■ 第40話「目覚め」
■ 第40話「目覚め」
その日の夜遅くだった。
赤ちゃんの名前が「灯」に決まって、集落が温かい空気に包まれていた夜。
産婆が宿舎に走ってきた。
「ルティア様! 族長が! 目を——」
ルティアは走った。
俺が今まで見た中で、一番速かった。木の上から降ってきたときより速かった。剣を鞘に収める動作すら省いて、片手に剣を持ったまま走った。
俺たちも後を追った。
部屋の前に着いたとき、ルティアはもう中にいた。
扉が開いていた。
中が見えた。
―――――
ヴァルドが、目を開けていた。
半年ぶりに。
寝台の上で、ゆっくりと首を動かしていた。灰色だった顔色に、少しだけ血の色が戻っていた。目の焦点が、ぼんやりと部屋を泳いでいた。
ルティアが寝台の横に膝をついていた。父親の手を、両手で握っていた。
「父上」
ヴァルドの目が、ルティアに止まった。
しばらく、焦点が合わなかった。
ゆっくりと、瞼が何度か瞬いた。
「……ルティア」
掠れた声だった。半年間使っていなかった喉から出た、かすかな声。
「はい」
「……大きく、なったな」
ルティアの肩が、震えた。
「半年です。半年しか経っていません」
「そうか……半年か」
ヴァルドの目が、部屋を見回した。窓から入る光を見た。
「……明るいな。息吹が、濃い」
「命の灯火です。魔王が、集落に灯してくれました」
「魔王……?」
「はい。人間の、魔王です」
ヴァルドの目が少し動いた。理解が追いついていないようだった。半年間眠っていたのだから当然だ。
「……人間の、魔王」
「話すと長くなります。後で全部説明します。今は——」
ルティアの声が、詰まった。
「今は、起きてくれたことが——」
言葉が続かなかった。
ヴァルドの手が、ゆっくりと動いた。痩せた指が、ルティアの頭に触れた。黒い髪の上に、大きな手のひらが乗った。
「……よく、守ったな。トーラを」
その一言で、ルティアが崩れた。
声は出さなかった。唇を噛んで、必死に堪えていた。でも肩が震えていた。目から涙が溢れていた。止められなかった。
族長代理の顔が、消えていた。
父親の前でだけ見せる、ただの娘の顔があった。
「ごめんなさい……父上が倒れてから、私、ずっと……」
「謝るな」ヴァルドの声は弱かったが、はっきりしていた。「お前は謝ることなど何もしていない」
「でも、子どもが減って……民が疲れて……私一人じゃ何もできなくて……」
「お前一人で、半年間守ったのだろう」
「守れてなんか——」
「守った」ヴァルドの手が、ルティアの頭を撫でた。弱い力だった。でも確かに、撫でていた。「お前は立派に守った。父として、誇りに思う」
ルティアが声を上げて泣いた。
半年間、一度も泣かなかった娘が。
族長代理として、一人で集落を背負って、弱さを見せず、泣かなかった娘が。
父親の手の下で、子どものように泣いていた。
―――――
俺たちは廊下にいた。
扉は閉めていた。
中から泣き声が聞こえていた。
リーナが目を拭いていた。レナも目元が赤かった。シアは無表情だったが、俺の袖を掴んでいた。力が強かった。
しばらく、誰も何も言わなかった。
泣き声が、少しずつ小さくなっていった。
―――――
夕方、ルティアが部屋から出てきた。
目は赤かった。でも顔は、トーラに来てから一番穏やかだった。
俺たちが廊下に立っているのを見て、少し固まった。
「……いたのか」
「いた」
「どれくらい」
「最初から」
ルティアの顔が、みるみる赤くなった。
「聞いてたのか」
「扉越しだから細かくは聞こえてないよ」
「嘘をつくな。泣き声が聞こえてただろう」
「まあ」
「……最悪だ」
ルティアは顔を手で覆った。
レナが小声で「かわいい」と言った。ルティアが「黙れ」と唸った。
リーナがそっと近づいた。
「ヴァルド様、お元気そうでしたか?」
ルティアは手を下ろした。リーナを見た。
「……元気とは言えない。まだ起き上がれない。でも意識がはっきりしてる。話ができる」
「それなら順調です。魔力が満ちていけば、少しずつ動けるようになります」
「どれくらいかかる」
「一週間もあれば、起き上がって歩けるようになると思います。命の灯火がありますから」
ルティアはリーナを見た。
三日間、毎日父親の治療をしてくれた人間の聖女。隈を作りながら、一日も休まずに。
「リーナ」
「はい」
「……父が、礼を言えと言っていた。自分の声ではまだうまく言えないから、娘に代わりに言えと」
「そんな、お礼なんて——」
「だから代わりに言う」
ルティアは真っ直ぐリーナを見た。深紅の瞳が、真剣だった。
「ありがとう。父を返してくれて」
