■ 第34話「魔王の務め」
それは、朝食の席で始まった。
食堂でパンを齧っていると、壮年の魔族の男が俺の前に座った。見覚えがある。東の砦にいた兵士の一人だ。
「魔王様、少しお時間をいただけますか」
「どうぞ」
男は少し緊張した顔で、咳払いをした。
「実は、うちの娘のことなのですが」
「娘さんが何か」
「今年十八になります。器量よしで、術式の才もあります。魔王様が嫌でなければ、ぜひ——」
男は俺の目を真っ直ぐ見た。
「——子を成していただけないでしょうか」
パンが喉に詰まった。
「っ——げほっ」
シアが横で薬草茶を噴いた。
レナが「おっ」と言った。ミルが「えっ」と言った。ソルスが眼鏡を落とした。テオが「子を成すって何?」と聞いた。ガラがテオの耳を塞いだ。
リーナは固まっていた。パンを持ったまま、彫像みたいに動かなかった。
「あの、えっと」俺は咳き込みながら言った。「突然すぎて」
「申し訳ありません。でも魔王様の力を持った子どもが生まれれば、この集落の未来が——」
「フォルク」
ガラの声が飛んだ。鋭かった。
「朝飯の場でする話か。帰れ」
フォルクと呼ばれた男は「し、失礼しました」と頭を下げて、足早に去っていった。
食堂が静まった。
俺はパンを置いた。食欲が消えていた。
―――――
問題は、フォルクだけではなかったことだ。
その日のうちに、三件の同じ申し出があった。
二件目は広場で声をかけられた。五十代の女性で、「うちの孫娘を」と言った。
三件目は夕方、訓練場の帰りに若い女性本人が直接来た。「魔王様、私でよければ」と顔を真っ赤にして言った。後ろで友人たちがきゃーきゃー言っていた。
俺は全部断った。丁寧に。
でも断るたびに、相手の顔に浮かぶのは怒りじゃなかった。落胆だった。本気で望んでいるのだ。
―――――
夜、グラザードに聞いた。
「これは、何なんですか」
グラザードは腕を組んだ。
「魔族の風習だ。強い力を持つ者の血を残す。百年間、魔族は人口が減り続けてきた。強い子どもが生まれにくくなった。息吹が薄くなったせいだ」
「それはわかります。でも俺は——」
「魔王だ。魔族の中で最も強い力を持つ者だ。お前の子どもが強い力を持つ可能性は高い。民がそれを望むのは、自然なことだ」
「自然って言われても」
「俺は民の気持ちを説明しただけだ。強制するつもりはない」
グラザードは少し間を置いた。
「ただ、一つ言っておく。この風習を馬鹿にするな。民は必死だ。百年間、子どもが減り続けて、集落が縮んで、戦える者がいなくなって。お前の子が欲しいのは、下心じゃない。生存本能だ」
俺は黙った。
馬鹿になんてしていない。ただ、困っているだけだ。
「グラザード、俺は本当に魔族なんですか」
「角が生えている」
「でも人間として生まれた。宝玉で角が生えただけで、血が変わったかどうかわからない。俺の子どもが魔族として生まれるのか、人間として生まれるのか、誰にもわからない」
グラザードは俺を見た。
「わからないことが怖いか」
「怖いです」俺は正直に言った。「もし俺の子どもが人間として生まれたら。息吹に焼かれる身体で生まれたら。魔族の集落で生きていけない子どもを作ることになる。それは——」
言葉が詰まった。
「それは、無責任だと思う」
グラザードはしばらく黙っていた。
「……そうか」
「すみません。せっかく民が望んでくれているのに」
「謝るな」グラザードは静かに言った。「お前が考えているのは正しいことだ。わからないまま子を作るのは無責任だと、お前は言った。それは魔族の王として、まっとうな判断だ」
グラザードは立ち上がった。
「ムルトゥス殿に相談しろ。あの方なら、お前の身体のことを一番よく知っている」
