■ 第31話「二人の王命」
穏やかな日々は、長くは続かなかった。
偵察からの報告が入ったのは、朝の軍議中だった。
「二人の人間が壁の外に現れました。王国の使節旗を持っています」
グラザードが俺を見た。
「交渉か」
「使節旗を持っているなら、表向きは外交だろう。出てみる」
シアが立ち上がった。
「私も行く」
「頼む」
―――――
壁を通り抜けた。
二人が待っていた。
一人は女だった。漆黒の髪を後ろで束ねて、魔術師の装束を纏っている。手に術式書を持っていた。整った顔に、冷たい目。
エレナだった。
もう一人は男だった。赤毛に、人懐っこそうな笑顔。でもその目が笑っていない。
ザックだった。
侵攻のとき、遠目には見ていた。でもこの距離で顔を合わせるのは、弾劾の日以来だった。
エレナは俺を見た。俺を見た。白銀の髪。碧い瞳。そして角。一瞬だけ表情が動いたが、すぐに戻した。さすがに計算が速い。
「カイン・アーヴェル」エレナは言った。「王命で来た。魔王の術式について調査する権限を与えられている」
「調査、か」
「あなたの封印術の構造を解析させてもらいたい。王国の安全保障のために必要なことだ」
ザックが横から笑顔で言った。
「久しぶりだな、カイン。元気そうじゃないか」
「そうだな」
「俺たちもさ、お前に酷いことしたと思ってるよ。でも王命だったから仕方なかった。わかってくれるよな?」
相変わらずだった。笑顔で言いながら目が笑っていない。弾劾のとき泣きそうな顔を作って「信じてたのにな、カイン」と言ったのと同じ口だ。
シアが俺の袖をそっと引いた。小声で言った。
「入れるの」
「入れる」
「なぜ」
「見たいものがある」
シアは一瞬俺を見て、それから頷いた。
俺はエレナとザックに向き直った。
「わかった。中に入れ」
エレナが少し驚いた顔をした。
「……いいのか」
「どうぞ。歓迎するよ」
二人は顔を見合わせた。簡単すぎると思ったのだろう。罠を疑っている。
罠じゃない。ただ、泳がせるだけだ。何を盗みに来たのか、何を調べに来たのか。自分から見せてもらう。
―――――
ヴェルダーク集落の中に入れた。
エレナは周りを見渡しながら歩いていた。息吹の核の光を見て、目が細くなった。術式書に何かを書き込んでいる。視線が鋭い。魔術師としての目で、すべてを記録しようとしていた。
ザックは愛想よく周りの魔族に挨拶しながら、視線だけが油断なく動いていた。建物の配置を確認している。出入口を数えている。何かを探している。
ソルスが俺の隣に来た。小声で言った。
「魔王様、あの二人、目的が違います」
「わかってる」
「エレナは術式の解析が目的。でもザックは」
「別の何かを探してる」
「宝玉だと思います。王国の上層部は魔王の宝玉の存在を知っている。それを奪えば魔王の力を無効化できると考えているのでは」
「そうだろうな。枢機卿グレゴリウスの入れ知恵だろう。あの男は魔族の歴史に詳しいはずだ」
ソルスは眼鏡を押し上げた。
「どうするんですか」
「好きにさせる。しばらく」
―――――
エレナを訓練場に案内した。
「ここで術式を展開してみせてほしい。観察させてもらう」
「いいよ」
俺は封印術を展開した。紋様が宙に浮かんだ。息吹と融合して、白と紫に光る。
エレナは目を細めた。術式書に書き込みながら、紋様の周りをゆっくり歩いた。指先で空中の紋様をなぞるように動かしている。読もうとしている。
「構造が……見えない」
「そうか」
「これは封印術の基本構造から完全に逸脱している。人間の術式体系では説明がつかない」
「息吹と融合しているから。人間の術式とは別物になってるんだよ」
「……解析させてくれ」
エレナは術式書を閉じて、自分の魔力を紋様に向けた。解析魔法だ。魔術師が術式の構造を読み取るための魔法。エレナはこれが得意だった。パーティー時代、俺の封印術を何度も「地味」「単純」と言いながら、裏では構造を分析していた。
