■ 第23話「侵攻」
グラザードの予測は正確だった。
偵察兵が確認されてから六日後の朝、報告が入った。
「王国軍が南西から進軍中。規模——二千」
訓練場が静まった。
レナが剣を収めた。ソルスが術式書を閉じた。ミルが顔を強ばらせた。シアは俺を見た。
「二千か」
「先頭に勇者パーティーの旗がある」
勇者パーティー。
アルベルト。ダイゴ。エレナ。ザック。
「リーナは」
「聖女リーナも同行しているという報告だ」
俺は空を見た。
リーナ。お前も来るのか。
「いつ着く」
「明日の昼」
「よし。軍議を開きましょう」
―――――
緊急の軍議を開いた。
グラザードが地図を広げた。
「王国軍二千が南西から進軍している。偵察の報告通りだ。川の復活と領土拡張を見て、本格的に動いてきた」
将たちの顔が険しい。
「目的は二つだろう」ムルトゥスが言った。「一つは魔族領の制圧。もう一つは——土地を枯らすことだ。王国はいつもそうやってきた。大規模な枯死魔法を連打して、息吹を奪う」
「壁の内側は大丈夫だ。息吹の核があるから、外から枯らそうとしても効かない。でも壁の外、取り戻し途中の土地は——」
「やられる可能性がある」グラザードが言った。
俺は地図を見た。
「息吹の核の増設は先日済ませた。川沿いと丘の周辺は守れるはずだ。問題は、壁そのものへの直接攻撃だな」
「壁は人間の攻撃を弾く」シアが言った。「南部侵攻で確認済みだ。三百人規模なら問題ない」
「二千人だ」グラザードが静かに言った。「三百人と二千人では話が違う。勇者パーティーもいる。聖剣の一撃が壁に通じるかどうかは未知数だ」
沈黙が落ちた。
俺は考えた。
「壁が破られる可能性は低い。でもゼロじゃない。民は集落の中央に避難させた方がいいかもしれない」
ムルトゥスが首を振った。
「民は逃げないだろう。百年間逃げ続けてきた。やっと壁ができて、やっと魔王が立った。今度こそ自分たちの土地を守る——民はそう思っている」
グラザードが頷いた。
「避難は強制しない。民が来たいなら来い。全員で戦う。魔王の指揮に従え」
「俺が前に出ます。シアとレナがいればいい。壁に任せつつ、万が一のときは封印術で対処する」
将たちが頷いた。
―――――
翌日の昼。
地平線の向こうから、鉄の波が現れた。
二千の軍勢。陽光を反射する鎧が、きらきらと光っている。前衛の重装歩兵、中衛の槍兵、後方の弓兵と魔法使いの部隊。整然とした陣形だった。
壁の内側から見ても、その規模は圧倒的だった。
「多いな」レナが呟いた。
「二千だから」
「わかってるけど、実際に見ると違う」
ミルが顔を青ざめさせていた。ソルスは冷静に人数を数えていた。
軍勢の先頭に、旗が翻っていた。
金色の鎧。白銀の外套。
アルベルトだった。
隣にダイゴ、エレナ、ザックが並んでいる。そして——
白い修道服。金色の髪。
リーナだった。
俺はその姿を見た。遠くて顔は見えない。でも間違いなかった。
アルベルトが軍勢を止めた。壁を見た。白と紫の光の壁が、地平線まで続いている。
しばらく動かなかった。距離を測っているのだろう。
そして、動いた。
―――――
最初に来たのは枯死魔法だった。
後方の魔法使い部隊——百人はいた——が一斉に術式を展開した。黒い光が束になって、壁の外の土地に叩き込まれた。
枯死魔法。大地の生命力を根こそぎ奪い取る王国の戦術魔法だ。百年間、魔族の土地はこれで焼かれ続けてきた。
黒い光が地面に触れた。
草が枯れ始めた。取り戻したばかりの緑が、端から茶色に変わっていく。
「カイン!」シアが声を上げた。
俺は見ていた。
枯死魔法が広がる。草が枯れる。土が乾いていく。
——だが、そこで止まった。
息吹の核が光った。川沿いに置いた三つ、丘の麓に置いた二つ、境界線に沿って置いた五つ。十の核が一斉に脈打って、息吹を噴き出した。
枯れた草の根元から、緑が戻ってきた。黒い光に焼かれた端から、息吹が染み込んで、草が伸び直していく。
枯死の速度を、回復が上回っている。
「効いてない……」ソルスが呟いた。「枯死魔法を、息吹が押し返してる」
「息吹の核を増設しておいたからだ」シアが言った。「この範囲なら、百人の枯死魔法では追いつかない」
五射目で、魔法使い部隊が止まった。魔力切れだ。
―――――
