■ 第42話「雨宿り」
トーラに来て一週間。
ヴァルドは完全に復活して、毎朝訓練場で大剣を振っている。その姿を見た民の士気が爆上がりしていた。「族長が戻った」という事実の力は、命の灯火に匹敵するかもしれない。
そろそろヴェルダークに帰る日を決めないといけない。でもまだ灯火の調整が残っている。あと二、三日はかかる。
……というのは表向きの理由で、実際は調整なんて半日で終わる。シアもわかってる。リーナもわかってる。レナなんか「カイン、帰りたくないんでしょ」とにやにやしていた。
うるさい。
―――――
午前中、灯火の微調整をしていたら、空が急に暗くなった。
「雨が来る」ルティアが空を見上げて言った。「この森の雨は急だ。すぐに戻れ」
シアたちは集落の中にいた。俺とルティアだけが、集落から少し離れた場所で灯火の効果範囲を確認していた。
走り出した瞬間、降ってきた。
豪雨。一瞬で全身ずぶ濡れ。
「こっちだ!」
ルティアが走った。速い。森の中を獣みたいに走る。俺も必死に追いかけた。枝が顔に当たる。足元がぬかるむ。
ルティアが大きな木の根元に滑り込んだ。根が張り出して、天然のひさしみたいになっている。
俺も飛び込んだ。
狭い。
二人分のスペースはあるが、ぎりぎり。肩が触れる距離。
「……狭いな」
「文句を言うな。雨宿りできるだけましだ」
雨が激しく降っていた。木の葉を叩く音がすごい。根のひさしから一歩出たら即ずぶ濡れ。
で、問題はルティアだった。
走ったせいで息が上がっている。雨に濡れて、黒髪が顔に張り付いていた。薄い上衣が身体に貼りついて、そのなんというか——
目を逸らした。
逸らせ。逸らせ俺。今すぐ逸らせ。
「どうした」
「いや、何でもない」
「変な顔をするな」
「してない」
「してた。見た」
ルティアが髪を手で搾った。水が滴った。首筋を雨粒が伝っていく。鎖骨のあたりまで流れて——
……俺は森の木を数え始めた。一本、二本、三本。うん。木はいい。木は安全だ。
「カイン」
「何」
「顔が赤い」
「走ったからだ」
「もう止まって五分は経つが」
「……暑いんだ。この森は湿度が高い」
ルティアが怪訝な顔で俺を見た。完全に信じてなかった。
頼むから気づくな。
―――――
雨は止む気配がなかった。
仕方なく、根元に背中を預けて座った。二人並んで。肩が触れてる。どうしようもない。狭いから。物理的にどうしようもない。
……肩、温かいな。いや、何考えてるんだ。
「ルティア」
「何だ」
「聞いていいか。お母さんのこと」
ルティアの肩が、一瞬固くなった。触れてるからわかった。
「……なぜ聞く」
「ヴァルドさんの話は聞いた。でもお母さんの話は誰からも聞いてない。聞いちゃいけないなら聞かない」
ルティアは雨を見ていた。しばらく無言。
「……死んだ」
「いつ」
「私が八つのとき」
「病気か」
「いや」
声が低くなった。
「人間だ。王国軍の偵察隊が森に入ってきた。母は私を隠して、一人で偵察隊を引きつけた。追い払ったが、深手を負った」
「……」
「父は東の境界で戦っていた。戻ったときには手遅れだった。母は父の腕の中で死んだ。私はそれを、木の陰から見ていた」
雨の音が、やけに大きく聞こえた。
「八歳の私には何もできなかった。隠れて、母が死ぬのを見ていることしか」
「ルティア——」
「だから強くなった。二度と、見ているだけにならないように。剣を握った。毎日振った。トーラで一番強くなった」
ルティアは自分の手を見た。
「それでも父が倒れたとき、また何もできなかった。剣じゃ病気は斬れない」
俺は黙って聞いていた。
下手なこと言いたくない。「大変だったな」も「辛かったな」も全部軽い。
「……でも今回は違っただろ」
「何が」
「ヴァルドさんは生きてる。剣じゃ斬れなかったけど、リーナが治した。灯火が力を戻した。一人じゃ無理でも、みんなでやればなんとかなった」
「……そうだな」
「ルティアが半年間守ったから、みんなが間に合った。ルティアが崩れてたら、俺たちが来ても手遅れだったかもしれない」
ルティアが俺を見た。近い。狭い場所に二人でいるから仕方ないんだけど、この距離は会話しづらい。
「……お前は」
「ん?」
「なんでそういうことを、さらっと言うんだ」
「さらっと? 普通のこと言っただけだけど」
「普通じゃない。私が半年間守ったからとか、そういうことを——」
ルティアが言葉に詰まった。顔がほんのり赤い。雨で冷えてるはずなのに。
「……恥ずかしいことを言うな」
「恥ずかしいこと言ったか?」
「言った」
「どこが?」
「全部だ」
ルティアは顔を背けた。反対側を向いた。
肩はまだ触れていた。