紫色の光が紋様に触れた。
次の瞬間、エレナの顔が歪んだ。
「っ——」
「どうした」
「解析が……弾かれた」
「息吹と融合した術式は、人間の解析魔法では読めない」
エレナは唇を噛んだ。
「もう一度」
また弾かれた。三度目も同じだった。
エレナの顔が、少しずつ険しくなっていった。計算の目に、焦りが混じっていた。
「なぜ読めない。術式の構造上、解析不可能ということはあり得ない。すべての術式には読める形がある」
「人間の魔法の常識で測ろうとするから読めないんだ」
「……」
エレナは術式書を握りしめた。
俺はエレナを見た。
三年前のことを思い出していた。
「エレナ、一つ聞いていいか」
「何」
「弾劾のとき、俺の封印術に魔族由来の技法が混入していると嘘の鑑定をした。覚えてるか」
エレナの手が止まった。
「覚えてるな」
「……それは」
「俺はずっと考えてた。エレナはパーティーで一番頭がいい。俺の封印術が魔族由来じゃないことくらい、一目でわかったはずだ。なのに嘘の鑑定をした。なぜだ」
エレナは黙った。
「最初は理由がわからなかった。でもここに来て、息吹と融合した術式を作って、やっとわかった」
俺はエレナを見た。
「お前は俺の封印術を盗もうとしていたんだろう。パーティー時代からずっと。俺の術式を解析して、自分のものにしようとしていた。でもできなかった。独学で開発した術式だから、お前の理論では再現できなかった」
エレナの目が、わずかに揺れた。
「盗めないなら消すしかない。術式の持ち主ごと消せば、誰にも取られない。だから弾劾に加担した。アルベルトがリーナ目当てで俺を消したかったのを利用して、自分の目的を達成した。そういうことだったよな」
長い沈黙。
エレナは俺から目を逸らさなかった。冷たい目だった。でも、その奥に——ほんの一瞬——何かが揺れたのを、俺は見た。
「証拠はない」
「証拠はいらない。俺が知ってる。お前の目を見ればわかる」
俺は術式を展開した。今度はエレナに向けて。
「カイン、何を——」
「お前が欲しかったものを、永久に取り上げる」
封印術がエレナの魔力回路に定着した。
エレナの顔が青ざめた。
「魔力が……消えていく」
「永続だ。二度と魔法は使えない。解析魔法も、攻撃魔法も、何もかも」
エレナは自分の手を見た。指先から魔力の感覚が消えていくのがわかるのだろう。手が震えていた。
「お前は魔術師として生きてきた。術式の解析と開発が、お前の全てだった。それを奪う。俺にやったことと同じだ。お前は俺の三年間を奪った。俺はお前の全部を奪う」
エレナは何も言えなかった。
ただ、震える手で術式書を胸に抱えていた。
その術式書に何を書き込んでも、もう意味はない。エレナはそれをわかっていた。わかっていて、それでも手放せなかった。
「帰れ」
エレナは術式書を抱えたまま、訓練場を出ていった。振り返らなかった。
―――――
一方、ザックは集落の中を歩き回っていた。
ムルトゥスの部屋の前で立ち止まった。老長老が宝玉を管理している部屋だ。扉に独特の紋様が刻まれている。ザックの目が光った。魔族の中で唯一、紋様で守られた部屋。重要なものがあると、一目でわかる。
ザックは周りを確認した。誰もいないと思ったのだろう。
懐から細い金属の棒を取り出した。鍵開けの道具だ。盗賊の七つ道具。
扉の鍵穴に手を伸ばした。
「ザック」
俺の声に、ザックが飛び上がった。
振り返ると、俺が立っていた。
「カイン……いつからいた」
「最初から見てたよ。集落の入り口から、ずっと」
ザックは一瞬だけ固まった。次の瞬間、いつもの笑顔を作った。金属の棒を素早く懐に戻した。
「いやあ、ちょっと迷ってさ。なんの部屋か気になっただけだよ」
「鍵開けの道具を持って迷う人間はいないだろ」
ザックの笑顔が、一瞬だけ揺れた。
