■ 第38話「灯火、南西に」
翌朝、トーラの集落の広場に出た。
広場、と呼ぶには寂しい場所だった。木々に囲まれた小さな空き地に、焚き火の跡が残っている。地面は踏み固められているが、草が疎らに生えていて、あまり人が集まる場所ではないことがわかった。
それでも、民が集まっていた。
百人ほど。全員がこちらを見ていた。警戒の目が多かった。敵意もあった。ヴェルダークに初めて来たときとは全然違う。あのときは「カイン様が連れてきた人間なら」という信頼があった。ここには何もない。
ルティアが民の前に立った。
「魔王を名乗る人間が、灯火とやらを見せるそうだ。見届けろ」
紹介が雑だった。
俺は広場の中央に立った。
シアが横に来た。小声で言った。
「敵意が強い。気をつけて」
「わかってる」
リーナは少し離れた場所に立っていた。人間が二人いることで、民の緊張が高いのが伝わっていた。レナがリーナの横に立って、さりげなく守っていた。
―――――
俺は地面に手をついた。
術式を展開する。命の灯火の構造。放射型の紋様を、地面に刻んでいく。大地の奥から息吹を汲み上げる井戸の構造。自己強化型の循環。
ヴェルダークで作ったときと同じだ。でも、ここは森の中だ。大地の息吹が森の根を通じて繋がっている。もしかしたら——
紋様を広げた。
息吹を引き込む。
来た。
ヴェルダークのときより、速い。森の大地は、百年間人間に荒らされていない。息吹が深い場所にたっぷり残っている。汲み上げるまでもなく、向こうから溢れてくる。
「……すごい」シアが呟いた。「息吹の反応が早い。この森の大地、かなり豊かだ」
紋様が光り始めた。白と紫の光が地面を走る。
民たちがざわめいた。
「何だあれは」
「光が——」
「地面から何かが——」
光が収束した。
広場の中央に、光の柱が立ち上がった。
ヴェルダークのものより、少し大きかった。根元が太く、先端が細い。白と紫の光が心臓のように脈打っている。
そして——息吹が溢れ出した。
波のように広がった。光の柱を中心に、息吹が同心円状に広場を、集落を、森を満たしていく。
空気が変わった。
肌で感じるほど、息吹が濃くなった。木々の葉が揺れた。風もないのに。地面の草が、目に見える速さで伸びていった。
民たちが動けなくなっていた。
誰も声を出さなかった。
老いた魔族の男が、両手を広げた。息吹を全身で浴びるように。目を閉じて、唇が震えていた。
女が子どもを抱き上げた。子どもが笑った。「あったかい!」と叫んだ。
若い男が自分の角に手を触れた。「角が……震えてる。取り込んでる。こんなに濃い息吹は初めてだ」
静寂が、ざわめきに変わった。ざわめきが、歓声に変わった。
―――――
ルティアは動かなかった。
広場の端に立ったまま、光の柱を見ていた。
深紅の瞳が、光を映していた。
民が喜んでいる声が、周りから聞こえてくる。子どもが走り回っている。老人が泣いている。
ルティアは微動だにしなかった。
剣の柄を握る手だけが、白くなっていた。
俺はルティアに近づいた。
「どうだ」
ルティアは俺を見なかった。光の柱を見たまま。
「……これが、命の灯火か」
「そうだ」
「ヴェルダークにも、これがあるのか」
「ある。イルガにも作った」
ルティアは黙った。
長い沈黙だった。
「……民が笑ってる」
「そうだな」
「子どもが走ってる」
「元気だな」
「この集落で子どもが走り回るのを見たのは、いつぶりか覚えていない」
ルティアの声が、少しだけ掠れた。
俺は何も言わなかった。
ルティアは光の柱を見続けた。
「……期待はしないと、言った」
「言ってたな」
「撤回する」
それだけだった。
