■ 第44話「日々」
翌朝、目が覚めたら岩の上だった。首が痛い。肩が痺れている。
ルティアはいなかった。代わりに、上衣がかけてあった。
……いつ起きたんだ。
集落に戻ると、シアが宿舎の前に立っていた。
「朝帰り?」
「見回りに付き合ってただけだ」
「一晩中?」
「一晩中」
「ルティアと?」
「……はい」
シアの無表情が重い。
リーナが奥から出てきて首を治してくれた。
―――――
朝食の席で、ヴァルドが立ち上がった。
「民に伝える。今日から見回りは交代制にする」
食堂が少しざわめいた。
「半年間、娘が一人でやっていた見回りだが、もうその必要はない。命の灯火のおかげで戦士たちは本来の力を取り戻した。二人一組、三交代で回す。夜は寝ろ」
最後の一言は、ルティアを見て言っていた。
ルティアは黙って味噌汁を飲んでいた。何も言わなかった。でも反論もしなかった。
俺はそれを見て、少しだけ安心した。昨夜、あの岩の上で眠れたことが、ルティアの中で何か変えたのかもしれない。
―――――
その日から、トーラの視察が始まった。
灯火を作って終わりじゃない。この集落がちゃんと自分たちの足で回っていけるか、魔王として確認する必要がある。
午前中、ヴァルドと一緒に集落を歩いた。
建物の状態を確認した。壁に穴が空いている家がいくつかあった。屋根が傷んでいる家も。半年間、修繕の余裕がなかったのだろう。
「灯火ができて、民の体力が戻った。これなら修繕も進められる」ヴァルドが言った。
「資材はありますか」
「森の木はいくらでもある。問題は人手だ。戦士は見回りに出るし、女たちは子どもの世話がある」
「じゃあ修繕の順番を決めましょう。一番ひどい家から順に、みんなで直す」
ヴァルドは俺を見た。
「魔王が大工仕事の段取りまでするのか」
「壁を作るのも大工仕事みたいなもんです」
ヴァルドが笑った。
―――――
午後、シアとソルスに灯火のデータをまとめてもらっている間、俺は集落の子どもたちに捕まった。
七人。トーラの子ども全員。
「魔王様、角見せて!」
「水色の角ってほんと?」
「触っていい?」
俺がしゃがむと、七人が群がってきた。角をつんつん触られた。くすぐったい。
「すげー! ほんとに水色だ!」
「小さいね!」
「小さいって言うな」
子どもたちがげらげら笑った。
ルティアが遠くからそれを見ていた。腕を組んで、木に寄りかかって。
目が合った。
ルティアが目を逸らした。速かった。
でも、逸らす前に見えた。口元が、ほんの少しだけ緩んでいたのが。
―――――
夕方、集落の修繕を手伝った。
壁に穴が空いた家の補修。俺とレナが木材を運んで、トーラの男たちが組み立てる。力仕事は灯火のおかげで楽だった。みんな体力が戻っているから、半年分の遅れを取り戻すみたいに働いていた。
俺が木材を担いでいると、ルティアが近づいてきた。
「手伝いにきた」
「ルティアは休んでていいのに」
「休むのは慣れてない」
「知ってる」
「じゃあ言うな」
ルティアは俺の隣で木材を運び始めた。黙々と。でも横に並んで作業していた。
二人で壁板をはめ込む作業をした。一人が板を押さえて、もう一人が釘を打つ。
「押さえるから打て」ルティアが言った。
「わかった」
釘を打った。ルティアの手の近く。
「近い」
「すまん」
「もう少し右」
「ここか」
「もう少し」
「ここ?」
「……そこだ」
なんでもない作業なのに、指示を出すルティアの声がいつもより小さかった。距離が近いからかもしれない。板を押さえるルティアの手と、釘を打つ俺の手が、たまに触れた。
触れるたびに、ルティアの手がぴくっと動いた。でも引っ込めなかった。
作業が終わって、家主のおばあさんが「ありがとう」と泣いた。
「半年間、穴から風が入ってきて寒かった。これでやっと眠れる」
「もっと早く直せなくて、すまなかった」ルティアが言った。
