■ 第3話「知った日」
翌朝、グラザードが迎えに来た。
「集落を案内する。お前にはここを知ってもらう必要がある」
「はい」
外に出た。朝の光。空気が澄んでいた。温かかった。息吹が満ちている空気。人間の国では感じたことのない温もり。
―――――
集落は小さかった。
思っていたより、ずっと小さかった。
「ここがヴェルダーク。魔族の王都だ」
「王都……」
石造りの家が数十軒。道は舗装されていない。畑は枯れかけている。子どもが走り回っているが、数が少ない。
「これが——王都なのか」
「ああ。百年前は、この十倍の広さがあった」
「十倍」
「領土の九割を人間に奪われた。残っているのはここと、いくつかの集落だけだ。壁がなかった頃は、毎年少しずつ削られていった。人間の軍が来るたびに、境界線が後退した」
グラザードが通りを歩いた。俺は後ろをついていった。
「あそこに見える建物が兵舎だ。五十人が詰めている」
「五十人で……」
「全軍だ。これが魔族軍の全て。百年前は三千人いた。今は五十人だ」
三千人が五十人。気が遠くなった。
「南の砦に二十人。東の見張り台に十人。残りの二十人がここで訓練と哨戒。——常に人間の侵攻に備えている」
「侵攻って——こっちから攻めたことは」
「一度もない」
グラザードが立ち止まった。俺を見た。
「百年間、一度も攻めたことはない。守っただけだ。領土を奪われ、仲間を殺され、追い詰められて——それでも守っただけだ」
「——守るだけで百年。攻めたことは一度もない。……どっちが化け物だ」
口に出していた。グラザードが少し目を見開いた。
「……お前、変わった人間だな」
「変わってるかもしれない。でも——今のは本心だ」
―――――
集落の奥に案内された。小さな広場。石碑があった。
「これは」
「戦没者の碑だ。百年間で命を落とした兵士の名前が刻んである」
石碑を見た。名前がびっしりと刻まれていた。何百人分。小さな文字で、隙間なく。
「全員——人間との戦いで」
「ああ。防衛戦だ。攻めてきた人間を押し返すために死んだ者たちだ。こちらから仕掛けたことは一度もない」
名前を読んだ。知らない名前。知らない人たち。でも一人一人が、ここで暮らして、戦って、死んだ。
「百年間、助けを求める声が届かなかった」
俺は石碑に手を置いた。
「届かなかったんじゃない。誰も聞こうとしなかったんだ」
グラザードが黙っていた。
―――――
次に案内されたのは、集落の端にある小さな小屋だった。
「ここは」
「記録庫だ」
中に入った。棚に古い書物が並んでいた。ルナリアが中にいた。書物の整理をしていた。
「カイン様。来てくださったんですね」
「案内してもらっている」
ルナリアが一冊の書物を開いた。
「これは——百年間の記録です。人間に何をされてきたか」
読んだ。
領土を奪われた記録。集落が焼かれた記録。子どもが連れ去られた記録。
女が攫われた記録。
老人が殺された記録。
「魔族は醜悪」という嘘を人間の国中に広め、魔族を人間以下の存在だと教え込んだ記録。
全部、人間がやったことだった。
「……俺は三年間、仲間だと思ってた奴らに裏切られた。この人たちは百年間、世界に裏切られてきた。——比べものにならない」
声が震えた。
ルナリアが俺を見ていた。悲しそうな目。でも責めていなかった。
「読まなくてもいいんですよ。辛いなら」
「読む。全部読む」
読んだ。最後まで。
吐きそうだった。
―――――
記録庫を出た。外の空気を吸った。
グラザードとルナリアが横にいた。
「……ごめんなさい」
「何?」
「一人の人間として——恥ずかしい。同じ人間がこれをやったと思うと。吐きそうだ」
グラザードが眉をひそめた。
「お前が謝ることじゃない」
「でも——」
「お前は知らなかった。知らなかったのだから、仕方がない」
ルナリアも頷いた。
「カイン様は何も悪くありません。知らなかったんですから」
——知らなかった。
その通りだ。知らなかった。教会が嘘を教えていた。魔族は醜悪だと。化け物だと。人間を襲う怪物だと。
知らなかった。
でも——
「知らなかったことはせいじゃないかもしれない。でも知った今、何もしないのは俺のせいだ」
グラザードが目を見開いた。ルナリアが息を飲んだ。
「今日、全部知った。百年間何をされてきたか。どれだけ苦しんできたか。五十人で守り続けてきたこと。一度も攻めなかったこと。——全部知った」
「……」
「ここに来なかったら、一生知らないまま死んでいた。知れてよかった。知らないままの方が楽だったとしても」
グラザードが俺を見ていた。鋭い目。でも——敵を見る目じゃなかった。
「お前に何ができる。人間一人に」
「わからない」
「わからないのに、何をする気だ」
「わからない。でも——」
俺は集落を見た。小さな集落。枯れかけた畑。少ない子ども。五十人の兵士。百年間守り続けてきた人たち。
そして——俺を助けてくれた人たち。包帯を巻いてくれた老婆。綺麗な女性。かっこいい青年。涙を流した老人。
「救世主なんて大げさなもんじゃない。百年間の苦しみを全部返すなんて、俺にはできない」
「……」
「でも——助けてもらった恩がある。ガラさんに包帯を巻いてもらった。ルナリアさんに運んでもらった。ムルトゥスさんに泣いてもらった。初めて——人間じゃない人たちに、人間として扱ってもらった」
声が震えた。でも止めなかった。
「その恩を返したい。百年分なんて無理だ。でも——ここにいる間は、この人たちを守る。俺にできること全部で」
グラザードが長い間、黙っていた。
ルナリアが泣いていた。また。静かに。
「……グラザードさん」
「……何だ」
「俺に、戦い方を教えてくれ。この人たちを守れるように」
グラザードの口元が——初めて、ほんの少しだけ緩んだ。
「……いいだろう。明日から訓練だ。レナをつける。あいつは厳しいが、いい教官だ」
「ありがとうございます」
「礼はいらん。——お前が本気なら、それでいい」
―――――
夜。宿舎の寝台に横になった。
天井を見ていた。
今日知ったことが、頭の中でぐるぐる回っていた。
百年間の記録。奪われた領土。殺された仲間。焼かれた集落。攫われた子ども。
全部、人間がやったこと。
俺は人間だ。人間として生まれた。人間として育った。
でも——人間が正しいとは、もう思えない。
知らなかったことはせいじゃないかもしれない。
でも知った今、何もしないのは俺のせいだ。
——これを、俺の決まりごとにする。
今日から。ずっと。
何があっても。