次に来たのは物理攻撃だった。
前衛の重装歩兵が壁に向かって突撃してきた。鉄の鎧を纏った兵士が数百人、槍と盾を構えて走ってくる。
先頭の兵士が壁に槍を突き入れた。
弾かれた。槍が跳ね返って、兵士が尻餅をついた。
次の兵士が大盾で体当たりした。弾かれた。三人目が両手剣で斬りつけた。弾かれた。
壁はびくともしなかった。
後方からエレナが解析魔法を壁に向けて放った。紫色の光が壁に触れた瞬間、霧散した。
「解析も通らない……」エレナの声が遠くから聞こえた。
そしてアルベルトが自ら前に出た。
金の鎧が陽光に光る。聖剣を抜いた。光の勇者の切り札。王国最強の一撃。
壁に向かって全力で振り下ろした。
ドン、と重い音がした。壁が揺れた。
レナが「おっ」と声を上げた。シアの目が少し細くなった。
——だが、それだけだった。壁は立っていた。
アルベルトがもう一度斬った。三度。四度。五度。
全部弾かれた。六度目で聖剣の刃に亀裂が入った。
ダイゴが後ろから声をかけた。
「やめろ、アルベルト。剣が保たない」
アルベルトは肩で息をしていた。聖剣を下ろした。
―――――
膠着状態。
枯死魔法は効かない。物理攻撃は通らない。聖剣でも破れない。二千人の軍勢が、壁の前で止まっていた。
俺は壁の内側で、考えていた。
壁は守った。今回は。
でも——これで終わりじゃない。
俺は三年間、あいつらのパーティーにいた。アルベルトの性格を知っている。エレナの頭の回転を知っている。そして、あのパーティーの裏にいる人間を——あの勇者パーティーを作った人間を知っている。
枢機卿グレゴリウス。
表に出てこない男だ。でも全部あの男が動かしている。勇者パーティーの編成も、俺の弾劾も、この侵攻も。全部裏で糸を引いているのはあの男だ。パーティーにいた三年間で、それだけはわかった。
今日、壁が通らなかったと報告が行く。枢機卿はどうする。
諦めない。絶対に諦めない。あの男は、百年間魔族を潰し続けてきた人間だ。壁が通らないなら、次は倍の魔法使いを連れてくる。聖剣を強化して本気で壊しにくる。壁を解析する術式を開発する。何年かかっても、必ずやってくる。
壁に影響がなかったと知れば、次はもっと大規模に来る。何度でも。手段を変えて。枢機卿はそういう人間だ。
つまり——今日、守っただけじゃ足りない。
相手に、痛みを与えなければならない。
「この壁を攻めたらどうなるか」を、身をもって教えなければならない。
でなければ、何度でも来る。何度でも。
「シア」
「何」
「壁の外に出る」
シアが目を見開いた。
「何を——」
「相手に痛手を負わせる。今日守っただけじゃ終わらない。あいつらはまた来る。次はもっと準備して。次は倍の兵力で。裏にいるのは枢機卿だ。諦めない男だ」
「……」
「壁で守るだけじゃだめなんだ。攻めてきたらこうなるって、わからせないと」
シアは少し黙った。
「……何をする気」
「二千人を、全員止める」
「二千人……!?」
「南で五十人を止めた。あのときは魔力が空の状態で無理やり撃った。今は満タンだ。二千人でもやれる」
シアは俺を見た。銀色の瞳が揺れていた。
「……できるのか」
「やる」
「……リーナは」
「勇者パーティーには撃たない。リーナがいるから。後ろの二千の軍勢だけに、精密に当てる」
シアは少し間を置いた。
「……わかった。術式の精度は私が見る。行くぞ」
―――――
壁の外に出た。
二千人の軍勢が、目の前にいた。
風が吹いた。白銀の髪が揺れた。
アルベルトが俺を見た。驚いた顔をしていた。壁の外に出てくるとは思わなかったんだろう。
「カイン……!」
俺はアルベルトを見た。
金色の鎧。聖剣。勇者の出で立ち。三年間、俺の前を歩いていた男。俺を足手まといと呼んだ男。俺に糞尿をかぶせた男。
——懐かしくはなかった。
でも、感謝してることが一つだけある。
お前が俺を捨てたから、俺はここにいる。お前が俺を殺そうとしたから、俺はこの人たちに出会えた。
だから——ありがとう。そして、もう終わりだ。
「アルベルト」
俺の声が、平野に響いた。
「お前は、俺を足手まといと呼んだ」
アルベルトの表情が変わった。
「三年間、毎日のように言われた。お前の封印術は役に立たない。お前はいらない。お前がいるとパーティーの足を引っ張る」