「宝玉を盗みに来たんだろ。枢機卿に命じられて」
「違う違う、そんなつもりは——」
「ザック」
俺はザックの目を見た。
「お前はいつもそうだ。笑顔で嘘をつく。弾劾のときもそうだった。泣きそうな顔を作って、俺が魔族の密使と接触していると証言した。見事な演技だった」
ザックの笑顔が、少しだけ崩れた。
「あの後、お前は俺の顔の前にしゃがんで言ったな。『荷物、もらっとくな。置いといても腐るだけだし』って」
ザックは黙った。
「リーナが手縫いで作ってくれたお守りも、あの中に入ってた。俺の全財産が。お前はそれを全部持っていった。死ぬ人間の荷物を漁る盗賊みたいに」
「それは——」
「そのお守り、まだ持ってるか」
沈黙。
「持ってるな。売れなかったんだろう。手縫いのお守りなんか金にならないから」
ザックは観念したように、懐から小さな布の袋を取り出した。
リーナのお守りだった。
色褪せていた。でも、リーナの手縫いの糸目がちゃんと残っていた。三年間、ザックの懐で揉まれて、くたくたになっていた。
俺はそれを受け取った。
手のひらの中に収まる、小さな布の袋。
旅の安全を願って、リーナが作ってくれたもの。
「……戻ってきた」
小さく呟いた。自分に向かって。
「俺の全財産も、ちゃんと返してもらう。今日じゃなくていい。でも必ず返せ」
「わかった……わかった。返す。だから——」
「だから、じゃない」
俺は封印術を展開した。
「カイン、待って——」
「お前は盗賊だ。盗むことでしか生きてこなかった。仲間の荷物を盗んで、証拠を捏造して、今日は宝玉を盗みに来た。全部同じだ」
封印術がザックに定着した。
「っ——手が、動かない」
「指先だけだ。他は動く。でもお前の盗賊としての技術は全部消えた。鍵を開ける指先、スリの手さばき、罠を解除する感覚。全部。二度と何も盗めない体になった」
ザックは自分の手を見た。指先が、わずかに震えていた。動かそうとしているのだろう。でも、精密な動きができなくなっているのがわかったのだろう。顔が歪んだ。
「お前は弾劾のとき、俺に向かって言ったな」俺は静かに言った。「『信じてたのにな、カイン』と。あれは演技だった。でも俺は本当に信じてたんだよ、ザック。仲間だと思ってた」
ザックは答えなかった。
笑顔が消えていた。作ることすらできなくなっていた。
―――――
二人を壁の外に送り出した。
エレナは何も言わなかった。ただ術式書を抱えて歩いていった。その背中が、いつもより小さく見えた。
ザックは振り返らなかった。笑顔を作る余裕もないまま、早足で去っていった。
俺はその背中を見送りながら、思った。
これで四人全員に会った。アルベルト。ダイゴ。エレナ。ザック。
アルベルトは勇者の称号と魔力と聖剣とリーナを失った。ダイゴは剣を振る腕を失った。エレナは魔法の全てを失った。ザックは盗賊の指先を失った。
全員、自分が一番大事にしていたものを奪われた。俺が三年間の全てを奪われたように。
それで帳尻が合うのかは、わからない。合わないのかもしれない。
でも、もう振り返らないことにした。
シアが俺の隣に来た。
「リーナのお守り、戻ってきたね」
「ああ」
俺は手の中のお守りを見た。小さくて、少し色褪せていた。でも、ちゃんとあった。
「リーナに渡すの?」
「いや、これは俺のものだ」
シアは少し黙った。
「……そっか」
俺はお守りを外套の内側にしまった。
胸の近くに。
グラザードが来た。
「四人全員に決着がついたな」
「ああ。残るは弾劾を演出した枢機卿グレゴリウスと、その上の国王だ」
「すぐに動くか」
「いや。それはもう少し後でいい」
「なぜ」
「今は取り戻す方が先だ。まだ三十分の一しか戻っていない」
グラザードは少し黙って、それから頷いた。
「……そうだな。魔王らしい答えだ」
奇跡の壁が、白と紫に輝いていた。
まだやることは、たくさんあった。