顔は見せなかった。こちらを向かなかった。声は平坦に戻っていた。
でも剣の柄を握る手が、まだ白かった。
―――――
効果は、時間が経つほど明らかになっていった。
昼前。広場の端で、老いた魔族の男が立ち上がった。杖をついていた男だった。腰が曲がって、ここ数年はまともに歩けなかったという。
男は杖を置いた。
一歩、二歩。ゆっくりと。
三歩目で、杖なしで歩いた。
四歩目で、背筋が伸びた。
男は自分の身体を見下ろした。信じられないという顔だった。
「腰が……痛くない。何年ぶりだ」
周りの民が駆け寄った。男は歩き続けた。歩幅が広くなっていった。やがて、走り出した。老人が走っていた。広場を横切って、木の下まで走って、息を切らして笑っていた。
「走れる! 走れるぞ!」
ガラがいたら「老人が急に走るな」と怒っただろう。でもガラはここにいない。誰も止めなかった。
―――――
同じ頃、集落の戦士たちに異変が起きていた。
トーラの戦士は十五人ほどいた。全員が息吹不足で本来の力を出せずにいた。森の息吹だけでは、戦士が戦える魔力を維持できなかったのだ。
命の灯火が灯ってから二時間。
戦士の一人が訓練場で剣を振った。いつもと同じ素振りのつもりだった。
剣圧で、前方の木が折れた。
戦士は自分の剣を見た。
「何だ今の——こんな力、出したことがない」
別の戦士が術式を展開した。普段は手のひら大の光しか出せない術式が、身体の周り全体を包むほどの光になった。
「魔力が……溢れてくる。角からどんどん取り込んでる。止まらない」
戦士たちが顔を見合わせた。
レナが横で見ていた。目を丸くしていた。
「これ、やばいね。全員が一気に強くなってる」
「息吹が十分に供給されれば、魔族の本来の力が戻る」シアが言った。「トーラの戦士たちは弱かったんじゃない。息吹が足りなくて、力を出せなかっただけだ」
―――――
古傷が治り始めた者もいた。
右足を引きずっていた女性が、昼過ぎには普通に歩いていた。「十年前の戦闘で折れた骨が、ずっとうずいてた。それが消えた」と言っていた。
片目の視力が落ちていた老婆が、「遠くの木の葉が見える」と泣いていた。
息吹が身体に満ちることで、長年かけて蓄積した損傷が、少しずつ修復されていく。リーナの癒しの力のような劇的な回復ではない。でも、息吹が自然に身体を癒していく。本来の魔族の身体は、そうやって自己修復するようにできていたのだ。息吹が足りなかっただけで。
―――――
そしてルティア自身にも、変化があった。
俺は見ていた。朝、広場でルティアが剣の柄を握っていたとき。あの手が白くなっていたのは、感情のせいだけじゃなかったのかもしれない。
午後、ルティアが訓練場の端で剣を抜いた。
素振りを一つ。
空気が裂けた。
文字通り、空気が裂けた。剣圧が地面の土を巻き上げて、五メートル先の木の幹に亀裂を入れた。素振り一つで。
ルティアは自分の剣を見た。
それから自分の手を見た。
角に手を触れた。漆黒の角が、微かに光っていた。息吹を大量に取り込んでいるのだろう。
「……これが、本来の力か」
小さな呟きだった。誰にも聞こえないほどの。
でも俺には聞こえた。
ルティアは強かった。昨日、レナですら反応できなかった速さで木から降ってきた。それは息吹が足りない状態での強さだった。
命の灯火の下での、本来のルティアの強さ。それがどれほどのものか。
レナが俺の隣に来た。小声で。
「カイン、あの子。本気出したら私より強いかも」
レナが他人をそう評するのは、初めて聞いた。
―――――
午後、ルティアが俺のところに来た。
顔は完全にいつもの鋭い表情に戻っていた。朝の揺れは、跡形もなかった。
