■ 第24話「癒しの巫女」
リーナが魔族領に入った夜、集落がざわめいた。
ざわめき方が、敵意じゃなかった。
「人間が来た」という驚きの中に、「カイン様が連れてきた人間なら」という空気があった。
リーナは集落の入り口で立ち止まって、周りを見渡していた。
金色の髪が、夜の灯りを受けて柔らかく光っていた。肩より少し長め、さらさらのストレート。淡い青と白の修道服を纏った細くしなやかな身体。草色の瞳が、きょろきょろと辺りを見ている。顔立ちは柔らかくて優しい印象で、今は緊張しているのか少し強張っていた。
テオが一番最初に駆け寄ってきた。
「カインの知り合い?」
「そうだよ。リーナっていう」
「リーナさん! 俺テオ! よろしく!」
テオが満面の笑みで言った。リーナは少し驚いた顔をして、それからふわりと笑った。笑うと目が細くなって、草色の瞳が三日月みたいになった。
「よろしく、テオくん」
リーナはしゃがんでテオと目線を合わせた。テオの頭に手を伸ばして、角のあたりをそっと撫でた。
「立派な角だね」
テオが照れくさそうに笑った。リーナは子どもの扱いがうまかった。聖女として、たくさんの子どもを癒してきたからだろう。
ガラが来た。リーナをじろじろと見て、それから言った。
「人間か。まあ入れ。腹減ってるだろう」
リーナは呆然としていた。
―――――
夕食を食べながら、リーナはずっと周りを見ていた。
魔族たちが笑っていた。子どもたちが走り回っていた。家族が食卓を囲んでいた。老人が若い者に話しかけていた。
普通の、当たり前の光景だった。
でもリーナには、それが新鮮に見えるようだった。
「どうした」俺が聞くと、リーナは首を振った。
「いえ……なんか、あったかいなって思って」
「そうか」
「教会では……こういう感じ、なかったから」
リーナは小さく笑った。でもその笑いに、少し影があった。
俺は白銀の髪をかきあげた。何も聞かなかった。今夜は聞く夜じゃない気がした。
テオが「リーナさん、これ食べて!」と自分の皿からパンを一切れ渡した。
「え、いいの?」
「余ってるから!」
余ってなかった。テオの皿から減っていた。ガラが黙ってテオの皿にもう一切れ足していた。
リーナはパンを一口食べて、少し目を潤ませた。何も言わなかったけど、噛むのがゆっくりだった。
―――――
食事が終わった後、問題が起きた。
リーナの寝る場所がなかった。
集落の宿舎は魔族のために作られていて、空き部屋はあるが中は空っぽだった。ベッドも布団も何もない石の部屋。
グラザードが来て言った。
「空き部屋がある。明日までに家具を入れる。今夜は——」
「大丈夫です」リーナが即座に言った。「床があれば十分です」
グラザードが少し眉を動かした。
「石の床だ。冷える」
「教会の修行部屋も石の床でした。慣れてます」
さらっと言った。でもその「慣れてます」の軽さが、逆にずしりと重かった。
俺は自分の部屋から毛布を一枚持ってきた。
「これ使え」
「カインさんの毛布じゃないですか。寒くないですか」
「予備がある」
嘘だった。予備はない。でもリーナに石の床で毛布なしで寝させるわけにはいかない。
リーナは毛布を受け取った。両手で抱えて、少し頬ずりするみたいに顔を寄せた。
「……温かい」
小さな声だった。
リーナは空っぽの部屋に入っていった。石の床に毛布を敷いて、その上に横になるのだろう。
俺は自分の部屋に戻った。毛布がないから外套を被って寝た。
―――――
夜中にふと目が覚めた。
廊下から小さな音が聞こえた。
出てみると、ガラが立っていた。手に厚い敷布と枕を持っていた。
「ガラさん?」
「黙ってろ」ガラは小声で言った。「あの子の部屋に置いてくるだけだ。石の床に毛布一枚じゃ腰が冷える」
「……自分の寝具じゃないですか」
「老人は夜が早い。もう十分寝た。余ってるんだよ」
余ってなかった。ガラの部屋に予備の寝具があるとは思えない。
ガラはリーナの部屋の前まで行って、そっと扉を開けた。音を立てないように敷布と枕を置いて、扉を閉めた。
戻ってきたガラに、俺は言った。
「ありがとうございます」
「何がだ。寝ろ」
ガラはさっさと自分の部屋に戻っていった。
俺はしばらく廊下に立っていた。
この集落の人たちは、こうなんだ。昨日来たばかりの人間に、自分の寝具を差し出す。そういう人たちなんだ。
―――――
翌朝、リーナが起きてきたとき、目が少し赤かった。
「おはようございます」
「おはよう。眠れたか」
「夜中に誰かが敷布と枕を置いてくれたみたいで……目が覚めたら頭の下に枕があって」
リーナの声が少し震えていた。
「誰がくれたんですか」
「さあな」
俺はとぼけた。ガラは知られたくないだろう。
リーナは少し黙って、それから言った。
「……匂いで、わかりました。薬草の匂いがしたから」
ガラの作業場の方を見た。老婆はすり鉢を動かしていた。こちらを見もしなかった。
リーナは小さく頭を下げた。ガラには見えないくらいの、小さなお辞儀だった。
