■ 第37話「誇り高き牙」
命の灯火をイルガに届けた翌週、次の目的地が決まった。
トーラ集落。南西の森の奥にある、もう一つの魔族の集落だ。
グラザードが地図を指しながら言った。
「トーラはヴェルダークより小さいが、歴史は古い。誇り高い一族が治めている。百年間、森の奥で王国軍から隠れ続けてきた」
「連絡は取れてるんですか」
「数ヶ月前に使者を送った。返事が来た。『助けは要らない』と」
「……要らない?」
「トーラの族長はそういう男だ。外に頼ることを嫌う。自分たちの力で守るという矜持がある」
ムルトゥスが補足した。
「族長の名はヴァルド。私とは旧い知り合いだ。頑固で、誇り高い。だが民思いの良い男だ」
「命の灯火の話は?」
「使者を通じて伝えた。だがヴァルドは『人間の魔王が作ったものなど信用できない』と言っているそうだ」
俺は少し考えた。
「直接行きます。見せた方が早い」
―――――
メンバーはカイン、シア、リーナ、レナの四人。
ソルスとミルは集落に残って命の灯火の維持を担当する。
馬で二日の距離だった。南西に向かって、森が深くなっていく。
一日目の夜、野営しながらシアが言った。
「トーラの族長には娘がいるらしい」
「娘?」
「名前はルティア。族長の一人娘で、父親が病に倒れてからは実質的に集落をまとめているという」
「若いのか」
「私たちと同じくらいだと聞いた」
レナが横から言った。
「強いらしいよ。トーラの戦士の中でも一番だって。剣も術式も使える」
「お前より?」
「知らない。でも楽しみ」レナはにやっと笑った。
リーナが少し不安そうな顔をしていた。
「人間の魔王を信用できないって言ってるんですよね。私、人間ですけど大丈夫ですか」
「大丈夫だよ。俺がいる」
「……はい」
―――――
二日目の午後、森の奥に入った。
木々が巨大だった。ヴェルダーク周辺の森とは比べものにならない。幹の太さが大人三人分はある。枝が空を覆って、地面に届く光が少ない。
だが暗くはなかった。
息吹が濃かった。木々の幹に沿って、薄い紫の光が脈打っている。地面からも霧のように息吹が漂っていた。
「濃いな」俺は呟いた。
「百年間、人間が踏み込んでいない森だ」シアが言った。「息吹が自然のまま残っている」
レナが急に足を止めた。
「来る」
低い声だった。レナの目が変わった。剣に手をかけていた。
次の瞬間、木の上から影が降ってきた。
速かった。レナが剣を抜くより速く、影が俺の前に着地した。
剣の切っ先が、俺の喉元に突きつけられていた。
―――――
女だった。
黒髪のロングヘアー。森の闇に溶けるような漆黒の髪が、腰まで流れている。深紅の瞳が、俺を射抜いていた。
角は左右に一本ずつ。漆黒で、磨き上げられたように艶がある。他の魔族の角より少し大きくて、わずかに後方に反っていた。
シアやリーナと同じくらいの背丈だが、立ち姿が違った。凛とした顔立ちで、眉が鋭く、唇が薄い。美しいというより、鋭い。刃物みたいな美しさだった。
鎧を纏っていた。軽装だが、要所を守る実戦向きの装備。使い込まれた片手剣を右手に持っている。
剣の先が、俺の喉から三センチのところにあった。
「お前が人間の魔王か」
低い声だった。怒りを抑えた、しかし隠しきれていない声。
「そうだけど、まず剣を——」
「黙れ」
深紅の瞳が、白銀の髪の間に覗く俺の角を見た。
「角を生やした人間。気持ちが悪い」
はっきり言った。遠慮のかけらもなかった。
「人間が魔族の王を名乗るなど、我々への冒涜だ。ヴェルダークの連中は何を考えている」
シアが動こうとした。俺が手で制した。
「お前がルティアか」
「そうだ。トーラ集落の族長代理、ルティア・ヴァン・トーラ。お前たちが来ることは聞いている。だから出迎えに来た」
「出迎えって、剣を突きつけるのが?」
「当然だ。我がトーラの森に、人間が足を踏み入れた。族長代理として確認する義務がある」
ルティアの目が、俺の後ろに移った。リーナを見た。
「もう一人、人間がいる。聖女か。王国の犬を連れてきたのか」
リーナが少し身構えた。
「リーナは俺の仲間だ。王国の犬じゃない」
「人間は人間だ。我々の森に人間を入れるわけにはいかない」
「じゃあ俺も入れないな。俺も人間だ」
ルティアが一瞬、詰まった。
「お前は……角がある」
「角があっても人間だよ。人間でも魔族でもない、よくわからない存在だ。それでも中に入れてくれないか」
ルティアは俺を睨んだ。しばらく無言が続いた。
レナが剣の柄に手をかけたまま、俺の横に立っていた。いつでも動ける体勢だった。
ルティアの目がレナに移った。
「そっちの女は」
「レナだ。ヴェルダークの戦士で——」
「強そうだな」
ルティアが初めて、敵意以外の感情を見せた。品定めする目だった。
「まあね」レナがにっと笑った。「あんたも強そう」
