■ 第45話「また来る」
トーラに来て二週間が過ぎた。
集落は回っていた。
見回りは交代制が定着した。修繕もほぼ終わった。畑に芽が出始めていた。ヴァルドは完全に復帰して、族長として民をまとめていた。戦士たちは毎日訓練場で汗を流している。命の灯火が脈打つたびに、森が少しずつ豊かになっていく。
もう、俺がいなくても大丈夫だ。
わかっていた。数日前からわかっていた。
でも言い出せなかった。
―――――
シアが言った。
「カイン。そろそろ帰らないと」
朝食の席だった。リーナもレナもいた。ルティアは少し離れた場所でトーラの民と話していた。
「ヴェルダークの灯火の維持はソルスとミルに任せてあるけど、壁の拡張は止まっている。他の集落にも灯火を届けないといけない。いつまでもここにはいられない」
正論だった。完全な正論。
「……わかってる」
「わかってるなら決めて。いつ帰るか」
「……三日後」
「明後日にして」
「三日後」
「……なぜ」
「三日後がいい」
シアは俺を見た。少し間があった。
「……わかった。三日後」
リーナが小さく笑った。レナは何も言わなかったけど、にやにやしていた。
―――――
午後、リーナがルティアに声をかけた。
「ルティアさん、お茶しませんか。シアさんも一緒に」
ルティアが振り返った。
「……また か」
「また、です」
ルティアは少し間を置いた。
「……いいだろう」
三人はルティアの部屋に消えていった。
俺は呼ばれていない。今回は聞き耳を立てなかった。レナが「行かないの?」と言ったが、行かない。前回バレて痛い目を見た。
一時間後、三人が出てきた。
リーナはいつものにっこり。シアは無表情だけど目が少し柔らかい。
ルティアは——顔が赤かった。
「何の話してたんだ」
「秘密」リーナが言った。
「秘密だ」シアが言った。
「……秘密だ」ルティアが言った。声が小さかった。
三人の意見が一致していた。怖い。
―――――
帰る前日の夜。
ヴァルドが宴を開いてくれた。
トーラの食堂に、民が全員集まった。ヴェルダーク組もトーラ組も入り混じって、飯を食って、酒を飲んで、笑った。
レナがトーラの戦士と腕相撲をやっていた。三連勝した後、四人目で負けた。「今日は調子悪い」と言い訳していた。
リーナが子どもたちに囲まれていた。「リーナ姉ちゃんまた来てね」と言われて、「絶対来るよ」と笑っていた。
シアはトーラの長老と隅で話していた。予言書の話をしているらしかった。シアが珍しく饒舌だった。
ヴァルドが俺の隣に座った。でかい。隣に座るだけで圧がすごい。
「カイン殿」
「はい」
「トーラは立ち直った。あなたのおかげだ」
「みんなの力ですよ」
「それを言うのがあなたらしい」ヴァルドは酒を飲んだ。「一つ、父親として聞いてもいいか」
「何ですか」
「娘のことを、どう思っている」
酒を噴きそうになった。
「いや、あの——」
「正直に言え。族長として聞いているのではない。父親として聞いている」
ヴァルドの深紅の瞳が、穏やかだった。でも逃げられない目だった。
「……大事な人だと思ってます」
「大事、か」
「はい」
「それは、シア殿やリーナ殿と同じ意味の大事か。それとも違う意味の大事か」
……この親父、鋭すぎる。
「……まだ、わかりません。正直に」
「そうか」ヴァルドは少し笑った。「正直なのはいいことだ。嘘をつかれるよりずっといい」
「すみません。はっきり答えられなくて」
「急がなくていい。ただ——」
ヴァルドは酒の杯を置いた。
「あの子が誰かを信じたのは、母が死んでから初めてだ。それだけは、覚えておいてくれ」
重かった。父親の言葉は、剣より重い。
―――――
宴が終わりかけた頃、外に出た。
空気を吸いたかった。ヴァルドの言葉が胸に残っていた。
広場の灯火が、静かに光っていた。
ルティアがいた。
灯火の前に立っていた。腕を組まずに。両手が体の横に下がっていた。あの、武装を解いた姿。
「ルティア」
「……ああ」
「宴、出ないのか」
「少し休んでいるだけだ」
隣に立った。
「明後日、帰る」
「知ってる」
「シアに決められた」
「三日後って言ったんだろう。聞こえてた」
「朝食の席で聞こえてたのか」
「食堂は狭い」
しばらく黙っていた。
「……ルティア」
「何だ」
「また来る」
「……ああ」
「灯火の点検もあるし」
「点検なんて私一人でできると言っただろう」
「でも来る」
「……勝手にしろ」
同じやり取りだった。前にもやった。でも今回はルティアの声が、前より小さかった。