でも目が、朝とは違った。昨日の敵意でも、朝の動揺でもない。何かを決めた目だった。
「一つ聞く」
「どうぞ」
「昨夜、父を診せてくれると言った。あの話、まだ有効か」
「もちろん」
「……頼む」
最後の三文字が、小さかった。
―――――
ヴァルドの部屋に案内された。
族長は寝台に横たわっていた。
大柄な男だった。ルティアの身長を超える体躯。腕が太く、かつては相当な戦士だったことがわかる。角は大きくて黒い。ルティアの角と似ている。親子だ。
だが今は、顔色が灰色だった。頬がこけて、目の下が黒い。呼吸が浅かった。
ルティアが寝台の横に立った。俺に向かって話しているが、目は父親を見ていた。
「半年前に倒れた。それからずっとこうだ。意識はあるが、起き上がれない。食事もほとんど取れない」
リーナが寝台に近づいた。
「失礼します」
リーナはヴァルドの手を取って、両手で包んだ。目を閉じた。
淡い光が手のひらから滲んだ。
しばらく黙っていた。
「……魔力回路の衰弱ですね」リーナが目を開けた。「回路自体は壊れていません。ただ、回路を動かすための魔力が枯渇している。長期間、息吹が足りない状態で魔力を使い続けた結果、回路が空回りしている状態です」
「治せるのか」ルティアが聞いた。声が少し速かった。
「回路の修復はできます。ヴェルダークの兵士さんの古傷を治したのと同じ原理です。ただ」
「ただ?」
「回路を修復しても、魔力の元になる息吹が足りなければ、また同じことになります。でも——」
リーナは光の柱の方を見た。窓の向こうで、命の灯火が光っていた。
「今は、息吹がありますよね」
俺は頷いた。
「命の灯火がある。息吹は十分だ。回路を修復してもらえれば、あとは息吹が自然に満たしてくれる」
リーナはヴァルドに向き直った。
「時間がかかります。一日では終わりません。三日、できれば五日ください」
ルティアが俺を見た。
初めて、俺の目をまっすぐ見た。昨日の敵意ではなかった。怒りでもなかった。
縋るような目、でもなかった。
覚悟の目だった。
「……頼む」
「任せてくれ。リーナは腕がいい」
「人間の癒しが、魔族に効くのか」
「効く。リーナの力は種族を選ばない。それは俺が保証する」
ルティアは少し黙った。
「……お前の保証を信じる理由がない」
「じゃあリーナを信じてくれ。リーナは嘘をつけない人間だから」
リーナが少し驚いた顔をした。
ルティアはリーナを見た。リーナはルティアを見た。
しばらく見つめ合っていた。
「……わかった」ルティアは言った。「人間の聖女、父を頼む」
「はい」リーナは頷いた。「必ず」
―――――
リーナの治療が始まった。
ヴァルドの寝台の横に椅子を置いて、リーナが座った。両手をヴァルドの胸に当てて、ゆっくりと魔力回路をほぐしていく。
時間がかかる作業だった。俺たちは部屋を出た。
廊下で待っていると、ルティアが壁に背を預けて立っていた。腕を組んで。
俺とシアが並んで立った。沈黙が続いた。
ルティアが口を開いた。
「一つ聞く」
「どうぞ」
「お前は何者だ」
「カイン・アーヴェルだ。元人間の——」
「そういうことを聞いてるんじゃない」
ルティアは俺を見た。
「なぜこんなことをする。トーラはヴェルダークの傘下に入ったわけじゃない。同盟すら結んでいない。なのに命の灯火を作って、父の治療までして。見返りは何だ」
「見返りはない」
「嘘をつくな」
「嘘じゃない」
「見返りなしに、ここまでする人間がいるわけがない」
ルティアの声が、少し荒くなった。
「私は知っている。人間がどういう生き物か。百年間、我々の土地を奪い、草木を枯らし、墓を荒らしてきた。お前も人間だ。何を考えている」
