■ 第28話「使者」
朝、ヴェルダーク集落(いつもの集落)の入り口が騒がしかった。
何事かと外に出ると、門番の兵士が一人の魔族を囲んでいた。
若い女だった。歳は十代後半か、二十歳前後か。髪は短く切られていて、赤みがかった茶色。角は細くて小さく、右の角の先が少し欠けていた。鎧を纏っているが、あちこちに傷がついていた。顔立ちは整っているが、今は疲労と焦りで青ざめていた。
その目が、俺を見た瞬間に大きく見開かれた。
「魔王様……! 本当にいた……!」
膝をついた。
「お願いします。イルガ集落を、助けてください」
―――――
話を聞いた。
名前はセラ。東の山岳地帯にあるイルガ集落から来た使者だという。
「イルガは山の中にありました。今まで王国軍に見つかっていなかった。でも先月、偵察に見つかって。王国軍にイルガ集落を占拠されてしまいました」
セラは唇を噛んだ。
「民は命からがら逃げました。今は山の洞窟に三十人ほどが隠れています。イルガ集落も土地も全部奪われたまま。食料もない。このままでは——」
「魔王様の噂を聞きました」セラは続けた。「息吹の壁を作って土地を取り戻しているという。人間でありながら魔族の王になったという。藁にもすがる思いで、包囲を抜けてここまで来ました」
グラザードが口を開いた。
「占拠している王国軍の規模は」
「百人ほどです」
「今、民はまだ無事か」
「洞窟に隠れているので、見つかってはいません。でも時間の問題です」
グラザードは俺を見た。
俺は少し考えた。
「行きます」
セラが顔を上げた。
「本当ですか」
「三十人が洞窟に隠れているなら、早い方がいい。明日出発しよう」
セラの目が、潤んだ。
「ありがとう……ございます……!」
「頭を下げなくていい。一緒に戦ってくれ」
セラは驚いた顔をした。それから、強く頷いた。
―――――
同時に、ソルスが別の報告を持ってきた。
「王国内で噂が広まっているようです。王都に残っている研究仲間から連絡が来ました」
「どんな噂が」
「カイン・アーヴェルが生きている。魔族の王になった。二千の軍勢を一人で止める壁を作った。聖女リーナが魔族側についた。勇者アルベルトが決闘で敗れて魔力を永久に失った」
「全部本当だな」
「全部本当です」ソルスは眼鏡を押し上げた。「庶民の間では『勇者に捨てられた男が魔王になった』という話が広まっていて、面白がっている者も多い。中には『アルベルト様より強いなら本物の英雄じゃないか』という声も出ているそうです」
シアが言った。
「王国の上層部にとっては都合が悪い。魔族は悪という教義が崩れ始めている」
「だからこそ」グラザードが続けた。「王国は焦って小さなイルガ集落を叩いてくる。力を見せつけるために」
俺はセラを見た。
「セラ、イルガ集落の人たちに伝えてくれ。必ず守る」
―――――
二日後、東の山岳地帯に着いた。
カイン、シア、リーナ、ソルス、ミル、セラの六人だった。
山の中腹から見下ろすと、イルガ集落が見えた。石造りの家が並んでいる。かつては温かい場所だったのだろう。でも今は王国軍の旗が立っていた。百人ほどの兵士がイルガ集落に駐留していた。
セラが洞窟に案内してくれた。三十人の魔族が身を潜めていた。老人、女、子ども。みんな疲れ果てた顔をしていた。セラが「魔王様が来てくれた」と言った瞬間、泣き出した者もいた。
「すぐ終わらせる」俺は言った。「見ていてくれ」
―――――
一人で山を下りた。
シアが「一人で行くのか」と言った。
「百人相手に一人で十分だよ」
「……わかった。でも無理はするな」
「しない」
リーナが「カインさん」と声をかけてきた。
「ん」
「……気をつけて」
「大丈夫だよ」
イルガ集落の入り口まで歩いていった。
門番の兵士が気づいた。
「誰だ、止まれ——」
俺は止まらなかった。
「お前ら、イルガ集落から出ていけ」
