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ヴェルデ・碧の力 —パーティー全員に嵌められ魔族領に捨てられた俺、封印術が覚醒してなぜか魔族に救世主と崇められる—  作者: はやんえでぃ
第4章

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■ 第30話「川を見に」

 ダイゴが去ってから、数日が過ぎた。


 穏やかな日々だった。壁を少しずつ広げて、息吹の核を増設して、集落の暮らしを整えていく。戦闘も侵攻もない、ただの日常。


 こういう日が、一番ありがたかった。


―――――


 朝、ガラの作業場を覗くと、リーナがいた。


 白い前掛けをして、薬草を刻んでいた。ガラの横に並んで、同じ姿勢で、同じ速さで刻んでいる。


「リーナ、いつから」


「三日前から手伝ってます」リーナは手を止めずに言った。「ガラさんが忙しそうだったから」


「忙しくない」ガラがすかさず言った。「こいつが勝手に来て座っただけだ」


「でもガラさん、昨日『リーナは筋がいい』って——」


「言ってない」


「言ってました」


「言ってない。黙って刻め」


 リーナはくすくす笑いながら薬草を刻んだ。ガラは不機嫌そうな顔をしていたが、リーナの刻み方を見る目は柔らかかった。


 俺はそれを見ながら思った。


 リーナの癒しの力は戦場向きだ。大きな傷を一瞬で治す。でもガラの薬師の技術は日常向きだ。薬草茶で体調を整え、軟膏で小さな傷を癒し、妊婦の体調を見守る。


 リーナがガラの技術を学んでいるということは、リーナが「戦場の道具」ではなく「日常の中で生きる人」になろうとしているということだ。


「ガラさん」俺は言った。


「なんだ」


「リーナのこと、よろしくお願いします」


 ガラは振り返らなかった。


「頼まれなくても見てる」


 リーナが嬉しそうに笑った。ガラが「笑うな、手が止まる」と言った。


―――――


 昼前、ムルトゥスのところに行った。


「ムルトゥス様、今日は天気がいいですよ」


「そうか」


「川を見に行きませんか」


 ムルトゥスの手が、杖の上で止まった。


「……川、か」


「シアが見せたいと言っていました」


 老人は少し黙っていた。金色の瞳が、遠くを見ていた。


「……行こう」


―――――


 ムルトゥスは歩くのが遅かった。


 杖をつきながら、一歩一歩、確かめるように歩く。俺が右側、シアが左側についた。


 シアはムルトゥスの腕にそっと手を添えていた。支えるともなく支える、自然な仕草だった。小さい頃からずっとそうしてきたのだろう。


 集落を出て、北東に向かった。壁を通り抜けた。壁の向こうは、以前とは全く違う景色だった。草が茂り、木々が葉を広げ、風に花の匂いが混じっていた。


 ムルトゥスが立ち止まった。


「……これは」


「壁を押し広げた場所です。息吹が戻って、草木が生えてきました」


 ムルトゥスは辺りを見回した。白く変色した角が、日の光を受けていた。


「ここは……昔、畑があった場所だ」


「そうなんですか」


「私が若い頃だ。ここで麦を育てていた。収穫の時期になると、みんなで歌を歌いながら刈り入れをした」


 ムルトゥスの声が震えていた。でも歩みは止めなかった。


 さらに進んだ。


 川の音が聞こえてきた。


―――――


 川が見えた。


 水が流れていた。息吹を含んだ水が、白と紫の光を帯びて、川底の石の間をさらさらと流れていた。川べりに草が生い茂って、小さな花が咲いていた。


 ムルトゥスが立ち止まった。


 杖を握る手が、震えていた。


「……この川だ」


 掠れた声だった。


「私が子どもの頃、ここで泳いだ。魚を捕った。友と水をかけ合って笑った」


 ムルトゥスは川べりまで歩いた。シアが支えていた。


 老人は川の前にゆっくりと膝をついた。


 皺だらけの手を、水に入れた。


 しばらく、そのままだった。


「温かい」