俺は少し考えた。
「ルティア、一つだけ言っていいか」
「何だ」
「俺も人間に裏切られた。仲間だと思っていた奴らに嵌められて、糞尿をかぶせられて、息吹帯に捨てられた。人間のひどさは、お前より知ってるかもしれない」
ルティアが少し目を見開いた。
「でも魔族に拾われた。死にかけの俺を、種族が違うのに助けてくれた。あのとき、拾ってくれた兵士が言ったんだ。『死にかけを見捨てるのは、我らの流儀じゃない』って」
あの声を、今でも覚えている。
「俺もそうありたいだけだ。困ってる奴がいたら、助ける。それだけだよ。見返りとか恩返しとか、そういう話じゃない」
ルティアは黙った。
長い沈黙だった。
「……困ってる奴がいたら助ける、か」
「そうだ」
「そんな人間、見たことがない」
「いるよ。ここに」
ルティアは俺から目を逸らした。
壁を見ていた。
「……変な奴だ」
「よく言われる」
「褒めてない」
「知ってる」
ルティアは少し黙った。
それから、ほんの少しだけ——本当にほんの少しだけ——口元が緩んだ。
一瞬で戻った。鋭い顔に。
でも俺は見た。シアも見た。
シアが俺の袖をそっと引いた。小声で。
「……見た?」
「見た」
「…………」
シアは何も言わなかった。ただ、袖を引く力が少し強くなった。
―――――
夕方、リーナが部屋から出てきた。額に汗が浮いていた。
「今日の分は終わりました。回路の半分くらいまで修復できました」
「あと何日かかる」
「三日あれば」
ルティアがリーナの前に立った。
「父は」
「眠っています。回路の修復中は身体に負担がかかるので、今夜はゆっくり休ませてあげてください」
ルティアは頷いた。
リーナに何か言おうとした。口が開いて、閉じた。また開いた。
「……ありがとう」
小さな声だった。
リーナはにっこり笑った。
「まだお礼は早いですよ。治ってからです」
「治るのか。本当に」
「本当に」
ルティアはリーナを見た。敵意はなかった。疑いも、もうほとんどなかった。
「……お前、名前は」
「リーナです。リーナ・フォーレン」
「リーナ」ルティアは小さく繰り返した。「覚えた」
リーナは少し嬉しそうに笑った。
―――――
夜、宿舎の前で星を見ていた。
森の木々の隙間から、星がちらちらと見えた。
レナが横に来た。
「ルティア、変わってきたね」
「そうか?」
「朝は『気持ちが悪い』って言ってたのに、夕方には『ありがとう』って言ってた。一日でこれだけ変わる子、初めて見た」
「変わったんじゃなくて、元々ああいう子なんだと思う。硬い殻を被ってただけで」
「カインにしては鋭いこと言うね」
「にしては、は要らない」
レナは笑った。
シアが宿舎の入り口に立っていた。
「カイン」
「ん」
「明日も命の灯火の調整がある。早く寝ろ」
「はいはい」
「はいは一回」
「はい」
シアは宿舎の中に戻っていった。
レナが小声で言った。
「シアちゃん、ルティアのこと気にしてるよね」
「気にしてるか?」
「カインの隣に誰かが立つと、シアちゃんは必ず反応する。今日も広場でルティアがカインに近づいたとき、シアちゃんの足が半歩動いてた」
「……レナはなんでそんなことに気づくんだ」
「戦士だから。人の動きを見る癖がある」
レナは星を見上げた。
「カイン、あんたモテるね」
「モテてない」
「モテてるよ。シアちゃんと、リーナと」
「二人だけじゃないか」
「二人もいれば十分モテてるよ」
俺は何も言い返せなかった。
星が、静かに光っていた。
森の中で、命の灯火が脈打っていた。
あと三日。ヴァルドの治療が終わるまで。
この森で、もう少しだけ時間を過ごす。