「ルティア様のせいじゃないですよ。ルティア様が集落を守ってくれていたから、私たちはここにいられたんですから」
ルティアは少し黙って、「ありがとう」と小さく言った。
俺はそれを横で見ていた。
ルティアが民にありがとうと言うの、初めて聞いた気がする。
―――――
夜、食堂でみんなで飯を食った。
いつの間にか、ヴェルダーク組とトーラ組が混ざって座るようになっていた。レナがトーラの戦士と腕相撲をしていた。勝っていた。リーナがトーラの子どもたちに囲まれていた。シアはトーラの長老と術式の話をしていた。
ルティアは——俺の隣に座っていた。
いつからそうなったのかわからない。気づいたら隣にいた。
「……狭いな」ルティアが言った。
「広いだろ。食堂」
「……そうだな。広い」
何が狭かったんだ。
ルティアは飯を食いながら、ときどき俺の方をちらっと見た。目が合うと逸らした。でも逸らすまでの時間が、日に日に長くなっている気がする。初日は0.3秒だった。今日は1秒くらいあった。
進歩だ。何の進歩かわからないけど。
―――――
数日が過ぎた。
トーラは目に見えて変わっていった。
穴の空いた家が直った。戦士たちが交代で見回りを始めた。畑を作り始めた民がいた。灯火のおかげで森の土が柔らかくなって、作物が育つ土壌ができつつあった。
子どもたちが前より外で遊ぶようになった。「灯」と名づけられた赤ちゃんは、日に日に大きくなっていた。母親が「よく飲む子だ」と笑っていた。
ナリア——二年前に生まれた、弱かった子——も、少しずつ元気になっていた。まだ小さいけど、外を歩く時間が増えた。リーナが毎日様子を見ていた。
ヴァルドが民の前に立つ時間が増えた。ルティアは少しずつ、族長代理の仕事を父に返していった。
でもルティアは暇にならなかった。今度は修繕の指揮を取り始めた。働き者だ。じっとしていられないんだろう。
俺もずっと手伝っていた。木材を運んだり、灯火の効果を確認したり、子どもの相手をしたり。
ルティアは最初、俺が手伝うのを嫌がった。「魔王が大工仕事をするな」と。でも三日目には何も言わなくなった。五日目には隣で作業するのが普通になっていた。
一週間経ったとき、ルティアが作業の合間に水筒を差し出してきた。
「飲め」
「ありがとう」
「水分を取らないと倒れる。お前が倒れると面倒だから」
「面倒」
「面倒だ。灯火の調整ができなくなる」
「それだけ?」
「それだけだ」
水を飲んだ。ルティアの水筒。
飲み終わって返そうとしたら、ルティアが受け取るときに指が触れた。
ルティアの手が、引っ込まなかった。
一秒。二秒。
ルティアが水筒をひったくった。
「何を——何をぼさっとしている。作業に戻れ」
「はいはい」
「はいは一回だ」
シアと同じこと言ってる。
―――――
その夜、俺は岩の上にいた。月を見ていた。
一人で。
ルティアは来なかった。見回りは交代制になったから。今夜はルティアの番じゃない。
来ないとわかっていたのに、少しだけ待ってしまった自分に気づいて、ちょっと困った。
何を待ってるんだ俺は。
足音がした。
振り返った。
ルティアだった。部屋着で。髪を下ろしていた。
「……来てないだろうなと思って確認しに来ただけだ」
「来てるけど」
「知ってる。見えたから」
「じゃあなんで来たんだ」
「…………確認だ」
ルティアは岩の下に立っていた。登ってこなかった。
「……登らないのか」
「用はない。確認しただけだ」
「座っていけよ。月が綺麗だぞ」
ルティアは少し黙った。
登ってきた。
隣に座った。あの夜と同じ場所。
「……一回だけだぞ」
「何回目だよそれ」
「うるさい」
二人で月を見た。
虫の声が聞こえた。灯火の脈動が遠くから伝わってきた。
今夜は何も言わなかった。二人とも。
ただ、隣に座っていた。
ルティアは寝落ちしなかった。目が開いていた。月を見ていた。
でも肩の距離が、あの夜よりほんの少しだけ近かった。




