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ヴェルデ・碧の力 —パーティー全員に嵌められ魔族領に捨てられた俺、封印術が覚醒してなぜか魔族に救世主と崇められる—  作者: はやんえでぃ
第5章

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■ 第33話「名前」

 シアにキスされた翌日から、俺の周りの空気がおかしかった。


 訓練場では、シアが術式の指示を出すたびに耳が赤かった。声はいつも通りだったが、俺と目が合うたびに0.5秒だけ早く視線を逸らした。0.5秒。計ったわけじゃないけど、わかった。


 レナは朝から笑っていた。理由は聞いていない。聞くと面倒なことになる気がした。


 ミルは俺を見るたびに「にひひ」と笑った。何かを知っている顔だった。


 ソルスだけが通常運転で、術式のデータを持ってきて「ここの紋様の展開順を修正した方が効率が上がります」と言った。ありがたかった。


―――――


 昼休み、ガラの作業場に行くと、リーナがいた。


 薬草を刻んでいた。いつも通りの手つきだった。ガラの隣に座って、同じリズムで刻んでいる。


「おう」


「あ、カインさん。お昼ですか?」


「うん。リーナも食べに行くか」


「もう少しこれ終わらせてから行きます」


 普通だった。いつも通りだった。


 でもガラが俺をちらっと見た。何かを言いたそうな目だった。


 俺が出ていった後、背中越しにガラの声が聞こえた。


「お前さん、本当にいいのか」


「何がですか?」


「わかってるだろう」


 リーナの返事は聞こえなかった。


―――――


 午後、訓練場の片付けをしていると、リーナが来た。


「カインさん」


「ん」


「聞きました」


「何を」


「シアさんのこと」


 俺は手を止めた。


「……誰から」


「レナさんです。今朝、開口一番に教えてくれました。満面の笑みで」


 レナ。あいつ。


「その……リーナは」


「怒ってません」リーナは笑った。いつものふわりとした笑顔だった。でもその笑顔が、少しだけ頑張って作っているのが、俺にもわかった。


「怒る権利なんてないですし。シアさんとカインさんの間のことだから」


「リーナ」


「本当に大丈夫です」リーナは言った。「ちょっとだけ、胸が痛いですけど。でもそれは、カインさんのせいじゃないです」


 俺は何も言えなかった。


 リーナは空を見た。


「私は壁の前でキスしました。二千人の前で。感情が溢れて、突然。シアさんは夜の広場でキスしました。自分の気持ちと向き合って、自分から」


 リーナは俺を見た。


「どっちが勇気がいるか、わかりますか」


「……シアの方か」


「そうです。シアさんの方が、ずっと勇気がいったと思います」


 リーナの草色の瞳が、穏やかだった。


「だから私は、シアさんを嫌いになれません。むしろ、ちょっとだけ尊敬してます」


 俺はリーナを見た。


 この子は、強い。自分が傷ついているのに、相手の勇気を認められる。そういう強さは、俺にはない。


「リーナ」


「はい」


「……ありがとう」


「何にお礼を言われてるのかわかりませんけど、どういたしまして」


 リーナはにっこり笑って、ガラの作業場に戻っていった。


 その背中が少しだけ小さく見えたのは、気のせいだったかもしれない。


―――――


 夕方、シアがリーナの部屋の前で立ち止まっているのを見た。


 扉の前で、手を上げて、下ろして、また上げて。ノックしようか迷っているようだった。


 俺は物陰から見ていた。見ていいのかわからなかったけど、動けなかった。


 シアが三回目に手を上げたとき、扉が開いた。


 リーナが出てきた。洗濯物を持って出ようとしたところだったらしい。


 二人が顔を合わせた。


 シアが固まった。


 リーナも一瞬止まった。


「シアさん」


「……」


「どうしたんですか?」


 シアは黙っていた。何か言おうとして、言葉が出ないようだった。唇が動いて、止まって、また動いた。