―――――
ムルトゥスの部屋を訪ねた。
老長老は予言書を読んでいた。俺が入ると、金色の瞳が上がった。
「カイン殿。顔色が悪い」
「ちょっと、相談が」
事情を話した。
ムルトゥスは最後まで黙って聞いていた。
「なるほど」ムルトゥスは予言書を閉じた。「民の気持ちはわかる。だが、カイン殿の懸念ももっともだ」
「俺の子どもは、魔族として生まれますか」
「魔族として、かどうかはわからん」ムルトゥスは正直に言った。「前例がない。人間でありながら宝玉の力を受けて角を得た者は、歴史上あなたが初めてだ」
「じゃあ——」
「ただ」ムルトゥスは俺をまっすぐ見た。目の色が変わった。百年以上の知恵を込めた、確信の目だった。
「一つだけ、断言できることがある」
「断言?」
「カイン殿。あなたの身体は全身から息吹を取り込んでいる。角からも取り込んでいる。息吹はあなたの血にも骨にも溶け込んでいる。あなたにとって息吹は毒ではなく、恵みだ」
「はい」
「相手が魔族であれば、その者も息吹を恵みとして取り込む身体を持つ。息吹を恵みとしている者同士から生まれた子が、息吹を恵みとして取り込む体質で生まれることは——間違いない」
ムルトゥスの声に、迷いはなかった。
「角が生えるか、全身から取り込むか、その形は私にもわからん。だが息吹に焼かれる子が生まれることは、絶対にない。それだけは断言する」
俺は息を吐いた。知らないうちに止めていたらしい。
「……息吹に焼かれない。確実に」
「確実にだ。百年の研究と、この手であなたの身体を確かめた経験から言っている。息吹を恵みとする者の血は、息吹を拒絶しない。これは魔族の根本原理だ。例外はない」
それだけで、胸の中の一番重い石が一つ落ちた。
息吹に焼かれる子どもが生まれるかもしれない。それが一番怖かった。魔族の集落で生きていけない子を作ることが。
でも、それはない。ムルトゥスが断言した。
「ただし」ムルトゥスは続けた。「人間の身体の特徴も受け継ぐ可能性はある。角がないかもしれない。全身取り込みかもしれない。あなたと同じ、人間でも魔族でもない——新しい存在になるかもしれない」
新しい存在。
俺と同じ。人間でも魔族でもない何か。
「ムルトゥス様、それは——良いことなんですか」
ムルトゥスは少し考えた。
「悪いことだとは思わん。あなたは人間と魔族の橋渡しになると、予言が言っている。あなたの子どもが、その橋をもう一つ架けることになるかもしれない」
俺はしばらく黙っていた。
「……今は、まだ答えを出せません」
「急ぐ必要はない」ムルトゥスは穏やかに言った。「カイン殿、あなたは若い。子どものことは、大事な人が見つかってから考えても遅くない」
大事な人。
シアの顔が浮かんだ。リーナの顔が浮かんだ。
ムルトゥスは何も見逃さなかった。老人の目が、少しだけ笑った。
「もう見つかっておるようだがな」
「……いえ、その」
「私に隠しても無駄だぞ。百年以上生きた老人の目を甘く見るな」
俺は何も言い返せなかった。
―――――
宿舎に戻る途中、シアが廊下に立っていた。
腕を組んで、壁に背を預けて。リーナのキスの件で問い詰めに来たときと同じ姿勢だった。
「シア」
「聞いた」
「何を」
「全部」
シアの声は平坦だった。でも目が怒っていた。
「朝の食堂の件、午後の三件、全部聞いた」
「あれは俺が望んだことじゃ——」
「知ってる」シアは腕を解いた。「カインが断ったのも知ってる。全部断ったのも知ってる」
「じゃあ何で怒ってるんだ」
シアは少し黙った。
「怒ってない」
「怒ってるだろ」
「……怒ってるかもしれない。でもカインに怒ってるんじゃない」
「じゃあ誰に」