二千人の兵士が、聞いていた。勇者と追放された男の、因縁。
「お前の言う通りだったよ、アルベルト。俺の封印術は、人間にとっては役に立たなかった」
俺は壁を指差した。白と紫に輝く、奇跡の壁。
「でも——この人たちにとっては違った」
壁の向こうに、民がいた。全員が見ていた。テオが最前列で拳を握りしめていた。ガラがすり鉢を抱えたまま立っていた。ムルトゥスが静かに微笑んでいた。グラザードが腕を組んで、俺の背中を見ていた。
「この壁は俺の封印術で作った。お前が役に立たないと呼んだ力で。この人たちの水を取り戻した。畑を取り戻した。川を蘇らせた。百年間奪われ続けた土地を、お前が捨てた力で取り戻したんだ」
アルベルトの顔が歪んだ。
「黙れ! 裏切り者が——」
「裏切り者はどっちだ」
静かに言った。怒鳴りはしなかった。
「でもそんなことはもうどうでもいい。お前に言いたいのは別のことだ」
俺はアルベルトの後ろを見た。二千の軍勢。その遥か後方にいるであろう、一人の男のことを考えた。
「お前の後ろにいる男——枢機卿グレゴリウス。あの男が全部動かしてるんだろう。俺の弾劾も。この侵攻も」
エレナの顔が強張った。ザックが目を逸らした。ダイゴだけが無表情だった。
「あの男は諦めない。壁が破れなかったと聞いたら、次は倍の兵を連れてくる。聖剣を強化してくる。新しい術式を開発してくる。何年かかっても、何十年かかっても。百年かけて魔族を潰してきた男だ。今更止まるわけがない」
俺は三年間、あのパーティーにいた。枢機卿の影を、ずっと感じていた。あの男がどういう人間か、一番よくわかっている。
「だから——今日、ここで教えてやる。壁を攻めたらどうなるか」
俺は術式を展開し始めた。
封印術の紋様が宙に浮かんだ。今までとは桁が違う。二千人を覆う規模の、精密な魔方陣。一人一人の位置に合わせた、二千の個別追従魔方陣。
ただし勇者パーティーの四人は除く。リーナがいるから。
紋様が広がっていく。白と紫の——
違った。
碧い光が、紋様に混じった。
角が光っていた。俺の角が。根元が白くて先が水色の角が、碧い光を帯びていた。瞳と同じ色。南の戦いで一度だけ出た、あの力。ヴェルデ。
あのときは限界を超えて無理やり出た。
今回は違う。
自分の意志で、ヴェルデを引き出している。身体の奥底から、力が湧き上がってくる。魔力回路が唸っている。全身が碧い光を帯びている。
——これが、俺の力だ。
足手まといの力じゃない。救世主の。魔王の力だ。
この人たちを守ると誓った男の力だ。
紋様が碧く染まった。白と紫の封印術じゃない。碧い封印術。俺だけの色の。
アルベルトが後退した。
「何だ……あの光は……」
「これが魔王の力だ。お前が捨てた男の、本当の力だ」
俺は平野を見た。二千人の軍勢。全員の足元に、碧い魔方陣が浮かんでいた。
シアが横で息を飲んだ。
「……二千の個別追従魔方陣を同時展開……? そんなの……見たことない……」
アルベルトが叫んだ。
「全軍、散開! 術式から——」
遅い。個別追従魔方陣はもう全員の足元に展開されている。逃げても追ってくる。それが「追従」だ。
俺は後ろを振り返った。
壁の内側に、全員がいた。
グラザードが腕を組んで立っていた。あの目だ。俺を信じている目。
テオが拳を握りしめていた。「やれ!」と口が動いていた。声は聞こえなかった。でもわかった。
ガラが静かに頷いた。
ムルトゥスが目を閉じて、祈るように手を組んでいた。
兵士たちが剣を掲げていた。
民が——男も女も老人も子どもも——壁の向こうから俺を見ていた。百年間、逃げ続けてきた人たち。やっと壁ができて、やっと魔王が立って、今日初めて自分たちの足で立って、敵を見ている人たち。
あの人たちが見てる。
あの人たちの目に、俺が映ってる。
白銀の髪。碧い光に包まれた角。碧い瞳。
——あの人たちの希望は、俺なんだ。
胸が熱くなった。
足手まといと呼ばれた男が、二千人の軍勢の前に立っている。後ろに百年間耐え続けた民を背負って。碧い光を纏って。
泣きそうだった。嬉しくて。こんな場所に立てていることが。こんな人たちに信じてもらえていることが。
——泣くな。今は泣くな。
魔王だろ。泣くのは全部終わってからだ。
今は——撃て!