門番が剣を抜いた。後ろの兵士たちが気づき始めた。
「一人か? 正気か」
「正気だよ」
兵士たちが集まってきた。五人、十人、二十人。
「魔族の手先か。どこから来た」
「魔族領から来た。俺が魔王だ」
どっと笑いが起きた。
「魔王? こんな若い人間が?」
「角が生えてるぞ」
「混血か何かか」
俺は深く息を吸った。
宝玉から授かった力が、身体の中に満ちている。
封印術の紋様を展開した。でも今日は封印じゃない。攻撃転用だ。訓練でシアと何度も練習したやつ。
紋様が光った。
「なんだあれは——」
解き放った。
衝撃波が扇状に広がった。最前列の兵士十人が、まとめて吹き飛んだ。鎧ごと、武器ごと、数メートル先まで飛んで地面に叩きつけられた。
静寂。
誰も動けなかった。
「今のは何だ」誰かが言った。
俺は次の紋様を展開した。
「魔法使いを前に出せ」後衛から声がした。「術師だ、術式で——」
魔法使いが術式を放ってきた。俺は結界で弾いた。弾いた瞬間に封印術を返した。魔法使いの魔力回路が封じられた。
「魔力が……使えない」
「次」
俺は歩き続けた。
兵士たちが一斉に突っ込んできた。
封印術を横に広げた。前衛の三十人が足を封じられた。動けなくなった者たちの間を、俺はただ歩いた。
「化け物だ」誰かが言った。
「違う」俺は言った。「これが封印術だ。人間の術式体系の、正当な進化系だ」
後衛が逃げ始めた。
俺は紋様を地面に走らせた。逃げようとした兵士たちの足が止まった。
広場の真ん中に立った。百人の兵士が、全員動けなくなっていた。
静寂。
「全員の魔力回路を封じる」俺は言った。「抵抗しなければ、命は取らない。ただし封印は永続だ。魔力は二度と使えない」
「待て、待ってくれ——」
封印術を一斉展開した。
百の紋様が地面に広がって、一人一人に定着した。
全員の魔力が消えた。
静寂。
百人の兵士が、誰も動けないまま、誰も魔力を使えないまま、俺を見ていた。
「封印は解けない」俺は続けた。「王国に戻って伝えろ。魔族領に手を出すな。次に来たときも同じことをする」
俺は足の封印だけを解いた。
兵士たちが我先に逃げ出した。武器を捨てて、鎧を脱ぎ捨てて、山を下りていった。
あっという間だった。
―――――
山の上から見ていたセラが、山を駆け下りてきた。
「魔王様……! 一人で……百人を……!」
「終わったよ」
セラはイルガを見た。王国軍の旗が立っていた。
俺は旗を引き抜いた。地面に落とした。
「ここはお前たちのイルガだ。戻っていい」
セラは口を覆った。
洞窟から三十人の魔族が下りてきた。イルガを見た。自分たちの家を見た。
老人が地面に膝をついた。子どもが走り出した。母親が泣きながら家の扉を開いた。
リーナが俺の隣に来た。
「……すごかったです」
「大したことないよ」
「大したことあります」リーナはイルガを見た。「みんなの顔を見てください」
俺は見た。
泣いている者、笑っている者、抱き合っている者。
ヴェルダークが奇跡の壁を作ったとき、兵士が涙を流していた、あの光景と同じだった。
シアが俺の隣に来た。
「次は壁を張るぞ」
「そうだな」
「息吹の核も作る。イルガにも光を持ってこよう」
俺はシアを見た。シアはイルガを見ていた。その横顔が、柔らかかった。
「うん」俺は言った。「やろう」
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王国軍の生き残りが王都に戻った話は、後から伝わってきた。
百人が一人にやられた。魔力を全員封じられた。魔王は人間の姿をしているが、角が生えていて、一人で百人を相手にしても傷一つなかった——。
その噂は、王国中に広まったという。
ソルスの研究仲間から連絡が来た。
「王都が震えています」
俺はその報告を聞きながら、イルガに奇跡の壁を張り終えたところだった。
白と紫の光が、山の中腹に静かに輝いていた。