さっきより、ルティアの肩が少し温かくなってる気がした。雨で冷えてたのが戻ってきたんだろう。
―――――
雨がようやく小降りになった。
立ち上がろうとして、足がもつれた。ぬかるんだ地面に足を取られた。
バランスを崩した。
咄嗟にルティアの腕を掴んだ。
ルティアも立ち上がりかけていた。二人同時にバランスを崩して——
倒れた。
俺が下で、ルティアが上だった。
ルティアの顔が、目の前にあった。
近い。近い近い近い。
雨に濡れた黒髪が、俺の頬に触れていた。深紅の瞳が、至近距離で俺を見ていた。息が触れるくらいの距離。
時間が止まった。
二秒。三秒。たぶん五秒くらい。でも体感は五分くらいだった。
ルティアが飛び退いた。
一瞬で俺の上から離れて、三メートルくらい距離を取った。剣に手をかけていた。反射的に。
顔が真っ赤だった。耳も。首まで。
「っ——何をしている!」
「こけただけだ! こけただけ!」
「ならさっさと立て!」
「立ってる! もう立ってる!」
二人とも立っていた。三メートル離れて。雨の中。ずぶ濡れで。
しばらく沈黙があった。
雨の音だけが響いていた。
「……帰るぞ」ルティアが言った。
「ああ」
「走るぞ」
「ああ」
「ついてこい」
ルティアは走り出した。速かった。さっきより速い気がした。逃げるみたいに走っていた。
俺も走った。
―――――
集落に戻ると、シアが宿舎の入り口に立っていた。
ずぶ濡れの俺と、ずぶ濡れのルティアが並んで帰ってきたのを見て、シアの目が一瞬だけ細くなった。
「雨宿りしてたの」
「ああ。豪雨で動けなくて」
「二人で」
「二人で」
「……ふーん」
シアの「ふーん」が怖かった。
リーナが奥から出てきた。タオルを二枚持っていた。
「大変でしたね。はい、タオル」
「ありがとう、リーナ」
ルティアにもタオルを渡した。ルティアは少し固まって、それからタオルを受け取った。
「……ありがとう」
「風邪ひかないように、早く着替えてくださいね」
「ああ」
ルティアは早足で自分の部屋に向かった。振り返らなかった。
レナが廊下から「おかえりー」と声をかけた。ルティアは無視して部屋に入った。扉がバタンと閉まった。
レナが俺を見て、にやっと笑った。
「何かあった?」
「何もない」
「嘘」
「何もないって」
「カイン、顔赤いよ」
「走ったからだ」
「ルティアも赤かったけど」
「走ったからだろ」
「二人とも同じ言い訳するんだね」
レナはけらけら笑った。
シアが俺の横に来た。何も言わずに立っていた。でも存在感が重かった。
「シア?」
「別に」
「何か言いたそうだけど」
「別に何もない」
シアは自分の部屋に戻っていった。足音がいつもより強かった。
……なんかまずいことになってる気がする。
リーナだけが変わらずにこにこしていた。
「カインさん、お風呂沸いてますよ」
「ありがとう」
「ルティアさんにも伝えてきますね」
リーナは嵐の後の太陽みたいだった。この子がいないとこの場は崩壊する。
―――――
夜、一人で灯火を見ていた。
雨が上がった空に、星が出ていた。
ルティアの母のことを考えていた。八歳で母を失って、剣を握って、一番強くなって。それでも父が倒れたとき、何もできなかった。
ルティアがどれだけ一人で戦ってきたか。
足音がした。
ルティアだった。
着替えていた。いつもの鎧じゃなく、黒い上衣と長い袴。部屋着だろう。髪を下ろしていた。いつもは一つにまとめている髪が、背中に流れている。
「眠れないのか」
「……ああ。少し」
「そうか。私もだ」
ルティアは灯火から少し離れた場所に立った。今日の雨宿りの距離感を思い出しているのか、微妙に俺から距離を取っていた。
「……昼間のことだが」
「ああ」
「忘れろ」
「どっち? お母さんの話? それとも——」
「全部だ」
「お母さんの話は忘れたくない。大事な話だった」
ルティアが俺を見た。
「……大事な話、か」
「ルティアのことを、もっと知りたいと思った。それは忘れない」
ルティアは黙った。
灯火の光が、ルティアの髪を照らしていた。黒い髪に、白と紫の光が映っている。
「……もう一つの方は」
「もう一つ?」
「こけて……その……」
「ああ、あれは——」
「あれは事故だ。忘れろ。絶対に忘れろ」
「わかった」
「本当に忘れろ」
「忘れる」
「…………」
「…………」
「……本当に忘れるのか」
その声が、ほんの少しだけ、寂しそうに聞こえた。
……え? 今の、忘れてほしいの? ほしくないの? どっち?
「……ルティア?」
「何でもない。おやすみ」
ルティアは背を向けて、早足で歩いていった。
髪が揺れていた。
俺は一人で灯火の前に立っていた。
「忘れてほしくない」か。
……難しい奴だな、ルティアは。




