■ 第41話「族長の娘」
三日後の朝、訓練場に行って目を疑った。
巨大な男が剣を振っていた。
上背は俺より頭二つ分は上。腕が丸太みたいに太い。背中の筋肉が鎧の下から盛り上がっている。漆黒の角が後方に反って、朝日を受けて光っていた。
ヴァルドだった。
三日前まで寝台で起き上がることすらできなかった男が、訓練場で大剣を振り回していた。
俺が呆然としていると、ヴァルドがこちらに気づいた。大剣を肩に担いで歩いてきた。地面が揺れる気がした。
俺の前に立った。見上げる形になった。
ヴァルドが膝をついた。
「魔王様。トーラの族長、ヴァルド。命の灯火を賜り、娘を支えてくださり、この老体まで癒してくださった。この恩、一生忘れません」
「頭を上げてください。立ってるだけで首が痛いので」
ヴァルドが顔を上げた。豪快に笑った。
「娘が『変な奴だ』と言っていた意味がわかった」
「お父さんもルティアと同じこと言うんですね」
「血は争えん」
ヴァルドは立ち上がって自分の腕を見た。隆々とした筋肉が鎧の隙間から見えた。
「リーナ殿に回路を修復していただき、命の灯火の息吹で三日で立ち上がった。一週間かかると聞いていましたが、この通りです。半年前より——いや、十年前より調子がいい」
「命の灯火の効果は想定以上でした」
「想定以上どころではない。私が走り回っているのを見て、民が腰を抜かしていた」
ヴァルドは豪快に笑った。それから、真剣な顔になった。
「カイン殿。一つ、頼みがある」
「何ですか」
「今日一日、娘を休ませてやってほしい」
「休ませる?」
「あの子は半年間、一日も休んでいない。族長代理として、毎朝素振りをして、民の相談を受けて、偵察を出して、食料の配分を決めて、夜は見回りをして。私が倒れてから一度も、あの子は自分のための時間を使っていない」
ヴァルドの深紅の瞳が、穏やかだった。
「私が戻った。もう背負わなくていい。でもあの子は、言わなければ休まない。誰かが連れ出してやってくれ」
「俺が、ですか」
「あなたの言うことなら、あの子は聞く」
「聞きますかね」
「聞く。父親にはわかる」
―――――
ルティアは訓練場にいた。当然のように素振りをしていた。
「ルティア」
「何だ」
「今日、集落の周りを案内してくれないか。森の中を見たい」
ルティアの素振りが止まった。
「なぜ私が」
「トーラの森を一番知ってるのはルティアだろ」
「案内役なら他にもいる」
「ルティアがいい」
ルティアが俺を見た。白銀の髪に木漏れ日が落ちている。少し怪訝な顔だった。
「……何を企んでいる」
「何も企んでない」
「嘘をつくな。お前は理由もなく人を誘ったりしない」
鋭い。
「じゃあ正直に言う。ヴァルドさんに頼まれた。お前を一日休ませてやってくれって」
ルティアの表情が、一瞬だけ揺れた。
「……父上が」
「半年間一日も休んでないだろうって」
「休む必要はない。族長代理として——」
「族長が戻った。もうお前は代理じゃない」
ルティアが黙った。
剣を握る手が、少し緩んだ。
「……一日だけだ」
「十分だ」
―――――
二人で森に入った。
シアが「私も行く」と言いかけたが、リーナがシアの袖を引いた。小声で何か言った。シアが少し不満そうな顔をしたが、黙って引き下がった。
リーナ、ありがとう。
森の中は静かだった。巨大な木々の間を、息吹の霧が漂っている。命の灯火ができてから、霧が濃くなっていた。紫がかった光が、木漏れ日に混じっている。
「綺麗だな」
「当然だ。トーラの森は魔族領で一番美しい」
「自信あるな」
「事実だ」
ルティアは先を歩いていた。足取りが軽かった。訓練場にいるときの緊張感がない。森の中だと、少しだけ肩の力が抜けているように見えた。
「ルティアはこの森で育ったのか」