碧い光が膨れ上がった。紋様が空を覆った。
俺は前を向いた。アルベルトの目を、真っ直ぐ見た。
三年間、俺の前を歩いていた男。俺の夢を踏み潰した男。
でもありがとう。お前がいなかったら、俺はここにいない。
「これが魔王だと伝えろ——アルベルトォォォォオオオオ!!」
碧が、爆ぜた。
一瞬だった。
二千の魔方陣が同時に起動した。一人一人の足元で碧い光が炸裂した。二千の爆発が、同時に。精密に。勇者パーティーの四人だけを避けて。
鎧が弾けた。魔力回路が永久に封じられた。二度と魔法は使えない。武器を持つ力すら消えた。
二千人が、同時に膝をついた。
―――――
静寂が、平野を覆った。
風だけが吹いていた。
二千人の兵士が、全員地面に倒れていた。鎧が重くて立てない。魔力が封じられて力が入らない。
一人、また一人と、兵士が鎧の留め具を外し始めた。重い鎧を脱ぎ捨てて、四つん這いで後退していく。
「化け物だ……」
「あの光は何だ……」
「魔王……あれが魔王か……」
鎧を脱ぎ捨てた兵士たちが、這うようにして逃げていく。二千人の軍勢が、鎧と武器を置き去りにして、ぼろぼろと崩れていった。
勇者パーティーの四人だけが、無傷で立っていた。
アルベルトが俺を見ていた。
信じられない、という顔だった。三年間、足手まといと呼んでいた男が、二千人の軍勢を一撃で沈めた。
「お前……何を……」
「帰れ、アルベルト」
俺は静かに言った。
「次来るなら、もっと連れてこい。何人来ても同じだ。壁は破れない。俺は止まらない」
「……っ」
「それと、お前の後ろにいる男に伝えろ。枢機卿グレゴリウスに」
アルベルトの目が揺れた。
「魔族領に手を出すな。次はもっと痛い目に遭う」
―――――
アルベルトが何か言おうとした。
そのとき、軍勢の中から一人が歩み出てきた。
白い修道服。両手を広げて、武器を持っていないことを示している。
リーナだった。
単独で、こちらに向かって歩いてきた。
アルベルトが叫んだ。「リーナ! 戻れ!」
リーナは止まらなかった。
息吹が濃くなっていく。リーナの歩みが少し遅くなった。でも止まらなかった。顔を歪めながら、一歩ずつ進んでいた。息吹は人間にとって毒だ。苦しいはずだ。それでもリーナは歩き続けていた。
「行く」
俺は走った。
シアが隣に来た。
「私も行く」
リーナが膝をついた。限界が近い。
俺はリーナの前に着いた。
リーナが顔を上げた。
その目が、大きく見開かれた。
「……カイン、さん?」
掠れた声だった。
「生きて……生きてたんですか……」
リーナの目から涙が溢れた。立ち上がろうとして、膝が崩れた。
俺はリーナの腕を掴んで支えた。
「息吹がつらいだろう。防護結界を纏わせる」
俺は即座に術式を展開した。封印術と息吹を組み合わせた特殊な結界。息吹だけを通さない、永続結界。リーナの身体を薄い光の膜が包んだ。白と紫の、奇跡の壁と同じ色の光だ。
リーナの呼吸が楽になった。顔に色が戻っていく。
「温かい」リーナが呟いた。
「これで壁の中でも生きていられる。息吹を含んだ水を飲んでも息吹だけが通らなくて水だけ通る。一生消えない」
リーナは自分の手を見た。光の膜が、肌に溶け込むように纏わりついていた。
それから、俺を見た。
涙が止まらなかった。でも目が笑っていた。泣いているのに、笑っていた。
「ずっと会いたかった」
声が震えていた。
「死んだと思ってた。瘴気帯に捨てられたって聞いて、亡骸も残らないって言われて。ずっと、ずっと——」
リーナの手が俺の外套を掴んだ。
「あのパーティーで、カインさんだけが私の心の光でした。カインさんだけが本当に信頼できる心を持っていた。ずっと、そう思ってた」
次の瞬間、リーナが俺の胸に飛び込んできた。
そのまま背伸びをして、唇が触れた。
一瞬だった。柔らかくて、温かくて、涙の味がした。
リーナが離れた。自分が何をしたか気づいたように、顔が耳まで真っ赤になった。
「す、すみません……っ、感情が溢れてしまって……っ」
俺は固まっていた。
二千人の——倒れた二千人と、勇者パーティーの前で。戦場のど真ん中で。
「え……ああ、いや……」
