■ 第46話「帰り道の夜」
馬で一日走って、日が暮れた。
ヴェルダークまであと半日の距離。森を抜けて平野に出たところで、野営することにした。
南の空に、奇跡の壁が見えた。
白と紫の光が、地平線に沿って静かに輝いている。ここからでも見えるくらい、大きくなっていた。俺たちがトーラに行っている間にも、ソルスとミルが壁を維持してくれていたのだろう。
あの光の内側が、俺たちの場所だ。
―――――
焚き火を起こした。レナが手際よく薪を組んで火をつけた。
「レナ、慣れてるな」
「斥候の経験あるからね。一人で野営することもあったよ。前はね」
「前は?」
「壁ができる前。人間がいつ攻めてくるかわからなかったから、夜は交代で見張りを立てて、鎧を着たまま寝てた。焚き火なんて焚けなかった。煙で見つかるから」
レナは火を見ながら言った。いつもの眠そうな目だったが、声は少し違った。
「今はこうやって火を焚ける。鎧を脱いで寝られる。それだけですごいことなんだよ」
リーナが小さく頷いた。
「壁があるから、ですよね」
「うん。カインが作った壁」
俺は壁を見た。遠くで光っている。
あれを作ったのが、ほんの数ヶ月前のことだとは思えなかった。
―――――
飯を食った。干し肉とパンと、トーラの民がくれた果物。リーナがガラに教わった薬草茶を淹れてくれた。野営で飲む薬草茶は、集落で飲むのとは少し違う味がした。空が広いからかもしれない。
食べ終わって、レナが毛布にくるまった。
「先に寝るね。見張りいらないでしょ、壁の内側だし」
「いらない。寝ろ」
「おやすみー」
レナは三秒で寝た。相変わらずだ。
リーナが焚き火の向こうで、日記を書いていた。トーラでの出来事を記録しているらしい。ペンを動かす横顔が、焚き火の光に照らされて柔らかかった。金色の髪が肩で揺れている。
「リーナ、先に寝ていいぞ」
「もう少し書いたら寝ます」リーナはにっこり笑った。「カインさんこそ、先に寝てください」
「もう少し起きてる」
「……ルティアさんのこと、考えてるんですか?」
「え」
「なんとなく」
リーナはにっこり笑ったまま、日記に目を戻した。
……なんとなくでわかるのか。怖いね、女の子って。
―――――
リーナも寝た。
焚き火の前に、俺とシアだけが残った。
シアは焚き火の横に座っていた。術式書を膝の上に置いているが、読んでいなかった。火を見ていた。
焚き火の光が、シアを照らしていた。
真白の髪。アルビノのような、混じりけのない白。肩より少し長くて、毛先が微かに内側に巻いている。夜風が吹くたびに、白い糸みたいに揺れた。
銀色の瞳。焚き火の橙が映り込んで、いつもより温かい色に見えた。睫毛が長い。瞬きするたびに、影が頬に落ちる。
肌が白かった。焚き火の光でも日焼けの痕がない。腕も、首筋も、頬も。作り物みたいに白い。でも唇だけが薄い桜色で、それが妙に生々しかった。
白い装束の下の身体は小柄だった。華奢で、折れそうなくらい細い。でもこの子は予言の守り手で、術式を操り、俺の補佐官として軍議にも出る。見た目の脆さと中身の強さが、全然噛み合っていない。
頭の角は二本。細くて短くて、真白だった。髪に紛れて見えにくい。でも火の光が当たると、うっすらと透き通って見えた。
綺麗だ、と思った。何度目かわからないけど。
「……何」
シアが俺を見た。見つめていたのがバレた。
「いや、何でもない」
「何でもないのに見てたの」
「火を見てた」
「私の方を見てた」
「……火がシアの横にあるから、方向が同じだっただけだ」
シアが俺を見た。焚き火の光の中で、俺の碧い瞳がシアの銀色の瞳に映っていた。
「……綺麗な色」
「え?」
「何でもない」
シアは火に目を戻した。耳が赤かった。
「ふーん」
シアの「ふーん」が出た。でも今夜のは怒りの「ふーん」じゃなかった。少しだけ、口元が緩んでいた。
