だった。体重に対してアルコールの量が多すぎた。
シアが俺の前に来た。黒いワンピースのシアが。真白の髪が少し乱れていた。頬が赤い。銀色の瞳が、いつもよりぎらぎらしていた。
「カイン」
「ん」
「今日のカイン、かっこいい」
……何だ急に。
「黒い服、似合ってる。買ってよかった」
「シアが勧めたんだろ」
「そう。私が選んだ。私の目は正しい」
シアは俺の隣に座った。いつもより近かった。肩が触れていた。
「シアも似合ってるよ。黒」
「……そうか」
「白い装束もいいけど、黒もいい」
シアは少し黙った。
「……もっと言え」
「え」
「もっと褒めろ」
シアが褒めろと言った。酔ってる。完全に酔ってる。
「えーと……髪が綺麗だ」
「いつもだ」
「肌が白くて綺麗だ」
「いつもだ」
「じゃあいつも綺麗だ」
シアが黙った。
耳が真っ赤だった。
「……ばか」
シアはそれだけ言って、俺の肩に頭を預けた。
右にリーナ。左にシア。
両肩が塞がった。
レナが向かい側から見ていた。にやにやしていた。
「魔王様、モテモテだねー」
「助けてくれ」
「やだ。面白いから見てる」
テオが走ってきた。
「カイン! なんで二人にくっつかれてるの!」
「わからん」
「ずるい! 俺もくっつく!」
テオが膝に飛び乗ってきた。
右肩にリーナ。左肩にシア。膝にテオ。
身動きが取れなくなった。
ガラが遠くから見て「阿呆だね、あの人間は」と笑っていた。
ムルトゥスが微笑んでいた。
グラザードはまだ泣いていた。
夜空に、灯篭の光が浮かんでいた。白と紫の優しい光。ガラスの窓に反射して、街全体がきらきらしていた。
音楽が聞こえた。どこかで誰かが楽器を弾いている。それに合わせて歌い出す声。笑い声。杯がぶつかる音。子どもが走り回る音。
百年ぶりの、安心できる夜。
俺は両肩に二人の重みを感じながら、空を見上げた。
いい夜だった。