「当然だ。トーラで一番強い」
「へえ」
二人の間に、妙な空気が流れた。戦士同士の、無言の火花。
ルティアは剣を下ろした。
「……入れてやる。ただし、民に害を成したら斬る。人間の聖女も同じだ」
「ありがとう」
「礼は要らない」ルティアは踵を返した。「ついてこい。道に迷うぞ」
歩き出した。速かった。森の中を、枝も根も気にせずにすいすいと進んでいく。
シアが小声で言った。
「あの女、嫌い」
「まあまあ」
「『気持ちが悪い』って言ったの、聞こえた」
「聞こえてたか」
「聞こえた」
シアはそれ以上何も言わなかった。でも歩く速度が少し速くなっていた。
リーナは黙ってついてきていた。表情は穏やかだったが、少しだけ手を握りしめていた。
―――――
トーラ集落は、森の中に溶け込むように建っていた。
木々の間に石造りの家が点在している。ヴェルダークより建物が少なく、全体に静かだった。百人ほどの民がいるようだが、外を歩いている者は少ない。
疲弊していた。
ヴェルダークに来たばかりのころの空気に似ていた。希望が薄い場所の空気だ。
子どもの姿が、ほとんど見えなかった。
「子どもは」
「七人だ」ルティアが前を向いたまま答えた。「十年前は二十人いた」
俺は黙った。
「息吹が足りない。森が守ってくれているから王国軍には見つからないが、森の息吹だけでは民を養えない。子どもが弱く生まれて、育たない。母体が保たない」
ルティアの声は平坦だった。事実を述べているだけだった。でも、その平坦さの裏に何があるか、俺にはわかった。
「父は半年前に倒れた。息吹不足で魔力回路が衰弱した。族長の務めで息吹を民に分け与え続けて、自分の分が足りなくなった」
ルティアが立ち止まった。
振り返った。深紅の瞳が、まっすぐ俺を見た。
「だから言っておく。お前が本物の魔王なら、このトーラを救ってみろ。できないなら帰れ。口だけの王など要らない」
挑戦だった。
俺はルティアを見た。
「明日、命の灯火を作る。見てくれ」
「命の灯火?」
「見ればわかる」
ルティアは鼻を鳴らした。
「期待はしない」
そう言って歩き出した。
シアが小声で言った。
「あの女、絶対泣くよ。明日」
「なんでわかるんだ」
「あの目、ムルトゥス様と同じだ。希望を持ちたくて、でも裏切られるのが怖いから、期待しないって言ってる」
俺はシアを見た。シアは前を向いていた。
この子は、人の目を読むのがうまくなったな、と思った。
―――――
夜、宿舎に案内された。質素な部屋だった。壁に穴が空いている箇所もあった。
ルティアが立ち去る前に、俺は声をかけた。
「ルティア」
「何だ」
「族長——お父さんの容態を、リーナに診せてくれないか。リーナは癒しの力を持ってる。もしかしたら力になれるかもしれない」
ルティアの表情が、一瞬だけ揺れた。
それはほんの一瞬だった。すぐに鋭い目に戻った。
「……人間の力で、魔族の病が治るわけがない」
「試すだけだ。嫌なら断ってくれていい」
ルティアは黙った。長い沈黙だった。
「……明日だ。灯火とやらを見てから、考える」
それだけ言って、去っていった。
リーナが俺を見た。
「カインさん、ルティアさんのお父さん、診られるかもしれません」
「無理はしなくていいぞ」
「無理じゃないです。息吹不足で魔力回路が衰弱しているなら、回路の修復は私の専門です。ヴェルダークの兵士さんの腕と同じ原理だと思います」
リーナの目が真剣だった。癒しの力を誰かのために使いたいという、あの目だった。
「頼む」
「はい」
レナが欠伸をしながら言った。
「明日は忙しくなりそうだね」
「そうだな」
「あのルティアって子、強かったな。木の上から降ってきたとき、私でも反応できなかった」
「レナでも?」
「うん。あれは本物だよ。トーラで一番強いっていうの、嘘じゃない」
レナは少し笑った。
「でもね、カイン」
「ん」
「あの子、めちゃくちゃ怖がってるよ」
「怖がってる?」
「うん。強い人ってわかる。怖いから強く出てるんだ。集落を一人で背負って、父親が倒れて、子どもが減って。怖くてたまらないのに、族長代理だから弱さを見せられない」
レナは天井を見た。
「ちょっとかわいそうだなって思った」
俺はレナを見た。
レナは普段ぼんやりしているが、こういうとき、すごく鋭い。
「明日、ちゃんとやろう」
「うん」
シアが部屋の隅で術式書を読んでいた。聞いていないようで、全部聞いていた。
「カイン」
「ん」
「明日、ちゃんとやって。あの女を黙らせて」
「黙らせるって」
「『気持ちが悪い』の撤回、させるから」
シアは術式書に目を戻した。
俺は窓の外を見た。トーラの森が、暗い中で静かに息吹を漂わせていた。
明日、この集落に灯火を灯す。
ルティアが「期待はしない」と言った顔を、もう一度思い出した。
あの顔を、変えてやりたいと思った。




