■ 第4話「共鳴」
朝が早かった。
夜明け前に扉を叩かれた。半分寝たまま開けた。
少女が立っていた。
小柄だった。俺の胸くらいの背丈。真白のショートボブが顎のラインで揃っている。銀色の瞳。冷たくて、透き通っていた。白い角が二本、額から伸びている。肌が白い。華奢な身体。術式書を一冊抱えていた。
整った顔だった。ルナリアとは違う綺麗さ。ルナリアが月なら、この子は雪。触れたら溶けそうな、冷たい綺麗さ。
「シアといいます。ムルトゥス様の弟子で、予言の守り手です」
「カイン。カイン・アーヴェルだ」
「知っている。——訓練を始める。来い」
それだけ言って歩き出した。
―――――
訓練場。石畳の広場。的や杭が並んでいる。朝霧が残っていた。
「あなたの封印術を見せてもらう」
「何をすればいい」
「あの的に封印術をかけろ。普通にやっていい」
術式を展開した。紋様が宙に浮かぶ。的に向けて解き放つ。薄い光の膜が的を包んだ。
シアが近づいて、光の膜を指先でなぞった。
「……思ったより複雑な構造だ」
「人間の術師には地味だって言われてたけどな」
「地味?」シアが俺を見た。「この術式のどこが地味なんだ」
「封印と結界しかできない。攻撃魔法は使えない」
「……人間の術師は馬鹿なのか」
さらっと言った。
「この術式、息吹と組み合わせれば——」
シアが言いかけて、止まった。銀色の瞳が光った。
「試す。今すぐ」
「何を」
「息吹を術式に通してみろ」
「息吹を?」
「昨日ムルトゥス様が確認した。お前の魔力は息吹と共鳴している。なら——封印術に息吹を混ぜられるはずだ」
「やり方がわからない」
「手を出せ」
シアが俺の手を取った。小さな手だった。冷たかった。
「空気中の息吹を感じろ。温かいだろう」
「……ああ。温かい」
「その温かさを、手のひらに集めろ。封印術を展開するように。でも対象は的じゃない。息吹そのものだ」
目を閉じた。
手のひらに意識を集中した。温かさを感じた。息吹。大地の恵み。人間にとっての毒が、魔族にとっての命。
術式を動かした。結界を張るように。封印をかけるように。でも対象は息吹に向けて。
——何かが動いた。
手のひらの上で、息吹が渦を巻いた。霧が集まり、圧縮され、淡く光った。
白と紫の光。
人間の魔力の色じゃなかった。息吹の色だった。
「——っ」
シアの手が震えた。
俺の手を握ったまま。震えていた。
目を開けた。シアの顔を見た。
——凍りついていた。
銀色の瞳が見開かれていた。唇が微かに開いていた。呼吸が止まっていた。
予言の守り手。百年間、予言が本物かどうかを見守ってきた役職。シアはその最後の一人だった。
百年間、誰も来なかった。予言を信じて、待ち続けた。でも誰も来なかった。
——今、目の前で、予言が証明された。
「……本物だ」
シアの声が掠れていた。
「予言が言っていた。『人の術が我らの霧と交わるとき、光が生まれる』——今のがそれだ」
「シア——」
「黙れ。もう一回やれ」
もう一回やった。息吹が渦を巻いた。白と紫の光。
シアの目から——涙がこぼれた。
一滴だけ。銀色の瞳から。頬を伝って、顎から落ちた。
シアはすぐに手で拭った。何事もなかったように。
「……予言は本物だった」
「シア——」
「百年待った甲斐があった」
声が震えていた。顔は無表情に戻していた。でも声だけは隠せなかった。
「——お前は本当に救世主だ。疑っていた。正直に言う。昨日まで疑っていた。人間が救世主なんて、信じられなかった」
「……」
「でも今——信じた」
シアが俺の手を離した。背を向けた。
「訓練を続ける。レナを呼んでくる」
歩き出した。足取りが少しだけ不安定だった。