「……昨日のこと」


「はい」


「私が、カインにキスした」


「聞きました」


「……」


 シアの耳が真っ赤だった。


「あなたに、言っておかなきゃいけないと思って」


「何をですか」


「……ごめんなさい、とかじゃない」


「うん」


「謝ることじゃないと思うから。でも、あなたに黙っているのは違うと思った」


 リーナは少し黙った。それからにっこり笑った。


「シアさん、ありがとうございます」


「何に対するありがとうなの」


「言いに来てくれたことに。黙ってないで、ちゃんと来てくれたことに」


 シアは俯いた。


「……あなたは怒らないの」


「怒りません」


「なぜ」


「だって、シアさんの気持ちはシアさんのものだから。誰にも文句を言う権利はないです」


 シアは少し黙った。


「……あなたは、カインのことが好きなの」


 リーナは少し間を置いた。


「はい。好きです」


「私も」


 シアが言った。小さな声だった。たぶん、生まれて初めて、自分の気持ちに名前をつけた瞬間だった。


「私も、カインのことが好き。……たぶん、ずっと前から」


 二人の間に静寂が落ちた。


 洗濯物を抱えたリーナと、手ぶらのシア。扉の前で向かい合って。


 リーナが先に口を開いた。


「じゃあ、ライバルですね」


「……そうなるの」


「なります。でも」リーナは笑った。「ライバルでも、友達にはなれると思います」


 シアは少し驚いた顔をした。


「……友達」


「だめですか?」


「……だめじゃない」


「じゃあ友達です。今日から」


「ミルみたいなこと言うな」


「ミルさんに教わりました」


 シアはため息をついた。でもその口元が、ほんの少し緩んでいた。


「……よろしく」


「よろしくお願いします、シアさん」


 リーナが手を差し出した。シアはそれを見て、少し迷って、握った。


 小さな手と、小さな手。


 俺は物陰でそれを見ていた。


 胸の奥が、じわりと温かくなった。


 二人とも、強いな、と思った。


 俺より、ずっと。


―――――


 夜、テオが走ってきた。


「カイン! 明日の訓練見に行っていい!?」


「いいよ」


「やった! レナさんの剣さばき見たいんだ!」


「レナのか。俺のは?」


「カインのは毎日見てるからいいよ」


 なんか複雑だった。


 テオが走り去った後、ガラが通りかかった。


「カイン」


「はい」


「女を二人泣かせるなよ」


「泣かせてないです」


「泣かせる前に言っとる」


 ガラはさっさと行ってしまった。


 俺はため息をついた。


 みんな、何かを知っているような目で俺を見る。俺だけがわかっていない。


 いや。


 わかっていないふりをしているのか、本当にわかっていないのか、自分でもわからなかった。


 ただ、シアの唇の感触は覚えていた。リーナの涙の味も覚えていた。


 二人とも、大事だった。


 それだけは、嘘じゃなかった。


―――――


 深夜、一人で壁を見に行った。白銀の髪が夜風に揺れた。


 白と紫の光が、暗闇の中で静かに輝いている。


 ここに来て、たくさんのものを手に入れた。居場所。仲間。信頼。力。


 王国にいたときは、何もなかった。三年間かけて積み上げたものを、一日で全部奪われた。


 今は違う。ここで積み上げたものは、誰にも奪われない。


 壁がある。仲間がいる。守りたいものがある。


 テオの笑顔。ガラの薬草茶。グラザードの背中。ムルトゥスの涙。レナの剣。ソルスの眼鏡。ミルの元気。


 シアの唇。リーナの涙。


 全部、ここにある。


 まだ終わっていない。枢機卿がいる。国王がいる。奪われた土地の三十分の二十九がまだ戻っていない。


 でも今夜は、それでいい。


 今夜は、ただこの壁を見ていたかった。


 ここが俺の場所だと、確かめたかった。


 風が吹いた。息吹の霧が、頬を撫でた。温かかった。


 最初からずっと、温かかった。

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