「わからない」シアは俯いた。「ただ……子どもを作ってくれって言われたカインが、困った顔をしてたのが……なんか……」
シアは言葉を探していた。
「むかつく」
「また、むかつく」
「むかつくものはむかつく」
俺はシアを見た。シアは俯いたまま、装束の裾をぎゅっと握っていた。
「シア」
「なに」
「俺は断ったよ。全部」
「知ってる」
「これからも断る。少なくとも今は。自分が何者かもわからないのに、子どもなんて作れない」
シアはゆっくり顔を上げた。
「……本当に?」
「本当に」
シアは俺を見た。銀色の瞳が、まっすぐ俺を見ていた。
「じゃあ一つだけ聞く」
「何」
「もし子どもを作るとしたら。相手は自分で選ぶの」
俺は少し考えた。
「当たり前だろ。風習だろうが王命だろうが、そういうことは自分で選ぶ」
シアは少し黙った。
それから、小さく——本当に小さく——頷いた。
「……そう」
「そうだよ」
「……わかった」
シアは壁から背を離した。歩き出した。
三歩進んで、立ち止まった。振り返らずに言った。
「カインが自分で選ぶなら、それでいい」
その声が、少しだけ柔らかかった。
シアは歩いていった。
俺はその背中を見ていた。
なんだろう。「それでいい」の言い方が、すごく大事なことを言われた気がした。
でも何が大事なのか、まだわからなかった。
―――――
リーナは翌朝、薬草茶を淹れてくれた。
「カインさん、昨日は大変だったみたいですね」
「聞いたのか」
「集落中の話題ですよ。『魔王様に子どもを作ってほしい』って」
「勘弁してくれ」
リーナはくすくす笑った。
「でも気持ちはわかります。強い王様の子どもが欲しいっていうのは、追い詰められた種族としては自然な願いですよね」
「グラザードにも同じこと言われた」
「グラザードさんは正しいです。でもカインさんが断ったのも正しい」
リーナは薬草茶を俺の前に置いた。
「カインさんは自分が何者かわからないって言ってましたよね。人間でも魔族でもない、新しい何かだって」
「うん」
「私はそれ、素敵だと思いますよ」
「素敵?」
「だって、誰にも決められないってことじゃないですか。人間の枠にも魔族の枠にも収まらない。だから自分で決められる。子どものことも、生き方のことも、全部」
リーナはにっこり笑った。
「カインさんらしいです」
俺は薬草茶を飲んだ。ガラの茶とは少し違う味だった。リーナが淹れると、苦みが少し柔らかくなる。
「リーナ」
「はい」
「ありがとう」
「何にですか」
「わからないけど、ありがとう」
リーナは笑った。草色の瞳が、三日月みたいに細くなった。
「どういたしまして」
―――――
午後、ガラのところに寄った。
「ガラさん、一つ聞いていいですか」
「なんだ」
「魔王の子を望む風習って、断り続けたら問題になりますか」
ガラはすり鉢を動かしながら答えた。
「問題にはならん。強制じゃない。ただ」
「ただ」
「民が望んでいるのは事実だ。お前さんが一生独り身を通すなら、いずれ別の方法を考えなきゃいけなくなる」
「別の方法って」
「後継者を育てる、とかな。血が繋がらなくても、力を継げる者を見つける方法は他にもある。宝玉がそうだったろう」
俺は少し考えた。
「焦らなくていい」ガラは言った。「でもいつかは向き合え。魔王ってのは、そういう仕事だ」
ガラは振り返らなかった。
「それと」
「何ですか」
「相手を選ぶときは、ちゃんと選べよ。薬草茶が美味いと言ってくれる子がいい」
俺は少し笑った。
「ガラさん、それリーナのことですか」
「私は何も言っとらん」
ガラはすり鉢を動かし続けた。背中が少しだけ揺れていた。笑っているのかもしれなかった。