「ルティア」
「何だ。さっきから何回呼ぶんだ」
「手、出して」
「……は?」
「いいから」
ルティアは怪訝な顔をしたが、手を出した。
俺はルティアの手のひらに、小さな石を置いた。
白と紫に光る石。息吹の核の欠片。
「何だこれは」
「灯火と同じ原理で作った、小さい核だ。持ってると息吹が少し濃くなる。お守りみたいなもん」
ルティアは石を見た。手のひらの上で、小さな光が脈打っていた。
「……お守り」
「ヴェルダークに帰っても、それを持ってれば繋がってる感じがするだろ。灯火と同じ光だから」
我ながら何を言ってるんだ。でも言ってしまった。
ルティアは石を見ていた。しばらく。
それから、手のひらを閉じた。石を握った。
「……もらっておく」
「うん」
「でも勘違いするな。これは灯火の管理に必要だから受け取るだけだ」
「わかってる」
「本当にわかってるか」
「わかってるよ」
「…………」
ルティアは石を握ったまま、灯火を見ていた。
「……カイン」
「ん」
「この二週間——」
言葉が止まった。
「二週間?」
「…………楽しかった」
小さかった。かろうじて聞こえるくらいの。
でも聞こえた。
「俺も」
「……そうか」
「ルティアと一緒に壁を直したり、子どもに角を触られたり、水筒を受け取ったり。全部、楽しかった」
「水筒は関係ないだろう」
「関係ある」
「なぜだ」
「ルティアが初めて俺に何かをくれた瞬間だったから」
ルティアが黙った。
灯火の光の中で、深紅の瞳が揺れていた。
「……卑怯だ」
「何が」
「そういうことを、さらっと言うのが卑怯だ」
「さらっと言ってないけど。結構考えて言った」
「余計に卑怯だ」
ルティアは背を向けた。
「……帰れ。ヴェルダークに。民が待ってるだろう」
「ああ」
「壁を広げろ。灯火を届けろ。まだ三十分の一しか取り戻してないんだろう」
「そうだな」
「やることは山ほどあるはずだ。こんなところで油を売ってる場合じゃない」
「その通りだ」
「だから——」
ルティアが振り返った。
目が赤かった。
「——だから、早く全部終わらせて、また来い」
俺は少し笑った。
「わかった」
「約束だぞ」
「約束する」
「破ったら斬る」
「破らない」
ルティアは鼻を鳴らした。石を握ったまま、宿舎に向かって歩いていった。
途中で立ち止まった。振り返らなかった。
「……おやすみ」
小さな声だった。
「おやすみ、ルティア」
ルティアは歩いていった。
俺は灯火の前に立っていた。
手のひらを見た。さっきまでルティアに石を渡していた手。ルティアの手の温度が、まだ残っていた。
―――――
翌朝、出発した。
集落の民が総出で見送りに来た。子どもたちがリーナに抱きついて泣いた。戦士たちがレナと握手した。長老がシアに予言書の写しを渡していた。
ヴァルドが俺の前に立った。
「カイン殿。またトーラに来てくれ。歓迎する」
「必ず来ます」
「次は酒を持ってこい。トーラの酒は旨いが、ヴェルダークの酒も飲んでみたい」
「持ってきます」
ヴァルドが手を差し出した。握った。でかい手だった。力強かった。
ルティアは、民の後ろに立っていた。腕を組んで。いつもの姿勢。
目が合った。
ルティアは何も言わなかった。手も振らなかった。
でも、胸の前で——さりげなく——あの石を握っていた。
白と紫の光が、指の隙間から漏れていた。
俺は頷いた。ルティアも、小さく頷いた。
それで十分だった。
馬を走らせた。白銀の髪が風になびいた。森の道を抜けていく。木々の間から、命の灯火の光が見えた。
トーラは大丈夫だ。灯火がある。ヴァルドがいる。ルティアがいる。
振り返らなかった。振り返ったら戻りたくなる気がしたから。
隣でシアが言った。
「……帰ろう」
「ああ」
「ヴェルダークに」
「ああ」
シアは少し間を置いた。
「……楽しかった? トーラ」
「楽しかった」
「…………そう」
シアの声が、少しだけ小さかった。
リーナが反対側から言った。
「私も楽しかったです。でも帰ったらガラさんの薬草茶が飲みたいです」
「ガラの茶、苦いだろ」
「あの苦さが好きなんです。ルティアさんも好きだって言ってましたよ」
「ルティアが?」
「はい。昨日のお茶会で。『この茶は悪くない』って。ルティアさんの最大級の褒め言葉です」
リーナはにっこり笑った。
レナが後ろから叫んだ。
「帰ったら腕相撲のリベンジだからね! トーラの四番目の奴、次は負かす!」
にぎやかだった。
帰り道は、来たときより短く感じた。