「ああ。生まれてからずっとここだ。この木も、この道も、全部覚えている」
ルティアは大きな木の幹に手を触れた。
「この木は私が生まれた年に父上が植えた。私と一緒に育った」
「でかくなったな」
「私もだ」
「まあ、強くなったな」
「それだけか」
「他に何がある」
「……何もない。忘れろ」
ルティアはさっさと歩き出した。耳が少し赤かったが、暗い森の中でよく見えなかったことにした。
―――――
森の奥に、小さな泉があった。
木々の隙間から光が差し込んで、水面がきらきら光っていた。息吹が水に溶けて、薄い紫の光を帯びている。
「ここは」
「私の場所だ」
ルティアは泉のほとりに座った。鎧の留め具を外して、肩当てを取った。その下は薄い黒の上衣だった。首筋が見えた。
「子どもの頃から、ここに来ていた。誰にも教えていない場所だ」
「俺に教えていいのか」
「…………」
ルティアは答えなかった。泉を見ていた。
俺は隣に座った。少し距離を空けて。
水の音だけが聞こえた。
「……父上が倒れた日」ルティアが口を開いた。「ここに来て泣いた。一度だけ」
「一度だけ?」
「一度だけだ。その後は泣かなかった。泣いている暇がなかった。翌日から族長代理になった」
ルティアは水面を見ていた。
「毎朝、素振りをした。民の前に立った。偵察を出した。食料を分けた。子どもが減っていくのを数えた。戦士が弱っていくのを見た。何もできなかった。できることは剣を振ることと、顔を険しくすることだけだった」
俺は黙って聞いていた。
「険しい顔をしていれば、民が不安にならないと思った。族長代理が弱い顔を見せたら、集落が崩れる。だから——」
ルティアは自分の手を見た。
「ずっと、力を入れていた。剣の柄を握るみたいに。顔も、声も、全部」
「疲れただろ」
「……疲れた」
小さな声だった。初めて聞く、力の抜けたルティアの声。
「もうすぐ半年だった。あと少しで限界だったと思う。民の前で崩れるか、ここで一人で壊れるか。そのどちらかだった」
「でも壊れなかった」
「お前が来たから」
ルティアが俺を見た。
深紅の瞳が、泉の光を映していた。
「灯火が来て、リーナが父を治して、お前が——」
言葉が止まった。
「俺が?」
「……お前が、いた」
小さかった。
「お前がいたから、崩れなかった。それだけだ」
俺は何を言えばいいかわからなかった。
「ルティア」
「何だ」
「もう一人で背負わなくていい」
「知ってる。父上にも言われた」
「俺からも言う。もう一人で背負うな」
ルティアは黙った。
泉を見ていた。
「……お前に言われると」
「うん」
「……なんか、腹が立つ」
「え、なんで」
「わからない。腹が立つ」
ルティアは立ち上がった。顔がほんのり赤かった。
「帰るぞ。長居しすぎた」
「まだ昼だぞ」
「昼でも帰る」
「せっかくの休みなのに」
「お前と二人でいると落ち着かない」
言ってから、ルティアが固まった。
自分が何を言ったか気づいた顔だった。
「……今のは」
「聞こえた」
「聞くな」
「聞こえたものは聞こえた」
「忘れろ」
「忘れられない」
ルティアが俺を睨んだ。でも目が怒っていなかった。困っていた。自分の感情の扱い方がわからないという顔だった。
シアと同じ顔だ、と思った。
「帰ろう」俺は立ち上がった。「帰り道、他に見せたい場所があったら寄っていいぞ」
「……ない」
「本当に?」
「…………ある」
「じゃあ寄ろう」
ルティアは黙って歩き出した。
少し歩いたところで、ルティアが振り返らずに言った。
「この泉のこと、誰にも言うなよ」
「言わない」
「絶対だ」
「絶対だ」
「……特にシアとリーナには」
「なんであの二人が名指しなんだ」
「うるさい。黙って歩け」
ルティアはさっさと歩いていった。
耳が赤かった。
暗い森の中でも、はっきり見えるくらいに。