―――――
しばらく二人で火を見ていた。
壁の光が遠くに見えた。虫の声が聞こえた。安全だった。こんなに何も怖くない夜を、シアは何年ぶりに過ごしているんだろう。
「シア」
「ん」
「こうやって焚き火焚いて、見張りなしで野営するの、いつぶりだ」
シアは少し考えた。
「……初めて、かもしれない」
「初めて?」
「私が物心ついた頃には、もう人間の侵攻が激しかった。外に出るときは常に警戒していた。夜は見張りを立てて、いつでも逃げられるように寝ていた」
シアは膝を抱えた。
「集落の中でも、完全に安全な夜はなかった。いつ壁が破られるか、いつ侵攻が来るか。ムルトゥス様と二人で、予言書を読みながら夜を明かすことが多かった」
「今は?」
「今は奇跡の壁がある。灯火がある。カインがいる」
シアは火を見ていた。
「こうやって野原で火を焚いて、鎧もなく、見張りもなく、ただ座っている。空を見て、虫の声を聞いて。……こういう夜が来るなんて、思っていなかった」
シアの声が、静かだった。嬉しいとか悲しいとかじゃなく、ただ「信じられない」という声だった。
「当たり前になるよ。こういう夜が」
「……本当に?」
「本当に。壁をもっと広げて、灯火をもっと届けて。全部の集落がこうなるまで」
シアは少し黙った。
「……カインは、いつもそうやって大きなことを言う」
「大きいか?」
「大きい。でも全部やってきた。だから……信じてる」
その最後の二文字が、小さかった。
―――――
シアが寝た。
毛布にくるまって、焚き火の横で丸くなった。小さかった。本当に小さい。膝を抱えて、顎を膝に乗せるみたいにして眠っている。真白の髪が顔にかかっていた。
俺は一人で焚き火の番をしていた。
見張りはいらない。壁の内側だ。でもなんとなく、起きていたかった。
ルティアのことを考えていた。
今頃、何をしているだろう。
見回りは交代制になった。今夜はルティアの番じゃないはずだ。ちゃんと寝ているだろうか。あの岩の上で、一人で月を見ていたりしないだろうか。
あの石を握っているだろうか。俺が渡した、白と紫に光る小さな石。灯火の欠片。
握っていてほしい、と思った。
——寂しいな。
不意に、そう思った。
二週間、毎日顔を合わせていた。朝は訓練場で、昼は修繕で、夕方は食堂で、夜は岩の上で。隣にいるのが当たり前になっていた。
その「当たり前」が、今夜はない。
馬で二日の距離。遠くはない。でも隣にはいない。
ルティアの声が聞こえない。「うるさい」も「黙れ」も「勝手にしろ」も。あの声が聞こえない夜が、こんなに静かだとは思わなかった。
……いや、レナのいびきは聞こえてるな。結構うるさい。
でも、それとは別の静かさだ。
ルティアがいない静かさ。
焚き火がぱちりと爆ぜた。
シアが寝返りを打った。毛布からはみ出した手が、地面を掻いた。寒いのかもしれない。
俺は自分の毛布をシアにかけた。二枚重ね。シアの手が毛布の中に収まった。
寝顔を見た。穏やかだった。
この子も大事だ。リーナも大事だ。ルティアも大事だ。
全員大事で、全員違う「大事」で、俺はまだその違いに名前をつけられないでいる。
……鈍いって言われるわけだ。
壁の光を見た。白と紫。命の灯火と同じ色。
明日にはあの光の中に帰る。テオが走ってくるだろう。ガラが薬草茶を出すだろう。ソルスが報告を持ってくるだろう。ミルが騒ぐだろう。グラザードが腕を組んで頷くだろう。ムルトゥスが微笑むだろう。
帰る場所がある。
三年前には何もなかった。名前も居場所も仲間も全部奪われた。
今は全部ある。
焚き火が小さくなっていく。薪を足した。
明日、帰ろう。
そしていつか、また会いに行こう。トーラに。ルティアに。
「勝手にしろ」が「待ってる」に聞こえた夜のことを、俺はまだ覚えている。




