■ 第43話「月夜」
翌日、ルティアは俺を避けていた。
朝食の席で目が合ったら、0.3秒で逸らされた。シアの0.5秒より速い。新記録。
訓練場では、俺が近づくと反対側に移動した。さりげなく。でもバレバレだった。
「ルティア、灯火の最終調整を——」
「父上に頼め」
「ルティアじゃないとわからない場所が——」
「地図を渡す。それで十分だ」
「いや、直接——」
「用があるなら書面で出せ」
書面。
書面って何だ。昨日まで一緒に森を歩いてた仲なのに、急に官僚みたいなこと言い出した。
レナが横で笑いを堪えていた。堪えきれてなかった。
「シアちゃん、見てるよ」レナが小声で言った。
振り返ると、シアが訓練場の端から俺を見ていた。無表情だった。完璧な無表情。
昨日からずっとこれだ。
リーナだけがいつも通りだった。朝食のときにみんなに薬草茶を配っていた。ガラに教わった淹れ方で。ルティアの分も置いていた。ルティアは少し固まってから、黙って飲んだ。
リーナ、お前がいないと俺は死ぬ。
―――――
昼過ぎ、ヴァルドに呼ばれた。
族長の部屋。復活してからのヴァルドは、一日のほとんどを民の相談に費やしていた。半年分の仕事を取り戻すように。
「カイン殿」
「はい」
「娘が変だ」
「…………知ってます」
「何かあったか」
「雨宿りをしただけです」
「雨宿り」
「はい。雨に降られて、木の根元で」
「二人で」
「二人で」
ヴァルドが俺を見た。深紅の瞳。ルティアと同じ色。
「……それだけか」
「それだけです」
「本当に?」
「本当です」
ヴァルドはしばらく俺を見ていた。嘘をついていないか見定めるような目だった。
「……まあいい。あの子が誰かを避けるのは珍しい。普段は自分から切り込んでいく性格だからな」
「知ってます。初日に喉元に剣を突きつけられたんで」
ヴァルドが豪快に笑った。
「あれは娘なりの歓迎だ。許してやってくれ」
歓迎のハードルが高すぎる。
「カイン殿。一つ、頼みたいことがある」
「何ですか」
「今夜、娘と話してやってくれ」
「避けられてるんですが」
「夜なら大丈夫だ。あの子は夜になると見回りに出る。毎晩、集落の外周を歩く。半年間、一日も欠かしていない」
「族長が戻ったのに、まだやってるんですか」
「やめろと言ったが聞かない。習慣になってしまっている。身体に染みついた緊張が、まだ解けていないんだろう」
ヴァルドの目が、少し悲しそうだった。
「あの子は半年間、夜も眠らずに集落を守ってきた。私が戻ったのに、まだ一人で見回りをしている。自分が休んでいいと、まだ信じられないんだ」
「……わかりました。行きます」
―――――
夜。
月が出ていた。森の木々の隙間から、白い光が差し込んでいる。息吹と月光が混じって、森全体が薄紫に染まっていた。
集落の外周を歩いた。ルティアの見回りルートを、ヴァルドに教えてもらっていた。
いた。
集落の南端、森との境界線。大きな岩の上にルティアが座っていた。
剣を膝の上に置いて、月を見ていた。鎧じゃなく、昨夜と同じ黒い部屋着。髪を下ろしていた。
「ルティア」
ルティアが振り返った。俺を見た。
一瞬、逃げそうな顔をした。でも逃げなかった。岩の上だから逃げ場がないのもあるだろうけど。
「……なぜここに」
「ヴァルドさんに教えてもらった」
「父上が余計なことを」
「余計じゃないだろ。心配してるんだよ」
「心配される筋合いは——」
「ある。毎晩見回りしてるんだろ。族長が戻ったのに」
ルティアが黙った。
「隣、座っていいか」
「……勝手にしろ」
岩に登った。隣に座った。昨日の雨宿りほどは近くない。でも手を伸ばせば届く距離。
月が明るかった。白銀の髪が月光に染まっていた。
「ルティア」
「何だ」
「なんで、まだ見回りしてるんだ」
「……習慣だ」
「それだけか」
ルティアは膝の上の剣に目を落とした。
「……怖い」
小さな声だった。俺以外には聞こえないくらいの。
「父上が戻った。灯火もある。民も元気になった。全部良くなった。なのに——夜になると怖い」
「何が怖い」
「また失うことが。目を離した隙に、また誰かがいなくなることが。父上がまた倒れることが。朝になって、全部夢だったとわかることが」
ルティアの手が、剣の柄を握っていた。
「半年間、毎晩この道を歩いた。歩いている間は、集落を守っているという実感があった。剣を握っている間は、大丈夫だと思えた。でも今は——」
声が、かすかに震えた。
「全部良くなったのに、剣を置けない。怖くて」
