■ 第39話「産声」
トーラに来て三日目の朝、騒ぎが起きた。
夜明け前に叩き起こされた。宿舎の前にトーラの女性が立っていた。息を切らしていた。
「リーナ様! リーナ様はどこですか!」
リーナが飛び起きて出てきた。髪がぼさぼさだった。
「どうしました?」
「妹が——妹の陣痛が始まって——」
リーナの目が変わった。寝起きの顔が、一瞬で聖女の顔になった。
「案内してください」
走り出した。俺も後を追った。
―――――
家の中に入ると、若い女性が寝台で苦しんでいた。お腹が大きい。汗が額を伝っている。横にトーラの産婆がいたが、顔が青かった。
「逆子です」産婆が言った。「このままでは——」
「見せてください」
リーナが寝台の横に座った。妊婦のお腹に手を当てた。淡い光が手のひらから滲んだ。
目を閉じた。
「……赤ちゃんの位置がわかります。確かに逆子ですが、まだ回せます」
「回せる?」
「癒しの力で、赤ちゃんの身体をゆっくり回転させます。痛みはほとんどありません」
産婆が目を見開いた。
「そんなことが——」
「できます。やらせてください」
リーナの手が光った。妊婦のお腹の上を、ゆっくりと撫でるように動いていく。
時間がかかった。五分。十分。妊婦の顔が少しずつ楽になっていった。
「回りました」リーナが言った。「大丈夫。正常な位置に戻ったはずです」
産婆がお腹を触って確認した。
「本当だ……頭が下になってる」
リーナは妊婦の手を握った。
「あとは赤ちゃんが自分で出てきます。大丈夫ですよ。元気な子です」
妊婦が泣きそうな顔で笑った。
「ありがとう、ございます」
―――――
産声が聞こえたのは、朝日が昇った頃だった。
力強い声だった。
家の外で待っていた俺とシアとレナに、その声が届いた。
しばらくして、リーナが出てきた。汗だくだった。でも顔が笑っていた。
「女の子です。元気な子です」
リーナの目が潤んでいた。
「泣き声が、すごく大きかった。産婆さんが言ってました。こんなに力強く泣く子は何年ぶりかって」
俺はリーナを見た。
「お疲れ様」
「いえ、私は少し手伝っただけで。赤ちゃんとお母さんの力です」
リーナはそう言って、少し照れたように笑った。
―――――
赤ちゃんを見に行った。
産婆に許可をもらって、そっと部屋に入った。
母親が赤ちゃんを抱いていた。小さな命が、母親の腕の中で眠っていた。
小さかった。でも、顔色が良かった。肌に血の色が通っている。
そして——額に、小さな突起が二つあった。角の芽だ。生まれたばかりなのに、もう角が芽吹いている。
「角が、もう出てる」俺は小声で言った。
産婆が頷いた。
「普通は角が見えるまで数ヶ月かかります。生まれた瞬間から芽が出ているのは、私の長い経験でも初めてです」
「命の灯火のおかげだ」シアが小声で言った。「母体に十分な息吹が供給されていたから、胎児の段階で角の形成が進んでいた」
母親が俺を見た。
白銀の髪に水色の角。母親が俺を見上げた。
「魔王様、ですか」
「はい」
「魔王様。あの光がなかったら、この子は——」
母親の声が震えた。
「光が来る前は、お腹の中で赤ちゃんが動かない日がありました。不安で眠れない夜がありました。でもあの光が来てから、赤ちゃんが毎日動くようになって。蹴るのが強くなって。この子は大丈夫だって、思えるようになりました」
赤ちゃんが小さな声を上げた。母親が優しく揺らした。
「ありがとうございます。この子の命を、ありがとうございます」
俺は何も言えなかった。
ただ、その小さな命を見ていた。
これだ、と思った。
壁を作ったのも、土地を取り戻したのも、命の灯火を灯したのも。全部、この瞬間のためだった。
―――――
部屋を出ると、廊下にルティアが立っていた。
壁に背を預けて、腕を組んでいた。いつもの姿勢だった。
でも目が赤かった。
「ルティア」
「何だ」
「泣いたのか」
「泣いてない」
「目が赤い」
「朝が早かったからだ」
俺はそれ以上聞かなかった。
ルティアは腕を組んだまま、小さく言った。
「……産声が聞こえた」
「聞こえたな」
「あんなに力強く泣く子を、この集落で聞いたのは初めてだ」
「命の灯火のおかげだと思う」
「わかってる」
ルティアは少し黙った。
「トーラで最後に子どもが生まれたのは、二年前だ。その子は生まれたとき泣かなかった。声が出なかった。息吹が足りなくて、身体が弱くて」
「……その子は」