——泣いていた。予言の守り手が。百年間待ち続けた少女が。
―――――
レナが来た。欠伸をしながら。
「あー、訓練場ここだっけ」
のんびりした声。眠そうな目。でも腰に大きな片手剣を下げていた。鍛え上げられた身体。明るい茶色の髪を無造作に括っている。拳大の角が外側に湾曲していた。
——美人だった。
ルナリアとも、シアとも違うタイプ。目元が垂れていて、どこか眠そう。でも目鼻立ちがはっきりしていて、笑ったら絶対かわいい顔。
ルナリアが綺麗。シアが綺麗。レナも綺麗。グラザードもかっこいい。
——魔族って全員顔が整っているのか。醜悪どころの話じゃない。人間の国の貴族より整っている。教会は何を教えていたんだ。
「グラザード様に訓練の相手しろって言われてきた」
「よろしく。カインだ」
「レナ。覚えた。——とりあえずやり合う?」
三回やって三回負けた。結界を張る前に間合いに入られる。
「うん、弱い」
悪意のない感想だった。
「知ってる」
訓練場の端に、子どもが一人座っていた。いつからいたのかわからない。男の子。六歳か七歳くらいだろうか。膝に包帯を巻いている。じっとこちらを見ていた。おとなしく。声もかけずに。
「あの子は」
「テオだよ。集落の子。二年前に両親を亡くしてる」レナが小声で言った。「訓練場によく見に来るんだ。戦士に憧れてるんだと思う」
テオはずっと見ていた。俺が負けるのも、立ち上がるのも、全部。
「でも結界はいいね。あたしの斬撃、ちゃんと止めてた。もう少し速く張れたら全然違う」
「それが難しい」
「鍛えよう。あたしが教える」
休憩に入った。ベンチに座った。
テオが走ってきた。もうおとなしくしていられなかったらしい。
「すごかった! 光がばーってなった!」
「負けたんだけどな」
「でも光すごかった! カインっていうの?」
「ああ。カインだ。お前は?」
「テオ!」
「テオか。膝、どうした」
「転んだ。でも平気!」
包帯がずれていた。外してみた。擦り傷。血が滲んでいた。
——さっきシアに教わったばかりだ。息吹を手のひらに集める。
やってみた。手をテオの膝にかざした。温かい光。白と紫。息吹がテオの傷に染み込んでいく。
傷が——塞がった。血が止まった。擦り傷の赤みが消えていく。
「……すごい! 痛くない!」
テオが膝を見て目を丸くした。
「覚えたばっかりだから、大きい怪我は無理だけどな」
「すごいすごい! カインすごい!」
「パーティー?」
「昔の話だ。——テオ、毎日ここに来てるのか」
「うん! 強い人を見るのが好き!」
「俺は弱いぞ」
「でも立ち上がった。三回負けて三回立った。——父ちゃんもそうだった」
テオの声が少しだけ小さくなった。すぐに元に戻った。
「カイン、友達になって!」
「……いいよ」
「やった!」
テオがぱあっと笑った。
―――――
訓練が終わった夕方。レナが隣を歩いていた。
「カインって王国から追放されたんだって?」
「仲間に嵌められた」
「ふーん。人間ってそういうことするんだね」
「するやつはする」
「魔族はしないよ。仲間を売るのが一番嫌われる」
さらっと言った。でもその言葉は胸に刺さった。
「カイン、強くなる気ある?」
「ある」
「じゃあ本気で教える。グラザード様に命令されたからじゃなくて、あたしが決めたから」
レナが笑った。いい笑顔だった。
「なあ、レナ。一つ聞いていいか」
「ん?」
「この集落のみんな、驚くほど顔が整ってるんだけど。ルナリアさんも、シアも、レナも。グラザードさんも。——魔族って、みんなそうなのか」
「あはは。人間にそう見えるの? あたしたちにとっては普通だけどな」
「人間のように老けていかないのか?」