俺は黙って聞いていた。
下手なこと言いたくない。でも今回は、黙ってるのも違う気がした。
「ルティア」
「何だ」
「剣、貸して」
「……は?」
「いいから。貸して」
ルティアは怪訝な顔をしたが、剣を俺に渡した。
俺はその剣を受け取って、岩の下に置いた。手の届かない場所に。
「何をする」
「今夜は剣なしだ」
「おい——」
「大丈夫。俺がいるから」
ルティアが固まった。
「お前がいるから、何だ」
「俺がいるから、今夜は剣がなくても大丈夫だ。誰かが来たら俺が壁を作る。封印術で止める。ルティアが剣を握らなくても、今夜は誰も失わない」
ルティアは俺を見ていた。月明かりの中で、深紅の瞳が揺れていた。
「……お前に、何がわかる」
「わからない。でも隣にはいられる」
「…………」
「一人で見回りしなくていい。一人で怖がらなくていい。今夜は俺がいる」
ルティアは黙った。
長い沈黙だった。
月が動いた。木の影が少し移った。
ルティアの手が、膝の上で開いた。剣を握っていた手が、力を抜いた。
「……一晩だけだぞ」
「一晩でいい」
「明日からは自分で見回りをする」
「それはルティアが決めればいい」
「……ふん」
ルティアは月を見た。
しばらく二人で月を見ていた。何も言わなかった。
静かだった。虫の声と、遠くで命の灯火が脈打つ音だけが聞こえていた。
「……カイン」
「ん」
「昨日のこと」
「どっちの」
「……全部」
「忘れろって言ってなかったか」
「言った。でも——」
ルティアが少し俯いた。
「忘れないでほしい、のかもしれない」
……え。忘れろって言い続けてたのに。
「……ルティア、今——」
「何でもない。忘れろ」
「忘れないでほしいって言ったばかりだろ」
「うるさい。黙れ」
ルティアが顔を背けた。耳が赤い。月明かりでもわかるくらいに。
俺は少し笑った。
「忘れない」
「……」
「忘れないよ。雨宿りも、お母さんの話も、こけたことも。全部」
ルティアは何も言わなかった。
でも、背けていた顔が少しだけ戻った。横顔が見えた。
口元が、ほんの少しだけ、緩んでいた。
―――――
そのまま、二人で月を見ていた。
「……月が綺麗だな」ルティアが言った。
「ああ」
「この岩から見る月が好きだった。見回りの途中で、いつもここで少し休んだ」
「一人で?」
「一人で」
ルティアは膝を抱えた。剣のない手が、所在なさそうに膝の上に置かれていた。
「……眠くないのか」俺が聞いた。
「眠くない」
「嘘だろ。半年間まともに寝てないんだろ」
「寝てないわけじゃない。少しは寝ている」
「少しって何時間だ」
「……二時間くらい」
「それは寝てないって言うんだよ」
「うるさい。私はこれで十分——」
ルティアの言葉が、途中で止まった。
「ルティア?」
「……十分、だ」
声が小さくなっていた。さっきまでとトーンが違う。
しばらく黙って月を見ていた。
「……カイン」
「ん」
「お前は……いつまで、ここにいるんだ」
「明後日には帰る。でもまた来る」
「……そうか」
返事が遅くなっていた。間が伸びていく。
「……また来るなら……いい」
「何がいい?」
返事がなかった。
「ルティア?」
横を見た。
ルティアの目が、半分閉じかけていた。膝を抱えた姿勢のまま、頭がゆっくり傾いていた。
「おい、ルティア」
「……起きてる」
「起きてない。目が閉じかけてる」
「閉じて、ない……」
頭がさらに傾いた。俺の肩の方に。
ゆっくりと。
何度か首が戻りかけた。ルティアが無意識に抵抗している。寝てたまるか、と身体が言っている。でも半年分の疲れには勝てない。
戻って、傾いて、また戻って、また傾いて——
——ふ、と。
ルティアの頭が、俺の肩に触れた。
軽かった。思ったより、ずっと。
黒い髪が、俺の首筋にかかった。
寝息が聞こえた。静かな、穏やかな寝息。
一瞬で落ちた。半年分の疲れが、全部来たんだろう。
寝顔を見た。
起きてるときの鋭さが全部消えていた。年相応の、ただの女の子の寝顔だった。眉間の皺がない。唇が少し開いている。
半年間、まともに寝ていなかった子が、ようやく眠れたんだ。
動けない。動いたら起きる。起こしちゃいけない。
俺は肩を動かさないように、じっとしていた。
月が傾いていく。夜が更けていく。
肩が痺れてきた。でも動かない。
ルティアの寝息が聞こえた。静かな、穏やかな寝息。
こんな安心した顔で寝るのは、半年ぶりなのかもしれない。
だったら、肩の一つくらい。
朝まで、ここにいよう。