言葉が出てこなかった。
後ろで、空気が凍った。
振り返らなくてもわかった。シアがそこにいる。
シアは完全に静止していた。真白のショートボブが風に揺れている。顔はいつもの無表情だった。完璧な無表情だった。完璧すぎて、逆に何かが壊れているのがわかった。
シアの手が、装束の裾をぎゅっと握っていた。指先が白くなるくらいに。
「……とりあえず」シアが口を開いた。声は平坦だった。「戦場だ。話は後にしろ」
「そうだな」
「敵の前だ」
「わかってる」
「二千人が見てる」
「……倒れてるけどな」
シアが一瞬だけ俺を睨んだ。
リーナが顔を真っ赤にしたまま、小さく頭を下げた。
「ごめんなさい、本当に……場所も考えずに……」
シアはリーナをちらっと見た。一瞬だけ。何かを飲み込むように、小さく息を吐いた。
「……謝らなくていい。気持ちはわかる」
その一言が、シアの精一杯だったんだろうなと、俺は思った。
「亡骸を探しに来たんです」リーナは目を拭いた。「弔いたくて。それだけが理由で、この軍に同行しました」
「必要なかったな」
「はい」リーナは泣きながら笑った。「必要なかった。よかった」
リーナはシアを見た。
「この方は」
「シアだ。俺の補佐官で、一番信頼している人だ」
「リーナ・フォーレン。話は聞いている。カインの、唯一の味方だったと」
リーナは少し驚いた顔をした。
「私は……何もできなかった。止められなかった」
「でも泣いていたと聞いた。弾劾の日、本物の涙を流していたと」
リーナはまた目を潤ませた。
俺は言った。
「リーナ、来い。こっちに」
リーナは一度だけ王国軍の方を振り返った。鎧を脱ぎ捨てて逃げていく兵士たち。呆然と立っているアルベルト。
リーナは前を向いた。魔族領へ向かって、しっかりと歩き出した。
―――――
壁の前まで来た。リーナが恐る恐る手を伸ばした。壁に触れた。
すり抜けた。
防護結界のおかげだ。息吹だけを弾いて、リーナの身体はそのまま通れた。
「通れた……」
「当然だ」
勇者パーティーの前で、聖女リーナ・フォーレンが壁の向こうに消えた。
―――――
アルベルトの怒号が壁の外から聞こえた。
「リーナ! リーナ!!」
返事はなかった。リーナはもう壁の内側だ。
アルベルトは壁に向かって走ってきた。壁に手を叩きつけた。弾かれた。
「開けろ! リーナを返せ!」
俺は壁越しにアルベルトを見た。
「リーナは自分の意思で来た。返すも何もない」
「お前が誑かしたんだ! 昔からそうだ! リーナをお前が——」
「アルベルト」
俺は静かに言った。
「お前がリーナを手に入れるために、俺を消した。全部知ってる。リーナも知ってるだろう」
アルベルトが黙った。
壁の向こうで、残っていた兵士がその会話を聞いていた。
「帰れ。枢機卿に伝えろ。魔族領に手を出すな。次は勇者パーティーも含めて全員封じる」
アルベルトは壁を睨んだ。歯を食いしばっていた。
「……全軍、撤退」
鎧を失い、武器を失い、魔力を失った兵士たちが、ぼろぼろと歩き始めた。
夕日に照らされた裸の波が、ゆっくりと地平線に沈んでいった。
―――――
壁の内側で、俺はその背中を見送っていた。
シアが隣に来た。
「帰ったね」
「ああ」
「また来る?」
「……当分は来られないだろう。二千人の兵を一瞬で無力化されたんだ。あれを見た兵士は、もう魔族領に向かって歩けない」
「……カイン」
「ん」
「さっきの碧い光。あれは何」
「……わからない。でも、南のときと同じだ。本気を出すと出る」
「白と紫じゃなかった。あなただけの色だった」
シアは壁を見た。
「壁は保つ。でも今日で枢機卿は本気になる。対策を練ってくる」
「わかってる」
「それでも」シアは少し間を置いた。「今日のあの光を見たら、当分は近づけない」
俺は頷いた。
「リーナも来た」
「来た」
シアは少し黙った。
「……よかった」
その一言が、どっちの意味かはわからなかった。
でも俺は聞かなかった。
夕焼けが壁を赤く染めていた。
今日は守った。そして——初めて、相手に痛みを与えた。
守るだけじゃない。攻められたら、こうなると知らしめた。
これが魔王の仕事だ。