「ああ、それね。魔族は十二歳くらいで大人の身体になるんだよ。成長が速いの。十二歳で成人の見た目になって、そこから百五十歳くらいまでずっとそのまま。百五十を超えたあたりから少しずつ老いていく。寿命は二百歳くらい」
「十二で大人の見た目に……」
「そう。グラザード様も十二であの見た目になってる。そこから三十年近く変わってない」
「百五十歳まで見た目が変わらない……」
「ガラばあちゃんとムルトゥス様は百五十を超えてるからお歳が出てるけど、それ以外はみんな若く見えるでしょ」
「グラザードさんは見た目二十代だけど」
「実際は四十過ぎだよ。二十三年間総司令やってる」
「……まじか」
「まじまじ。——で、カインは歳いくつ?」
「十八」
「あたし十九。一個上だね」
「……見えない」
「見た目止まってるからね。——シアちゃんは十七だよ」
「十七!?」
「どうしたの」
「いや——子どもだと思ってた。小さいから」
「ああ。シアちゃん、小さいよね。でもあれが大人の身体だよ。魔族は十二で止まるから、十七も十二もそこまで変わらない子はいるんだよね。シアちゃんは特に小柄で」
「人間の学校にいたら、クラスで一番背が低い子って感じだった」
「あはは、それ本人に言ったら殺されるよ」
「言わない」
「言うなよ絶対」
——十七歳。俺と一つしか違わない。
あの冷たい目。あの無表情。あの命令口調。全部、十七歳の少女がやっていた。
予言の守り手を一人で背負って。百年間の重みを一人で抱えて。
——すごい奴だな。
―――――
夜。みんなが寝静まった後、俺は訓練場に戻った。
一人で。
月明かりの下、封印術を繰り返した。展開、定着、解除。何度も何度も。
レナに三回負けた。展開速度が足りない。
もう一回。展開。遅い。もう一回。まだ遅い。
手首の包帯に血が滲んだ。構わなかった。
三年間、足手まといと呼ばれ続けた。嘘だったとシアが言った。なら証明しなきゃいけない。
もう一回——
「カイン」
小さな声。テオが訓練場の入り口に立っていた。パジャマ姿。
「なんでこんな時間に」
「トイレに起きたら、カインがいないから。探した」
「……わざわざ探してくれたのか」
「なんで一人で練習してるの?」
「ここの人たちを守れるくらい、強くなりたいから」
テオはまっすぐ俺を見た。
「カイン、もう十分強いよ」
「強くないよ。レナに三回負けた」
「でも昨日、俺の膝を治してくれた。血が出てて怖かったけど、カインが来たら怖くなくなった」
「……」
「カインは、父ちゃんに似てる」
胸が詰まった。二年前に両親を失った子ども。泣かないと決めた子。
膝をついてテオと目線を合わせた。
「テオ。俺、絶対強くなるよ。テオも、この集落のみんなも、守れるくらいに」
「俺も手伝う! 的を動かしたりする!」
「明日の朝にしよう。テオはもう寝ろ」
「えー」
「寝ろ。膝の傷、ちゃんと治さないと」
テオが走り去った。「明日の朝、絶対だよ!」と言い残して。
俺は一人で訓練場に残った。
もう一回だけ。
展開。——前よりほんの少しだけ、速かった気がした。
―――――
宿舎に戻る途中。
建物の角に白い衣の端が見えた。
シアだった。いつからいたのかわからない。
声をかけようとして、やめた。
シアは暗がりの中で、じっと訓練場の方を見ていた。銀色の瞳が月明かりを映して揺れていた。
俺は気づかないふりをして、宿舎に入った。
ベッドに倒れ込んだ。全身が痛い。
でも——今日、シアが泣いた。予言が本物だったと。
今日、レナが「本気で教える」と言ってくれた。
今日、テオが「父ちゃんに似てる」と言ってくれた。
守りたいものが、できたな。




