■ 第30話「川を見に」
ダイゴが去ってから、数日が過ぎた。
穏やかな日々だった。壁を少しずつ広げて、息吹の核を増設して、集落の暮らしを整えていく。戦闘も侵攻もない、ただの日常。
こういう日が、一番ありがたかった。
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朝、ガラの作業場を覗くと、リーナがいた。
白い前掛けをして、薬草を刻んでいた。ガラの横に並んで、同じ姿勢で、同じ速さで刻んでいる。
「リーナ、いつから」
「三日前から手伝ってます」リーナは手を止めずに言った。「ガラさんが忙しそうだったから」
「忙しくない」ガラがすかさず言った。「こいつが勝手に来て座っただけだ」
「でもガラさん、昨日『リーナは筋がいい』って——」
「言ってない」
「言ってました」
「言ってない。黙って刻め」
リーナはくすくす笑いながら薬草を刻んだ。ガラは不機嫌そうな顔をしていたが、リーナの刻み方を見る目は柔らかかった。
俺はそれを見ながら思った。
リーナの癒しの力は戦場向きだ。大きな傷を一瞬で治す。でもガラの薬師の技術は日常向きだ。薬草茶で体調を整え、軟膏で小さな傷を癒し、妊婦の体調を見守る。
リーナがガラの技術を学んでいるということは、リーナが「戦場の道具」ではなく「日常の中で生きる人」になろうとしているということだ。
「ガラさん」俺は言った。
「なんだ」
「リーナのこと、よろしくお願いします」
ガラは振り返らなかった。
「頼まれなくても見てる」
リーナが嬉しそうに笑った。ガラが「笑うな、手が止まる」と言った。
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昼前、ムルトゥスのところに行った。
「ムルトゥス様、今日は天気がいいですよ」
「そうか」
「川を見に行きませんか」
ムルトゥスの手が、杖の上で止まった。
「……川、か」
「シアが見せたいと言っていました」
老人は少し黙っていた。金色の瞳が、遠くを見ていた。
「……行こう」
―――――
ムルトゥスは歩くのが遅かった。
杖をつきながら、一歩一歩、確かめるように歩く。俺が右側、シアが左側についた。
シアはムルトゥスの腕にそっと手を添えていた。支えるともなく支える、自然な仕草だった。小さい頃からずっとそうしてきたのだろう。
集落を出て、北東に向かった。壁を通り抜けた。壁の向こうは、以前とは全く違う景色だった。草が茂り、木々が葉を広げ、風に花の匂いが混じっていた。
ムルトゥスが立ち止まった。
「……これは」
「壁を押し広げた場所です。息吹が戻って、草木が生えてきました」
ムルトゥスは辺りを見回した。白く変色した角が、日の光を受けていた。
「ここは……昔、畑があった場所だ」
「そうなんですか」
「私が若い頃だ。ここで麦を育てていた。収穫の時期になると、みんなで歌を歌いながら刈り入れをした」
ムルトゥスの声が震えていた。でも歩みは止めなかった。
さらに進んだ。
川の音が聞こえてきた。
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川が見えた。
水が流れていた。息吹を含んだ水が、白と紫の光を帯びて、川底の石の間をさらさらと流れていた。川べりに草が生い茂って、小さな花が咲いていた。
ムルトゥスが立ち止まった。
杖を握る手が、震えていた。
「……この川だ」
掠れた声だった。
「私が子どもの頃、ここで泳いだ。魚を捕った。友と水をかけ合って笑った」
ムルトゥスは川べりまで歩いた。シアが支えていた。
老人は川の前にゆっくりと膝をついた。
皺だらけの手を、水に入れた。
しばらく、そのままだった。
「温かい」
小さな声だった。
「息吹が、水に溶けている。昔と同じだ。昔と、同じ温かさだ」
ムルトゥスの肩が震えた。
泣いていた。
百年以上を生きた老人が、川に手を浸して、子どものように泣いていた。
シアが隣に膝をついた。ムルトゥスの背中にそっと手を置いた。
「ムルトゥス様」
「シア……」
「見せたかったんです。ずっと」
シアの声も、少し震えていた。
「あなたが話してくれた川です。魚がたくさんいて、子どもたちが泳いでいた川。……カインが取り戻してくれました」
ムルトゥスはシアを見た。涙を拭おうともせず。
「ありがとう、シア。ありがとう、カイン殿」
……何も、言えなかった。こういうとき何て言えばいいんだ。
ただ、二人の後ろに立っていた。
川の音が、静かに流れていた。
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帰り道、ムルトゥスは行きよりも少しだけ足取りが軽かった。
「カイン殿」
「はい」
「老いぼれの涙を見せてしまった」
「いい涙でした」
「そうか」ムルトゥスは少し笑った。「百年ぶりに、この足であの川に行けた。もう思い残すことはないかもしれんな」
「まだ早いですよ。丘の花も見に行きましょう。他にも取り戻す場所がたくさんあります」
「欲張りだな、カイン殿は」
「魔王ですから」
ムルトゥスは声を出して笑った。初めて聞く笑い声だった。
シアが俺の隣を歩いていた。
「ムルトゥス様が笑ってる」シアが小さく言った。
「そうだな」
「私、あの笑い声、初めて聞いた」
シアの横顔が、柔らかかった。唇が緩んでいた。
「……ありがとう、カイン」
「俺は川を取り戻しただけだよ」
「それだけじゃない」シアは前を向いたまま言った。「ムルトゥス様の笑い声を、私に聞かせてくれた」
俺はシアを見た。シアは前を向いていた。白い耳が少し赤かった。
何か返そうとして、言葉が出なかった。
だから何も言わなかった。
三人で、ゆっくりと集落に帰った。
―――――
夕方、訓練場の片付けをしていると、シアとリーナが並んで歩いてくるのが見えた。
珍しい光景だった。
二人は何か話していた。距離はまだ少しある。でも、リーナが何か言ったとき、シアが小さく頷いた。
俺が近づくと、二人とも黙った。
「何の話してたんだ」
「何でもない」シアが言った。
「ガラさんの薬草茶の話です」リーナが笑顔で言った。
「嘘だ」
「嘘じゃないです」
シアが俺をちらっと見た。
「……嘘じゃない」
二人の言い分が一致していた。共犯の顔だった。
「まあいいけど」
俺は気にしないことにした。
でも後から聞いた話では、リーナがシアに「ムルトゥス様が川で泣いてたって聞いて、私も泣きそうになりました」と話しかけて、シアが少し黙った後に「……私も泣いた」と答えたらしい。
それが二人の、初めてのまともな会話だったそうだ。
レナが教えてくれた。
「シアちゃんがリーナに心を開きかけてるの、わかる?」
「わかるのか」
「女の子はわかるよ」
レナはにやっと笑った。
俺にはわからなかった。
でも、二人が並んで歩いていた景色は、悪くなかった。
―――――
夜、宿舎の縁側に一人で座っていた。
息吹の核が広場で静かに光っている。
今日はいい一日だった。戦闘もなく、侵攻もなく、ただ穏やかな日常があった。
ムルトゥスが川で泣いた。シアが笑った。リーナがガラと薬草を刻んでいた。テオが訓練場を走り回っていた。
こういう日が、続けばいいと思った。
でも、続かないことも知っていた。王国は必ずまた動く。今の静けさは、嵐の前だ。
だからこそ、こういう日を覚えておこうと思った。
何のために戦っているのか。誰を守っているのか。忘れないために。
奇跡の壁が、遠くで白と紫に輝いていた。