 小さな声だった。


「息吹が、水に溶けている。昔と同じだ。昔と、同じ温かさだ」


 ムルトゥスの肩が震えた。


 泣いていた。


 百年以上を生きた老人が、川に手を浸して、子どものように泣いていた。


 シアが隣に膝をついた。ムルトゥスの背中にそっと手を置いた。


「ムルトゥス様」


「シア……」


「見せたかったんです。ずっと」


 シアの声も、少し震えていた。


「あなたが話してくれた川です。魚がたくさんいて、子どもたちが泳いでいた川。……カインが取り戻してくれました」


 ムルトゥスはシアを見た。涙を拭おうともせず。


「ありがとう、シア。ありがとう、カイン殿」


 ……何も、言えなかった。こういうとき何て言えばいいんだ。


 ただ、二人の後ろに立っていた。


 川の音が、静かに流れていた。


―――――


 帰り道、ムルトゥスは行きよりも少しだけ足取りが軽かった。


「カイン殿」


「はい」


「老いぼれの涙を見せてしまった」


「いい涙でした」


「そうか」ムルトゥスは少し笑った。「百年ぶりに、この足であの川に行けた。もう思い残すことはないかもしれんな」


「まだ早いですよ。丘の花も見に行きましょう。他にも取り戻す場所がたくさんあります」


「欲張りだな、カイン殿は」


「魔王ですから」


 ムルトゥスは声を出して笑った。初めて聞く笑い声だった。


 シアが俺の隣を歩いていた。


「ムルトゥス様が笑ってる」シアが小さく言った。


「そうだな」


「私、あの笑い声、初めて聞いた」


 シアの横顔が、柔らかかった。唇が緩んでいた。


「……ありがとう、カイン」


「俺は川を取り戻しただけだよ」


「それだけじゃない」シアは前を向いたまま言った。「ムルトゥス様の笑い声を、私に聞かせてくれた」


 俺はシアを見た。シアは前を向いていた。白い耳が少し赤かった。


 何か返そうとして、言葉が出なかった。


 だから何も言わなかった。


 三人で、ゆっくりと集落に帰った。


―――――


 夕方、訓練場の片付けをしていると、シアとリーナが並んで歩いてくるのが見えた。


 珍しい光景だった。


 二人は何か話していた。距離はまだ少しある。でも、リーナが何か言ったとき、シアが小さく頷いた。


 俺が近づくと、二人とも黙った。


「何の話してたんだ」


「何でもない」シアが言った。


「ガラさんの薬草茶の話です」リーナが笑顔で言った。


「嘘だ」


「嘘じゃないです」


 シアが俺をちらっと見た。


「……嘘じゃない」


 二人の言い分が一致していた。共犯の顔だった。


「まあいいけど」


 俺は気にしないことにした。


 でも後から聞いた話では、リーナがシアに「ムルトゥス様が川で泣いてたって聞いて、私も泣きそうになりました」と話しかけて、シアが少し黙った後に「……私も泣いた」と答えたらしい。


 それが二人の、初めてのまともな会話だったそうだ。


 レナが教えてくれた。


「シアちゃんがリーナに心を開きかけてるの、わかる?」


「わかるのか」


「女の子はわかるよ」


 レナはにやっと笑った。


 俺にはわからなかった。


 でも、二人が並んで歩いていた景色は、悪くなかった。


―――――


 夜、宿舎の縁側に一人で座っていた。


 息吹の核が広場で静かに光っている。


 今日はいい一日だった。戦闘もなく、侵攻もなく、ただ穏やかな日常があった。


 ムルトゥスが川で泣いた。シアが笑った。リーナがガラと薬草を刻んでいた。テオが訓練場を走り回っていた。


 こういう日が、続けばいいと思った。


 でも、続かないことも知っていた。王国は必ずまた動く。今の静けさは、嵐の前だ。


 だからこそ、こういう日を覚えておこうと思った。


 何のために戦っているのか。誰を守っているのか。忘れないために。


 奇跡の壁が、遠くで白と紫に輝いていた。

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