「生きてる。でも他の子より小さくて、すぐ熱を出す。母親がずっと心配してる」
ルティアの声は平坦だった。でも、その平坦さを保つのに力がいっているのがわかった。
「今日生まれた子は違った。泣き声が大きかった。角の芽がもう出ていた。顔色が良かった。強い子だった」
「ああ」
「……お前のおかげだ」
小さかった。最後の一言だけ。
俺は少し驚いた。ルティアから「おかげ」という言葉が出るとは思っていなかった。
「俺だけじゃない。リーナが逆子を直してくれた。シアが術式を設計してくれた。みんなの力だ」
「……そうか」
ルティアは壁から背を離した。歩き出した。
二歩目で立ち止まった。振り返らなかった。
「二年前に生まれた子——ナリアっていう。あの子も、命の灯火があれば強くなるか」
「なると思う。息吹が十分にあれば、身体が少しずつ強くなっていく。古傷が治った人もいただろう」
「昨日、十年間引きずっていた足が治った女がいた。走り回ってた」
「それと同じだ。ナリアも少しずつ強くなる」
ルティアは黙った。
それから、小さく頷いた。振り返らないまま。
「……わかった」
歩いていった。
―――――
午後、ヴァルドの治療の三日目だった。
リーナが部屋から出てきたとき、顔が明るかった。
「回路の修復、ほぼ終わりました。あとは息吹が自然に満たしてくれれば、数日で意識がはっきりしてくるはずです」
ルティアが立ち上がった。
「父が——目を覚ますのか」
「もう少し時間はかかります。でも、回路は修復できました。あとは命の灯火の息吹が魔力を満たしてくれるのを待つだけです」
ルティアは部屋に入った。
寝台のヴァルドの顔を見た。
三日前より、顔色が良くなっていた。灰色だった肌に、少し血の色が戻っていた。呼吸も深くなっている。
ルティアは寝台の横に座った。
父親の手を取った。
大きな手だった。かつてはトーラ最強の戦士だった男の手。今は痩せて、力がない。でも温かかった。
「父上」
小さな声だった。
「もうすぐ目が覚めます。目が覚めたら、見せたいものがあります。広場に光の柱が立っています。子どもが走り回っています。今朝、赤ちゃんが生まれました。すごく元気な女の子です。泣き声が大きくて、集落中に聞こえました」
ルティアの声が、震えた。
「父上が守ってきたトーラが、元気になっています。だから——早く起きてください」
俺は廊下にいた。扉の隙間から、ルティアの背中が見えた。
肩が震えていた。
俺は扉を閉めた。静かに。
シアが横に立っていた。何も言わなかった。
リーナも立っていた。目が潤んでいた。
三人で、廊下に立っていた。
扉の向こうから、かすかに、嗚咽が聞こえた。
―――――
夕方、ルティアが広場に来た。
目は赤くなかった。完璧にいつもの顔に戻っていた。
俺の前に立った。
「カイン」
名前で呼ばれたのは、初めてだった。
「魔王」でも「人間」でも「お前」でもなく。
「ん」
「もう少しだけ、トーラにいてくれるか」
「もちろん」
「父が目を覚ますまで」
「いるよ。それくらい」
ルティアは少し黙った。
「……それと」
「ん」
「『気持ちが悪い』は、撤回する。……正式に」
俺は少し笑った。
「もう撤回してなかったか」
「あれは灯火の話だ。これはお前自身の話だ」
ルティアは俺をちらっと見た。深紅の瞳が、ほんの一瞬だけ揺れた。
「お前は——悪い奴じゃなかった」
それだけ言って、歩いていった。
シアが俺の横に来た。
「聞こえた」
「何が」
「名前で呼んだ」
「ああ」
「…………」
シアは何も言わなかった。
ただ、俺の袖をぎゅっと掴んでいた。
―――――
その夜、赤ちゃんの名前が決まったという報告があった。
母親が選んだ名前だった。
灯。
命の灯火の下で生まれた、最初の子ども。
集落の民が広場に集まっていた。命の灯火の光の下で、赤ちゃんを囲んで。
老人が泣いていた。若者が笑っていた。戦士たちが不器用に拍手していた。子どもたちが赤ちゃんの顔を覗き込んで「ちっちゃい!」と叫んでいた。
ルティアは輪の外に立っていた。腕を組んで。いつもの姿勢で。
でもその目が、赤ちゃんを見ていた。柔らかい目だった。族長代理の目じゃなく、ただの女の子の目だった。
命の灯火が、静かに脈打っていた。
心臓みたいに。集落の心臓。
この光の下で、命が生まれた。強い命が。力強く泣く命が。
これが、命の灯火の意味だ。
壁でも、土地でも、戦いでもない。命を繋ぐこと。それが、俺がここにいる意味だった。




