■ 第33話「名前」
シアにキスされた翌日から、俺の周りの空気がおかしかった。
訓練場では、シアが術式の指示を出すたびに耳が赤かった。声はいつも通りだったが、俺と目が合うたびに0.5秒だけ早く視線を逸らした。0.5秒。計ったわけじゃないけど、わかった。
レナは朝から笑っていた。理由は聞いていない。聞くと面倒なことになる気がした。
ミルは俺を見るたびに「にひひ」と笑った。何かを知っている顔だった。
ソルスだけが通常運転で、術式のデータを持ってきて「ここの紋様の展開順を修正した方が効率が上がります」と言った。ありがたかった。
―――――
昼休み、ガラの作業場に行くと、リーナがいた。
薬草を刻んでいた。いつも通りの手つきだった。ガラの隣に座って、同じリズムで刻んでいる。
「おう」
「あ、カインさん。お昼ですか?」
「うん。リーナも食べに行くか」
「もう少しこれ終わらせてから行きます」
普通だった。いつも通りだった。
でもガラが俺をちらっと見た。何かを言いたそうな目だった。
俺が出ていった後、背中越しにガラの声が聞こえた。
「お前さん、本当にいいのか」
「何がですか?」
「わかってるだろう」
リーナの返事は聞こえなかった。
―――――
午後、訓練場の片付けをしていると、リーナが来た。
「カインさん」
「ん」
「聞きました」
「何を」
「シアさんのこと」
俺は手を止めた。
「……誰から」
「レナさんです。今朝、開口一番に教えてくれました。満面の笑みで」
レナ。あいつ。
「その……リーナは」
「怒ってません」リーナは笑った。いつものふわりとした笑顔だった。でもその笑顔が、少しだけ頑張って作っているのが、俺にもわかった。
「怒る権利なんてないですし。シアさんとカインさんの間のことだから」
「リーナ」
「本当に大丈夫です」リーナは言った。「ちょっとだけ、胸が痛いですけど。でもそれは、カインさんのせいじゃないです」
俺は何も言えなかった。
リーナは空を見た。
「私は壁の前でキスしました。二千人の前で。感情が溢れて、突然。シアさんは夜の広場でキスしました。自分の気持ちと向き合って、自分から」
リーナは俺を見た。
「どっちが勇気がいるか、わかりますか」
「……シアの方か」
「そうです。シアさんの方が、ずっと勇気がいったと思います」
リーナの草色の瞳が、穏やかだった。
「だから私は、シアさんを嫌いになれません。むしろ、ちょっとだけ尊敬してます」
俺はリーナを見た。
この子は、強い。自分が傷ついているのに、相手の勇気を認められる。そういう強さは、俺にはない。
「リーナ」
「はい」
「……ありがとう」
「何にお礼を言われてるのかわかりませんけど、どういたしまして」
リーナはにっこり笑って、ガラの作業場に戻っていった。
その背中が少しだけ小さく見えたのは、気のせいだったかもしれない。
―――――
夕方、シアがリーナの部屋の前で立ち止まっているのを見た。
扉の前で、手を上げて、下ろして、また上げて。ノックしようか迷っているようだった。
俺は物陰から見ていた。見ていいのかわからなかったけど、動けなかった。
シアが三回目に手を上げたとき、扉が開いた。
リーナが出てきた。洗濯物を持って出ようとしたところだったらしい。
二人が顔を合わせた。
シアが固まった。
リーナも一瞬止まった。
「シアさん」
「……」
「どうしたんですか?」
シアは黙っていた。何か言おうとして、言葉が出ないようだった。唇が動いて、止まって、また動いた。
「……昨日のこと」
「はい」
「私が、カインにキスした」
「聞きました」
「……」
シアの耳が真っ赤だった。
「あなたに、言っておかなきゃいけないと思って」
「何をですか」
「……ごめんなさい、とかじゃない」
「うん」
「謝ることじゃないと思うから。でも、あなたに黙っているのは違うと思った」
リーナは少し黙った。それからにっこり笑った。
「シアさん、ありがとうございます」
「何に対するありがとうなの」
「言いに来てくれたことに。黙ってないで、ちゃんと来てくれたことに」
シアは俯いた。
「……あなたは怒らないの」
「怒りません」
「なぜ」
「だって、シアさんの気持ちはシアさんのものだから。誰にも文句を言う権利はないです」
シアは少し黙った。
「……あなたは、カインのことが好きなの」
リーナは少し間を置いた。
「はい。好きです」
「私も」
シアが言った。小さな声だった。たぶん、生まれて初めて、自分の気持ちに名前をつけた瞬間だった。
「私も、カインのことが好き。……たぶん、ずっと前から」
二人の間に静寂が落ちた。
洗濯物を抱えたリーナと、手ぶらのシア。扉の前で向かい合って。
リーナが先に口を開いた。
「じゃあ、ライバルですね」
「……そうなるの」
「なります。でも」リーナは笑った。「ライバルでも、友達にはなれると思います」
シアは少し驚いた顔をした。
「……友達」
「だめですか?」
「……だめじゃない」
「じゃあ友達です。今日から」
「ミルみたいなこと言うな」
「ミルさんに教わりました」
シアはため息をついた。でもその口元が、ほんの少し緩んでいた。
「……よろしく」
「よろしくお願いします、シアさん」
リーナが手を差し出した。シアはそれを見て、少し迷って、握った。
小さな手と、小さな手。
俺は物陰でそれを見ていた。
胸の奥が、じわりと温かくなった。
二人とも、強いな、と思った。
俺より、ずっと。
―――――
夜、テオが走ってきた。
「カイン! 明日の訓練見に行っていい!?」
「いいよ」
「やった! レナさんの剣さばき見たいんだ!」
「レナのか。俺のは?」
「カインのは毎日見てるからいいよ」
なんか複雑だった。
テオが走り去った後、ガラが通りかかった。
「カイン」
「はい」
「女を二人泣かせるなよ」
「泣かせてないです」
「泣かせる前に言っとる」
ガラはさっさと行ってしまった。
俺はため息をついた。
みんな、何かを知っているような目で俺を見る。俺だけがわかっていない。
いや。
わかっていないふりをしているのか、本当にわかっていないのか、自分でもわからなかった。
ただ、シアの唇の感触は覚えていた。リーナの涙の味も覚えていた。
二人とも、大事だった。
それだけは、嘘じゃなかった。
―――――
深夜、一人で壁を見に行った。白銀の髪が夜風に揺れた。
白と紫の光が、暗闇の中で静かに輝いている。
ここに来て、たくさんのものを手に入れた。居場所。仲間。信頼。力。
王国にいたときは、何もなかった。三年間かけて積み上げたものを、一日で全部奪われた。
今は違う。ここで積み上げたものは、誰にも奪われない。
壁がある。仲間がいる。守りたいものがある。
テオの笑顔。ガラの薬草茶。グラザードの背中。ムルトゥスの涙。レナの剣。ソルスの眼鏡。ミルの元気。
シアの唇。リーナの涙。
全部、ここにある。
まだ終わっていない。枢機卿がいる。国王がいる。奪われた土地の三十分の二十九がまだ戻っていない。
でも今夜は、それでいい。
今夜は、ただこの壁を見ていたかった。
ここが俺の場所だと、確かめたかった。
風が吹いた。息吹の霧が、頬を撫でた。温かかった。
最初からずっと、温かかった。