―――――
その日の朝から、集落が動き始めた。
男たちが木材を運んでいた。
「何をしてるんですか」リーナが聞いた。
「リーナの部屋に家具を作るって言って聞かなくて」
テオが木の板を抱えて走ってきた。
「リーナさんのベッド作ってる! 俺も手伝ってる!」
「テオ、重くない?」
「全然! 息吹のおかげで力強くなったから!」
リーナはその光景を見ていた。
見知らぬ魔族たちが、昨日来たばかりの人間のために、朝から家具を作っている。
「……どうして」
「どうしてって?」
「カインさんの大切な人なら、私たちにとっても大切な人だって」ガラが横から言った。薬草の束を抱えたまま、通りすがりに。「それだけだ」
リーナは口を覆った。
ガラは振り返らずに行ってしまった。
―――――
昼過ぎ、部屋にベッドと机と椅子が揃った。
集落の女たちが布団まで持ってきた。子どもたちが花を飾った。テオが「どう!」と胸を張っていた。
リーナは部屋の真ん中に立って、周りを見渡した。
しばらくして、静かに泣き始めた。
子どもたちがあたふたした。テオが「リーナさん?」と声をかけた。
「うれしくて、泣いてるんだよ」俺が言った。「悲しい涙じゃない」
テオは「そうなの?」という顔をしながら、リーナの手をそっと握った。
リーナはテオの頭を撫でた。泣きながら笑っていた。
―――――
午後、リーナが広場を歩いていると、小さな女の子が転んで膝を擦りむいた。
母親が駆け寄る前に、リーナが先にしゃがんでいた。
「大丈夫? 見せて」
リーナは女の子の膝に手を添えた。淡い光が手のひらから滲んだ。数秒で傷が塞がった。
女の子がぽかんとした。
「痛くない!」
「もう平気だよ」
母親が駆け寄ってきて、リーナを見た。人間だとわかって一瞬身構えたが、娘の膝を見て表情が変わった。
「治して、くださったの」
「大したことないです。小さな傷だから」
母親は深く頭を下げた。娘が「おねえちゃん、すごい!」と言った。
リーナは笑った。いつもの、ふわりとした笑顔だった。
その笑顔を見ていた集落の人たちの間で、何かが変わった気がした。「カイン様の知り合いだから」ではなく、「この人間は、いい人だ」という空気に。
―――――
夜、二人で宿舎の縁側に座った。
シアは今夜、予言書を持って奇跡の壁周辺の見回りに出ていた。侵攻に備えて、壁の状態を細かく確認しているらしい。
月が出ていた。息吹の核の光が、広場で静かに脈打っていた。
「カインさん」リーナが言った。
「ん」
「聞いてほしいことがあります」
「どうぞ」
リーナはしばらく黙っていた。月を見ていた。
「私、孤児院で育ったんです」
「そうか」
「五歳のとき、ある家に引き取られました。最初は嬉しかった。家族ができたと思って」
リーナの声が、静かになっていった。
「でも、その家が私を引き取ったのは、私の癒しの力が目当てだったんです。子どもの頃から、力が異常に強かったから」
俺は黙って聞いた。
「傷つけられました。治したら、また傷つけられた。私が治せるから、何度でも。ずっとそれが続いて」
リーナは膝の上で手を握った。
「逃げられなかったんです。どこに行っても連れ戻されて」
月明かりの中、リーナの横顔が静かだった。
「教会に保護されたのは、十二歳のときです。でも教会でも同じでした。怪我人が来るたびに呼ばれて、治して、ありがとうも言われずに部屋に戻される。力があることが、ずっと怖かった」
「……そうか」
「勇者パーティーに入ったのも、教会の命令でした。選択肢なんてなかった」
リーナは俺を見た。
「でもパーティーで、カインさんに会えたから。カインさんだけが、私のことを力として見なかった。ただの人間として話しかけてくれた。それが嬉しかった」
俺は何も言えなかった。
ただ当たり前のことをしていただけだった。でもリーナにとっては、それが特別だったんだ。
「ここに来て」リーナは続けた。「初めてわかったことがあります」
「何が」
「今日、女の子の膝を治したとき。あの子のお母さんが頭を下げてくれた。あの子が『おねえちゃんすごい』って言ってくれた。たったそれだけのことなのに、涙が出そうだった」
リーナは自分の手を見た。
「この力って、誰かを幸せにするためにあったんだって、やっとわかった気がしたんです」
「そうだよ」俺は言った。「その力は、そのためにあったんだと思う」
リーナは少し笑った。
「カインさんは、ここで本当に良かった。こんなに幸せそうな顔、パーティーにいたときは一度も見たことなかったから」
確かに、今は幸せなのかもしれない。
「リーナも、ここにいていい」俺は言った。「ここはそういう場所だから」
リーナはしばらく黙っていた。
それから、小さく頷いた。
「……はい」
月が、静かに照らしていた。
遠くで、奇跡の壁が白と紫に輝いていた。
壮絶な過去を持つ女が、初めて安心した顔をしていた。
それで、十分だと思った。