リーナの目が潤んだ。
「……はい。よかったです。本当に」
―――――
夜、広場の命の灯火の前にいると、ルティアが来た。
隣に立った。
腕は組んでいなかった。珍しく、両手が体の横に下がっていた。武装が解けた姿だった。
「カイン」
「ん」
「父が目を覚ました」
「ああ」
「灯火を作ってくれたから。リーナが治してくれたから」
「うん」
「私一人じゃ、どうにもできなかった」
ルティアは灯火を見ていた。
「半年間、ずっと思っていた。私が強ければ。私がもっと力があれば。一人でなんとかできたはずだって」
「一人でなんとかする必要はないだろ」
「トーラは誇り高い一族だ。外に頼ることは——」
「誇りで民が救えるか」
ルティアが俺を見た。
怒るかと思った。でも怒らなかった。
「……救えない。わかってる。わかっていて、それでも頼れなかった。頼り方がわからなかった」
その言葉が、誰かに似ていると思った。
シアだ。「行き方がわからなかった」と言ったシアに。
「ルティア」
「何だ」
「頼っていいんだよ。誰かに。俺でもいいし、リーナでもいいし、レナでもいい」
「……慣れてない」
「慣れなくていい。頼りたいときに頼ればいい」
ルティアは黙った。
灯火の光が、ルティアの横顔を照らしていた。いつもの鋭い顔ではなかった。剣を下ろした、素の顔だった。
「……お前は、なぜそうなんだ」
「何が」
「誰にでも手を差し伸べる。困ってる奴がいたら助ける。裏がない。見返りもない。そんな奴、見たことがない」
「前も言ったろ。そういう奴だってだけだ」
「お前、自分のことまだ人間だと思ってるのか」
俺は少し止まった。
「……どういう意味だ」
「角が生えている。息吹を恵みとして取り込んでいる。魔族の王として民を守っている。魔族のために灯火を作った。魔族の集落に住んで、魔族の子どもに慕われている」
ルティアは俺を見た。
「見た目も、やることも、心も。全部魔族だ。お前はもう、人間じゃないだろう」
俺は黙った。
ルティアの言葉が、胸の中に落ちていった。
人間か魔族か。ムルトゥスは「人間でも魔族でもない新しい何か」と言った。俺自身も、ずっとわからないまま過ごしてきた。
でもルティアの言葉は違った。理屈じゃなく、目の前の事実を並べただけだ。お前がやってきたことを見ろ、と。
「……魔族、か」
「違うのか」
「わからない。ずっとわからなかった。でも」
深い碧の瞳を閉じた。この瞳の色は人間のものか、魔族のものか。自分の角に触れた。根元が白くて、先が水色の、小さな角。
「お前にそう言われると、そうなのかもしれないな」
「かもしれない、じゃない。そうだ」
ルティアの声に、迷いがなかった。
「少なくとも私はそう思う。お前は魔族だ。人間の体で生まれたかどうかなんて、関係ない」
その言葉が、胸の一番深いところに落ちた。
ムルトゥスの「新しい何か」より、グラザードの「規格外」より。
ルティアの「お前は魔族だ」が、一番まっすぐだった。
ずっと、どこかで怖かった。
人間に捨てられた。糞尿をかぶせられて、仲間に裏切られて、息吹帯に放り込まれた。人間として生きてきた三十年が、あの日に全部否定された。
魔族に拾われた。壁を作って、土地を取り戻して、魔王になった。みんなが「魔王様」と呼んでくれた。でも心のどこかで、ずっと思っていた。俺は本当にここにいていいのか。人間の体で生まれた俺が、魔族の王を名乗っていいのか。
宝玉で角が生えた。でも角があるから魔族、というわけでもない。ムルトゥスは「新しい何か」と言った。優しい言葉だったけど、それは「魔族ではない」という意味でもあった。
ルティアは違った。
理論でもなく、優しさでもなく、ただ目の前の事実を見て言った。
お前の角は魔族の角だ。お前の見た目はもう魔族のそれだ。お前のやってきたことは魔族のそれだ。お前の心は魔族のそれだ。だから魔族だ。生まれなんて関係ない。
——ああ、そうか。
俺は、これが欲しかったのかもしれない。
「新しい何か」でもなく、「人間でも魔族でもない存在」でもなく。ただ「お前は魔族だ」と、迷いなく言ってくれる誰かが。
初めて会ったときに「気持ちが悪い」と言った奴が、今は「お前は魔族だ」と言っている。その変化の重さが、そのまま言葉の重さだった。
目の奥が、少し熱くなった。泣きはしない。でも、近かった。
俺は少し笑った。笑ったのは、泣きそうだったからだ。
ルティアが俺をちらっと見た。
「笑うな」
「笑ってない」
「笑ってた」
「少しだけ」
「……ふん」
ルティアは前を向いた。
灯火の光の中で、深紅の瞳が少しだけ柔らかく見えた。
少しだけ。
でも確かに。




